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第5話 屈辱と取引


前世で味わった鬱と不眠の苦しみが、早川奈緒の指先に力をこめさせ、スマートフォンが壊れそうになる。


「たった一ヶ月だけ身代わりで嫁ぐだけだろ?命まで取られるわけじゃないのに、なんで愛花をいじめるんだ?養女だからって、邪魔者扱いするのか?」冷泉慎也の声には、わざとらしい焦りと非難がにじむ。「俺だって約束しただろ?あの人が死んだら、お前の彼氏になってやるって。それ以上、何が不満なんだ?」


彼は苛立ちのあまり、偽善者の仮面を忘れて怒気を露わにした。


「ぷっ!」早川奈緒は思わず吹き出した。こいつ、本当に自惚れてる!前世の自分がどうしてこんな奴に夢中になって、彼の下手な芝居や言葉に踊らされていたのか、馬鹿らしくて仕方ない。


「何がおかしいんだ!」冷泉慎也は怒りを隠せない。


早川奈緒は窓辺へ歩み寄り、鉢植えを無造作に弄びながら冷たい声で言った。「あなたに何の価値があるの?私があんたのために身代わりになったとでも?自分にどれだけ自信があるの?今のあなたの行為、迷惑行為って分かってる?それに、あの人が死んだら‘彼氏になってやる’?あなたごときが私にふさわしいとでも思ってるの?私は今、九条家の奥様よ。あなたが相手になるとでも?私が未亡人になって大金を手に入れたら、そこにすり寄ってくるつもりなの?」


「何言ってるんだよ!俺が金目当てだとでも?早川奈緒、お前には本当に失望した!これ以上こんな態度なら、もう絶対に付き合うなんて考えないからな!」冷泉慎也は必死に脅すように叫ぶ。


早川奈緒の中で嘲笑の気持ちが沸き上がる。「それはよかった!二度と連絡してこないで。愛花を守りたいんでしょ?急いで行きなさいよ。彼女があなたみたいな俳優と結婚してくれるか、見ものだわ。都合のいい男!」


彼女は早川愛花の裏の顔と、財閥が芸能人を見下している現実を容赦なく暴いた。


電話の向こうは一瞬で沈黙した。以前の早川奈緒なら彼の言いなりだったが、今はまるで別人だ。


冷泉慎也は荒い息を吐き、怒りを押し殺して言う。「早川奈緒、これが最後のチャンスだ……」


「結構よ。そんな女々しい男、タダでもいらないわ。これ以上迷惑かけたら、全部暴露するから」早川奈緒は冷たく言い放ち、そのまま通話を切った。録音データもすぐにクラウドとメールにバックアップする。


「はぁ……」彼女はこめかみを押さえ、前世の自分の愚かさに息苦しさを覚える。


「コンコン」とドアをノックする音が響いた。早川奈緒はすぐに気持ちを切り替え、ドアを開ける。


九条凛が立っていた。すでに入浴を済ませ、黒いルームウェアに着替えている。ほのかなミントの香りが血の匂いをかき消していた。背が高く、見下ろすその姿はどこか圧迫感がある。


「九条凛?何か用?」早川奈緒は目を逸らさず、堂々と彼の視線を受け止めた。


九条凛は意外そうな表情を一瞬浮かべた。彼女は自分を恐れるどころか、鋭い目で冷たく見返している。眉を上げ、率直に尋ねた。「一目見ただけで、どうして俺が中毒だと分かった?どうやって抑え込んだ?」


早川奈緒は手を後ろに組み、彼の様子を一目で把握した。「簡単よ。私は漢方医を学んでるから」彼女はさりげなく身を引き、「養父は神道の秘術と漢方医の継承者なの。私は三歳から十七年間、ずっと修行してきたわ」と、自然な誇りをもって答えた。


「あなたの体から異常な血の匂いがして、皮膚越しでも分かるくらい。しかも血に特有の臭いも混じってたから、中毒だと推測できたの」


「十七年」という言葉に、九条凛の目がわずかに動く。


「治せるのか?」彼は振り返り、鋭い視線で彼女を見つめる。その瞳は澄んでいながら底知れぬ深さを感じさせ、年齢を超えた落ち着きがあった。


「治すかどうかは別として」早川奈緒は机に寄りかかり、腕を組んだまま落ち着いた態度で続けた。「でも抑えることはできる。最低でも一ヶ月、もしかしたら……半年は生き延びられるわ」


その言葉に、九条凛の瞳がかすかに揺れる。名医ですら一ヶ月の保証もできなかったのに、彼女はあっさりと「半年」と言い切った。普通なら信じないが、さっきの毒を抑えた彼女の手際を見てしまうと、疑う余地がなかった。死の淵に差し込んだ一筋の希望だった。


彼は感情を抑えながら、手元で拳を固く握りしめた。「条件は?」


早川奈緒は一歩下がり、バッグから紙とペンを取り出して、すらすらとリストを書き上げて差し出した。「借りは後で返してもらうわ。今は、これらの薬草を揃えてほしい。百年以上のものが必要。古ければ古いほどいい」


九条凛はリストを受け取り、そこに力強く生命力が宿るような筆跡を見て、再び驚きを覚えた。二十歳の女性が、何気なくこれだけの書を書き上げられるとは——彼女の実力は、もしかしたら想像を超えているかもしれない。


「分かった」彼はリストをしっかりと握りしめ、低い声で答えた。本物かハッタリかは、この薬方を試せばすぐに分かる。

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