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第6話 保険の陰謀と予期せぬバラエティ


九条凛は喉をわずかに動かし、低い声で言った。「ここで安心して過ごしてほしい。何か必要なことがあれば、執事たちに言ってくれればできる限り対応する。」そう言い残し、大股で部屋を出ていった。


早川奈緒は、扉の向こうに消えていくその背中を見送りながら、思わず驚きを隠せなかった。


薬のリストを差し出したとき、当然疑われるだろうと思っていた。何しろ“以喜事で厄を祓う”ために突然迎え入れられた彼女が、いきなり「命をつなぐ薬を」と言い出したのだ。だが、彼は何のためらいもなく受け入れた。――この男の心の強さは、並大抵ではない。感情を乱さず、底知れぬ洞察力。とても普通の財閥の御曹司とは思えなかった。


実際のところ、早川奈緒が九条凛について知っているのは噂話だけだった。前世で理不尽な死を迎えるまで、九条家が東京屈指の財閥であり、当主の彼が重い病に苦しんでいるということくらいしか知らなかった。彼の最期がどうなったかも、結局分からずじまいだ。


視線を戻し、早川奈緒は疲れた様子でベッドに身を沈めた。


――ブーブーブー……


スマートフォンが激しく震え、画面には早川家からのメッセージが山ほど表示された。


「早川奈緒!どうしてお母様にあんなことしたの?結納金まで持ち出して、一体何を考えてるの?」


「どうして愛花をいじめたりするの?彼女はあなたのせいで自殺しかけたんだよ!」


どれもこれも、薄っぺらな怒りと言い訳ばかり。


早川奈緒の瞳は氷のように冷たく、微動だにしなかった。前世での悲惨な最期が、早川家に対する最後の情すら完全に消し去っていたのだ。


だが、このメッセージの数々が、彼女の心の奥を鋭く突き刺した。関係を断ち切るだけでは足りない。早川家とのあらゆる繋がりを、根こそぎ断ち切る必要がある――そう強く思った。


閃いたその瞬間、早川奈緒は早川エンターテインメントのアシスタントへ電話をかけた。


「私だけど」と冷静に告げ、「私が早川エンターテインメントと契約してから、マネジメント契約以外にどんな契約書にサインさせられた?」


電話の向こうから、明らかに面倒そうな声が返ってきた。「契約?保険ぐらいじゃないの?他に何があるっていうの?」


「保険?」早川奈緒は心の奥が凍りつくのを感じた。実家に戻ったばかりの頃、曖昧な説明で「家族のため」「会社の福利厚生」などと言われ、詳しい内容も分からぬまま書類にサインさせられていたのを思い出した。


「私がサインした全ての契約書の電子データ、すぐに送って」と命じた。


「……」相手は無言で電話を切った。まるで無名タレントの彼女を相手にもしていないかのようだった。


数分後、アシスタントからいくつかの電子契約書が送られてきた。


早川奈緒はすぐにファイルを開き、タイトルに目を走らせた――高額生命保険。その瞬間、血の気が引き、目は「受取人」の欄に釘付けになった――早川愛花。


もしも自分が事故死すれば、早川愛花に二億円もの保険金が入る仕組みだった。スマートフォンを握る手が白くなるほど力が入り、呆れと怒りが全身を突き抜けた。


前世、屋上から追い詰められて死んだ時、自分がこんな“死の契約”にサインしていたなんて、知らなかった――。


なるほど、彼らが彼女の服を引き裂き、写真や映像を撮って脅そうとしたのも、すべては口実だった。本当の目的は、彼女を死に追いやること。その死で早川愛花が巨額の保険金を手に入れるために――。


「早川家に足を踏み入れたその日から、私が生きて出ることなんて考えていなかったのね」と奈緒は氷のような声で吐き捨てた。


悔しくないはずがなかった。実の親にここまで利用されるなんて、胸が張り裂けそうだ。


ここまで邪魔なら、なぜわざわざ探し出したのか――。本当に愛花のために、私の命と引き換えに二億円を得ようとしただけなのか?彼らの真意は何なのか?


