―――――黒い津波が緑の平原を飲み込んでいく。
目を凝らせば、それはただの津波ではないのがわかる。
大地を蠢く無数の亜人。
鉄のすれる音、無数の足踏みの音が地響きとなって、大地を揺るがす。
耳障りな角笛が吹き鳴らされ、太鼓が大気を轟かした。
天を突くような槍の群れ。
その光景を城壁の上にいる兵士たちは目の当たりにし、絶望した。
到底、敵う相手ではない。
どんなに辛い訓練を積んだ兵士でも、歴戦の古参兵でも狼狽し、その場から逃げようとしていた。
「臆するな! 踏みとどまれ!」
大声を張り上げたのは銀髪の美しい女性だった。
重武装の兵士とは違い、布製の青色に染めた軍服に一本の剣。それだけで、身を守る防具は何もなかった。
盾さえも持たない彼女は目前に迫り来る大軍をみて恐れることなく、むしろ自ら城壁の胸壁から身を乗り出してみせた。
そんな彼女の近くに白髭の兵士が駆け寄る。
「ベルナ様! 今すぐに撤退のご命令を!」
その声に周りにいる兵士は期待を持った目でベルナを見つめる。
「この兵力では持ちこたえることができません! すぐに撤退のご命令を!」
兵士の懇願にベルナはギロリと睨みつけ、胸壁から降りるとその兵士の顔に自らの顔を寄せた。
吐息が鼻にかかるほど近く、ベルナは顔を近づける。その鋭い眼光に兵士はたじろいだ。
ベルナは口を開く。
「いいか、よく聞け。我らに撤退という言葉は存在しない。ここで勝つか、死ぬかだ」
「ですが―――」
また何かを言おうとした瞬間、左手で兵士ののどぶえをつかみ、細身の女性とは思えないほどの腕力で、持ち上げ、睨み上げた。
「貴様、この私に命令できる立場なのか?」
怒りに声が震えていた。
沸々と煮えるように彼女の顔は険しくなって左手に力が入っていく。
ミシミシと、骨がきしむ音がした。
「うぐぐ…」
兵士は呼吸ができず、顔を真っ赤にして手足をバタバタと動かす。
見かねた周りの兵士が声をかけてた。
「ベルナ様! このままでは死んでしまいます!」
「おやめください! どうか、ベルナ様!」
複数の兵士が慌てて、彼女を止めに入る。
そこでようやく、ベルナは左手を離した。
ドサッと地面に落とされた兵士はむせかえる。
すると、今度は兵士の頭を踏みつけた。
ミシミシと頭がきしむ音が響く。
周囲を見渡す。
まるで見せしめのようにベルナは何度も兵士の頭を踏みつけた。
その異様な光景に、他の兵士たちは恐怖で何も言えなくなる。
「よいか! 貴様らへの命令はただ一つ! ここを死守することだ。もし、持ち場を離れた者がいれば、この私が斬り伏せる! よいか?」
彼女の言葉に誰もが困惑した顔で見つめていた。
「返事はどうした?! 返事は!?」
彼女は怒鳴り声をあげる。
兵士たちはその声に怯え、ただただ返事をするしかなかった。
そして、ベルナはようやく兵士から足を退けた。
踏みつけられた頭を抑えながら兵士は決められた配置場所へと戻る。
ベルナは再び、胸壁に躍り出ると城塞へ迫りくる軍勢を睨みつけた。
その軍勢は、オーク、ゴブリン、トロールなどの人型をした亜人の軍勢。
数にして、およそ十万ほど。
それに対して、彼女が率いる軍勢は二千ほどしかなかった。
兵力の差は明らか。
まともに戦えばどうなるのか、誰もが想像がつく。
だが、ベルナの表情に恐れはない。
それどころか、彼女はこの状況をどこか楽しんでいるようにも見えた。
彼女は大きく息を吸い込んだ後、号令をかける。
「弓隊! 構え!!」
彼女の号令と共に城壁の上にいる兵士らが弓を構えた。
「やつらを地獄に叩き落せ! 放て!」
ベルナの号令と共に、矢の雨が降り注ぐ。
その矢は、魔物の軍勢に次々と突き刺さった。だが、それでも軍勢は止まらない。
魔物たちは城壁の近くまでやってくると大きな盾を構え、矢を防ぎ、石弓で反撃に打って出た。
