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第3話 危篤の九条凛


前世で亡くなった後、魂がさまよい続けた記憶が、早川奈緒の指先に力を込めさせた。


三十分後、車はひんやりとした古民家の前に停まった。


「奥様、凛様は二階においでです。」執事が丁寧に頭を下げる。


早川奈緒は一人で屋敷に足を踏み入れた。古民家の中は重苦しい静けさに包まれ、広間には高価な骨董品が整然と並び、空気さえも張り詰めていた。彼女は迷うことなく階段を上がる。


部屋の中、逆光の中に高身長の男性が立っていた。差し込む陽光が彼の端正な輪郭を際立たせ、顔はよく見えないが、その圧倒的な存在感は息苦しいほどだ。


「凛?」奈緒が声をかける。


男性が振り返った。深い漆黒の瞳が冷たく彼女を見下ろし、まるで無関心な物を見るかのような視線だった。彼は小さくうなずき、無言の威圧感が部屋に満ちる。


「以喜事驱散灾祸──これは父の考えだ。本気にする必要はない。戸籍に入ることも、結婚式も不要だ。俺が死んだら、好きにしてくれて構わない。」その声は低くかすれ、病の気配を隠せない。


奈緒は一瞬、表情を曇らせた。前世では九条家に嫁ぐ前に命を落とし、この九条家の当主については、二十八歳で難病を患っているとしか知らなかった。外からはその実態を知る者はいない。雲の上の存在のように、神秘的で手の届かない人だった。


奈緒が返答する間もなく、九条凛は激しく咳き込んだ。大きな体が揺れ、空気に一気に血の匂いが広がる。焚かれていたお香さえも、その生臭さを覆い隠せない。


「奥様、お部屋へお戻りください!」執事が慌てて駆け寄る。


だが奈緒は目を細め、執事をすり抜けるようにして凛へと近づいた。近づくにつれ、血の匂いがさらに濃くなっていく。彼はまだ吐血してはいないものの、今にも口から血が溢れそうな気配だ。


凛は奈緒の視線を感じ、冷たい目で睨みつけた。


「部屋へ戻れ。」声はさらにかすれ、背を向けて歩き出そうとするが、その足取りはすでにおぼつかない。


すれ違いざま、奈緒が突然動いた。電光石火のごとく彼の腕をつかみ、もう片方の手でシャツの前を掴んで一気に引き裂いた。


「ビリッ——!」と布が裂ける音が響き、男の褐色の胸板が露わになった。


執事と影に控える護衛たちは息を呑んだ。誰も九条凛に手を触れる者などいない。それどころか、服を引き裂くなど前代未聞だ。彼女の動きはあまりにも速かった。


「無礼だ。」凛は反射的に彼女の手首をつかむ。その力は凄まじい。


奈緒は手首の拘束を意に介さず、じっと胸元を凝視した。見た目は無傷の肌の下で、何かが蠢いている――血管が盛り上がり、今にも弾けそうなほど皮膚が脈打っていた。


濃厚な血の匂いは、まさにそこから発せられている。


凛はうめき声を漏らし、顔色がみるみる蒼白になり、額には青筋が浮かぶ。体の中を無数の毒針が刺すような激痛が走り、猛毒が内臓を蝕む。彼は必死に耐え、冷たい声で命じた。「彼女を部屋へ戻せ!」


「かしこまりました!」執事があわてて近づく。


しかし、奈緒はもう片方の手を素早く伸ばした。細い指が凛の激しく波打つ胸元に触れ、一定のリズムで素早くなぞる。


続けざまに、手首を返し、掌に力を込めて彼の心臓めがけて一気に押し当てた!


凛の体が大きく震える。


その指先が通った瞬間、奇妙な痺れと電流のような感覚が走り、体内の激痛がたちまち抑え込まれる。だが、強い一撃によって、今にも破れそうだった血管が激しく波打ち、溜まった毒血が逆流した。


「ゴフッ——!」真っ黒な粘ついた血が、凛の口から勢いよく吐き出された。強烈な生臭さが辺りに広がる。


凛はよろけて後退し、瞳孔が縮む。


身体がいまにも崩壊しそうな極限に達したその瞬間――あれほどの激痛が、まるで潮が引くように消え去っていった。皮膚の下の異様な動きも静まり返り、今にも破裂しそうだった血管も不思議なほど穏やかになった。


体勢を立て直しながら、凛の黒い瞳に驚愕と困惑が浮かぶ。見下ろせば、皮膚は傷一つなく、血や膿が流れ出す気配もない。黒い血を吐いただけで、あの激しい痛みはぴたりと治まっていた。


こんなことは、今まで一度もなかった。どんな名医も、凛の体は徐々に崩壊していくと断言し、治す術はないと言い切っていたのだ。


彼は思わず顔を上げ、鋭い視線で奈緒を見据えた。


奈緒は手を引き、彼の体を一瞥すると、淡々とした口調で言う。「もうすぐ死ぬって聞いていたけど、本当だったのね。」指先についた黒い毒血をハンカチで拭いながら、凛と視線を合わせる。


「さっき言った通り、あなたのお父様が私を“以喜事驱散灾祸”のために呼んだだけで、本気で結婚するつもりはないのでしょう。ちょうどいい、私も本気で嫁ぐつもりはない。」奈緒は口元に微かな笑みを浮かべ、「たぶん、医者があなたに言った最後の期限は、今月中に生きられない、ってことかしら。」


少し間を置き、奈緒ははっきりと言った。「どう? 取引しない? 私が三十日間はあなたの命を守る。その代わり、期限が来たら私は自由にしてもらう。」


凛の瞳が鋭く光る。「……お前が俺を、三十日生かせると?」


「できるわ。」奈緒は静かにうなずき、指先で彼の口元の黒い血をぬぐい、鼻先でかすかに嗅いだ後、嫌そうにハンカチで拭い、ゴミ箱に投げ捨てた。「骨の髄まで毒が回ってるけど、まだ絶命には至っていない。三十日延命するだけなら、十分よ。」

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