疑念を抱きつつ、最後の契約書を開いた――早川エンターテインメントの芸能マネジメント契約。契約満了日は、あと半月後。しかも違約金の条項には、契約期間中の一方的な解約には十億円の損害賠償、と記されていた。


「ふざけんな!」早川奈緒はベッドから飛び起き、思わず声を荒げた。早川家のあくどい算段にも、自分の過去の愚かさにも、怒りが込み上げた。


その時、スマートフォンが再び鳴った。アシスタントからの電話だった。


「会社から新しいバラエティの仕事が入ったわ。“無人島サバイバル”タイプ。明日出発よ。収録が終わる頃にちょうど契約が切れるから」と、事務的に告げられる。


「……」早川奈緒の瞳が鋭く細められる。


バラエティ?しかも「無人島サバイバル」?今このタイミングで?“以喜事で厄を祓う”婚礼を終え、早川家と完全に縁を切ったばかりの彼女に、危険だらけのサバイバル番組出演を強制する――


その意図は明白だった。


あの高額生命保険と合わせて考えれば、彼女を売り出すどころか、死地に送り込む気なのは明らかだ。もし無人島で「事故死」でもすれば、早川愛花が二億円の保険金を手にできる。仮に死ななかったとしても、番組側の保険で多額の賠償金が入る。早川家は、どちらに転んでも得をする仕組みを作っていた。


あまりにも露骨に、彼女を消そうとしている――。


早川奈緒は氷のような微笑を浮かべながらも、瞳の奥には静かな炎が宿る。


「番組の資料を送って」と冷たく言い放つ。


電話はまたしても一方的に切られた。すぐに「無人島サバイバル」と題された番組資料が届く。複数の芸能人が無人島に送り込まれ、数日間のサバイバル生活を生中継するという内容だった。


資料を見つめる奈緒の笑みは深まったが、目には冷たい光が宿る。彼女はすぐに高額生命保険の電子契約書を複数のクラウドにバックアップした。


「私を嫁がせて、今度は無人島で“事故死”させるつもり?……早川愛花、早川家、あなたたちの“贈り物”、確かに受け取ったわ」と低く呟き、その声には鋭い皮肉が込められていた。「せっかくだから、ちょっと刺激的に返してあげる――」


気が張りつめていた分、気を緩めた途端、どっと疲れが押し寄せた。九条家本邸の静けさに包まれ、早川奈緒はベッドに横になったまま、いつしか深い眠りに落ちていた。


九条家本邸・離れ


古き良き趣の離れ。彫刻を施した木窓越しに斜めの陽光が差し込み、紫檀の茶卓にまだらな影を落としている。


その静けさを破るように、ひとりの男が勢いよく飛び込んできた。手には数枚の検査結果と薬の処方箋、興奮のあまり手が震えている。「凛様、この薬の処方、誰が考えたんですか?!僕、何度も見直して、家の親父にも見せたんですけど、これは本当にすごいって!」


やって来たのは九条凛の主治医であり親友でもある、松下光弘だった。興奮を隠しきれずに早口で続ける。


「親父も、こんな処方は見たことないって驚いてました。根本的な毒を消すことはできないけど、短期間なら毒性を抑えるには十分すぎるほど効果的だって。しかも配合が緻密で、親父ですら勝手に分量を変えるのが怖いって言ってましたよ」


そう言いながら、松下は検査結果をどさっと九条凛の前に差し出した。


九条凛は長い指でそっと検査報告書をなぞり、低い声で言った。「血液検査の結果も出た」


「そう、それが一番すごいんです!」松下は机を叩いた。「検査結果によれば、あなたの血液中の毒素が強制的に抑え込まれているんです!それに、ほんのわずかですが浄化の兆しまで見える。こんなの、今まで考えられませんでしたよ。あなたの毒は骨の髄まで回って、血液すら侵されていたのに。今までの専門家はみんな、今月中には……って言ってたんですけど」


大きく息を吸い、松下の目に希望が宿る。「凛様、光が見えましたよ!一体この処方を出したのは誰なんですか?」


九条凛は差し出された検査結果に目を通し、深い眼差しでしばし考え込んだ。そして手元のタブレットを手に取り、ロックを解除して一つのファイルを開き、松下に差し出した。

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