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第4話 衣を破いたあとで


早川奈緒は九条凛に一瞥もくれず、呆然としている執事に向かって静かに言った。「私の部屋はどこ?案内して。」九条家の屋敷にいても、彼女は少しも臆する様子を見せなかった。


執事は我に返り、九条凛の方にお伺いを立てるような視線を送った。九条凛がほとんどわからないほど微かに頷くと、執事はすぐに恭しく頭を下げた。「奥様、こちらへどうぞ。」彼は早川奈緒を先導してその場を離れた。


九条凛はその場に立ち尽くし、両手を背中で組みながら彼女の去っていく後ろ姿をじっと見つめていた。しばらくして、破れたシャツに目を落とし、傷一つない肌を見下ろす。皮膚はただの一点の傷もなく、激しい痛みも消えていた。しかし、彼女の指先が胸に触れた瞬間、心臓が止まりそうな感覚に襲われたのも事実だった。


「早川家の娘……か。」九条凛はかすれた声で呟く。「面白い。」


「凛様、お加減はいかがですか?」内木優哉が早足で近づき、小声で尋ねた。


九条凛は胸元に残るかすかな跡を見つめ、体内でうごめく血の気を感じながら言った。「抑えられている。」そして、早川奈緒の部屋の方角に深い視線を投げた。


「抑えられている?そんな馬鹿な。あの毒はどんな名医でも抑えられなかったのに!あの“以喜事驱散灾祸”が本当に効いたというのか?」内木優哉は信じられない様子だった。


九条凛の体内の毒はまるで無数の針のように暴れ、発作のたびに血管を破壊し、肉体を切り裂く。血だらけの傷が癒えても、またすぐ次の発作が襲い、間隔はどんどん短くなっていった。


医師はすでに手の施しようがないと宣告していた。九条家がどれほどの権勢を誇っても、打つ手はなかった。だからこそ、家長はわらにもすがる思いで“以喜事驱散灾祸”に賭け、早川家に話を持ちかけたのだ。


「彼女は俺を狙ってきた。」九条凛は低い声で言った。


「凛様を……?彼女はあなたを殺すつもりなんですか?」内木優哉は驚き、すぐに違和感を覚える。もし殺すつもりなら、先ほどの行動は不自然だ。


「殺す……とは思えない。」九条凛の目はさらに深くなる。「だが、俺が毒を受けていることを知っていて、あの一手で毒を抑えたうえ、三十日間は死なせないと言い切った。……どうやって命を繋ぐつもりか、見せてもらおう。」


内木優哉はまだ疑念を拭えずにいた。「専門家でさえ不可能だと言っていたのに。凛様、もしかして彼女こそが毒を盛った張本人なのでは?」


九条凛は答えを返さなかった。


「調べろ。」静かながらも重い指示が下る。


「かしこまりました!」内木優哉はすぐにその場を離れた。


続いて執事が近づき、早川家での出来事――早川奈緒が全ての結納金を持ち出し、最高ランクの保管を依頼した詳細まで、余すところなく報告した。


九条凛は眉を上げた。「結納金を全部持って行ったのか?」


「はい。しかも、身分証も私に預けて、最高グレードの保管手続きまで頼まれました。」執事は早川奈緒の身分証を差し出した。


九条凛はそれを受け取り、証明写真の澄んだが鋭い瞳を指先でじっとなぞった。しばらくしてから、証明書を執事に返した。「彼女の望みどおりに。」


「承知しました。」執事は一礼して下がろうとしたが、ふと立ち止まった。「凛様、本来なら嫁いでくるのは早川家で大切に育てられた愛花お嬢様のはずでした……。この戻ってきたばかりの奈緒様は、もしかして“以喜事驱散灾祸”の真相を知っているからこそ、早川家が身代わりに仕立てて送り込んだのでは?今日の早川家では、上の階でかなり激しい言い争いがありましたし、早川家も本心では娘を嫁がせたくなかったのでしょう。」


「早川家は商売人だ。損をする取引はしない。」九条凛は淡々と言い放つ。「誰が好き好んで、余命幾ばくもない男に娘を嫁がせると思う?」再び早川奈緒の部屋の方を見やり、考え込んでいるようだった。


――


寝室


部屋はアンティークな趣でまとめられ、陳列されている調度品はどれも控えめながら高価なものばかり。早川奈緒は少し驚いた。この部屋の格は、早川家で与えられていたものとは比べものにならない。


「面白いわね。」彼女は小さく呟いた。生まれ変わったその瞬間から、彼女の計画はすでに始まっていた。身代わりの結婚は決して諦めや運命の受け入れではない。早川家が仕掛けた一撃を、見事にかわしてやるつもりなのだ。もし九条凛が死ななかったとしたら、九条家の権力と財力の前に、あの虚栄心の塊である愛花と早川家はきっと発狂するだろう。彼らが何かしら動きを見せたその時こそ……


杏のような瞳が細まり、鋭い光が宿る。九条凛の体内の毒について思いを巡らせながら、彼女は低く呟いた。「それにしても、どうしてこんな毒に?」


この毒は極めて陰湿かつ巧妙で、病院ではまず見抜けない。最初は月に一度の発作が、次第に週一、三日に一度、そして死の間際には毎日繰り返す。ついには血管が破裂し、全身が傷だらけになって死に至る――。


どれほどの恨みがあれば、こんな仕打ちをするのか。しかもこの毒は根本から蝕み、子孫を残すことすら許さない。命だけでなく、九条家の血筋も絶やすつもりなのだ。


早川奈緒の目は冷たく光る。先ほど助け舟を出したのも、好意からではない。一つは毒を盛った犯人を探るため、もう一つは九条家に自分の存在感を示すためだった。この九条家の庇護があれば、早川家も簡単には手出しできない。自分の力だけで全てを乗り切れると過信するつもりはない。利用できるものは、徹底的に利用する。それが彼女のやり方だ。


――ブブブ……


スマートフォンのバイブ音が思考を引き戻す。


早川奈緒が画面を見ると、見覚えのある番号が表示されていた――冷泉慎也。前世で彼女を精神的に追い詰めた偽善者。彼女が鬱に陥り、悲劇に至った元凶の一人でもある。


通話ボタンを押すと、電話越しに冷泉慎也のわざとらしく焦った声が、どこか責めるように響いた。「奈緒、どうして愛花をいじめたんだ?」

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