石弓の攻撃はベルナへと集中する。
彼女の頬を何度も掠めた。それでも彼女は動じない。
避ける素振りも見せなかった。
すると一本の矢が目の前に飛んでくる。
直撃コースだったが、彼女はニヤリと笑みを浮かべると目を瞑って見せた。
まるでよけなくてもいいと言わんばかりに。
すると目の前で突然、風の塊が現れ、矢を吹き飛ばした。
それに自慢げに両手を広げて見せ、兵士へ振り返る。
背中を敵の目の前で見せるなど正気の沙汰ではなかった。
背後では矢が次々に飛んできては、弾き飛ばされていく。
そんな中で彼女は叫んだ。
「兵士諸君! 私をよく見よ! これが女神の加護だ!」
彼女の声に合わせるように突風が起き、砂埃を巻き上げる。
「しかとその目でとらえよ! この私こそ、選ばれし勇者なのだ!」
そういうと左手を掲げた。
すると掲げた手のひらに風が集まり始め、やがてそれは一つの球体へと姿を変えた。
その風は渦を巻き、彼女の手のひらで宙を漂っている。
目前に迫る亜人の集団を見下ろしたあと、その風を亜人の群れへと投げつけた。
その風は亜人の集団の中心で弾け、爆風を撒き散らす。
亜人たちはその爆風に耐えられず、吹き飛ばされ、宙を舞った。
亜人たちの悲鳴が起きた。
恐怖に狼狽し、逃げ惑う。
その亜人たちをさらに追い討ちをかけるように風は襲う。
まるで、小さな竜巻が暴れているかのように、巻き込まれた亜人たちは宙を舞い、そしてその命を奪われていく。
「見よ! 亜人どもの泣き叫ぶ姿を! これこそ、女神の怒り!」
兵士は彼女の行動に困惑した。
勇者の力を目の前で示されたこと、亜人たちが次々に死んでいく姿をみれば、心強くなるだろう。
頼もしい、救世主だ、と思うはずだ。
だが、彼女の姿を見れば、誰もが目を疑う。
亜人たちを容赦なく、殺し、死んでいくの彼女はを楽しんでいるのだ。
クスクスと漏れる笑い声はまるで、悪魔と同じだった。
「勇者は死なない。この世に魔物がいる限り。醜悪なやつらが滅ぶその日まで、私の天命は尽き――――」
すると突然、彼女の右頬にめがけて矢が飛んできた。
寸前のことろで、風の壁によって防ぐ。
しかし、楽しんでいたところを邪魔されたことで機嫌を害したのか、矢が飛んできたベルナはギロリとみた。
そこにはコボルトの集団が慌てて次の矢をつがえようとしている最中だった。
「私の……私の……言葉を遮ぎるなど……神の言葉、神の代弁者である私の言葉を……さえぎるなど何人も許されない。あってはならないのだ」
そういって、右手に持つ剣を力強く振り払う。
すると風の塊が刃のように発生し、コボルト達を襲う。
数十匹のコボルトの胴体が一瞬で、真っ二つになり、赤い血が噴き出す。
そのまま、体を前へと倒し、胸壁から飛び降りた。
地面すれすれのことろで、風が彼女の体を浮かせ、ゆっくりと地上に下ろしていく。
そして、地面に足が着いた瞬間、剣を構える。
「貴様ら全員、皆殺しだ。女神のスティーファ様の名において。全軍我に続け!! 突撃―――――ッ!!」
ベルナがそう言うと同時に魔物の軍勢へ単身で飛び込んでいく。
その行動に兵士は慌ててふためた。
「単身で突っ込んだぞ!?」
「バカなのか」
動揺する中、部隊長の男は胸壁から身を乗り出し、ベルナの姿を捉えたあと剣を掲げ、城壁の上にいる弓兵に号令する。
「弓隊、剣を抜け!! 勇者を守れ!」
そう言いながら、階段を駆け降りていった。部隊長の命令に従うように弓隊は弓を投げ捨て、剣抜き、後に続いた。
城門の前で待機していたフェレン聖騎士たちもすぐさま、門を開け放つと一斉に剣を抜き、叫んだ。
「勇者様をお守りせよ!! 犠牲はいとわぬ! 全軍、突撃!! 女神のご加護があらんことを!」
フェレン聖騎士たとは「ご加護があらんことを!」と口々に叫ぶとベルナに続けとばかり城門から飛び出していく。