「ブーブー――」
スマートフォンが再び震える。
画面には、やはり「早川雅子」の名前が表示されていた。
奈緒は一瞬、着信拒否にしようかと思ったが、指が止まり、結局通話ボタンを押した。
まだ口を開く前に、雅子の鋭く刺々しい声が受話器越しに飛び込んできた。
「奈緒!電話に出ないなんて、いい気になってるの?九条家に嫁いだからって、そんなに偉くなったつもり? 早川家がいなければ、九条家なんてあんたに目もくれなかったのよ!このチャンスは早川家が与えたもの、感謝しなさい!」
「今ね、兄様が進めてるプロジェクトに資金が足りないの。九条家から八十億円投資させなさい、分かった?!」
雅子の声は当然のことのように強引だった。
奈緒は一気に眠気が吹き飛んだ。
その厚かましい要求に、思わずスマートフォンを見つめてしまう。まさか、縁を切ってまだ四時間も経っていないのに、こんなにも図々しく電話をかけてきて八十億円もの大金を要求するとは…雅子の口から出れば、八十億円も八百円も同じ扱いだ。
「早川さん、」奈緒の声は冷たく突き刺さる。「私の記憶が確かなら、もう縁は切れたはずです。なぜ九条家があなた達に投資しなきゃいけないんですか?それに、私が“以喜事驱散灾祸”で九条家に嫁いだ時点で、もう私は九条家の人間よ。これ以上関わるのはやめて、二度と連絡しないで。」
怒りを抑えているからといって、気が弱いわけではない。
「口答えする気?調子に乗ってるのね!」雅子は声を荒らげて怒鳴る。「兄様があんたに大きなバラエティ番組を取ってきてあげたのよ?有名芸能人ばかりの番組よ!早川家がこんなに良い機会を与えてやったのに、感謝もせずにそんな口を利くなんて。芸能界で干されてもいいのかしら?!」
奈緒はそれを聞くと、ふっと冷ややかに笑った。
可憐な顔にえくぼが浮かび、風に揺れる髪が頬をかすめる。
「いいですよ。」彼女の声は冷たく、皮肉が滲む。「そんなに言うなら、私を干してみれば?明日の『孤島サバイバル』も出ませんから。」
一言で相手の痛いところを突いた。
電話の向こうで慌てふためく物音がする。どうやら誰かが小声で指示を出しているようだった。雅子も、まさか奈緒がここまで開き直るとは思っておらず、動揺を隠せない。
「行きなさいって言ってるでしょ!何をゴネてるのよ!」雅子は必死で取り繕いながら、本音を露わにした。「それから!今朝持っていった結納金、そっくりそのまま返しなさい!」
やっぱり、それが本当の狙いか――。
九条家の印が入った結納金は、早川家にとって喉から手が出るほど欲しいもの。あれさえ取り戻せば、九条家との繋がりができ、ビジネスでも芸能界でも箔がつく。プロジェクトは競争なしで手に入り、誰も早川家に逆らわなくなる。愛花を犠牲にせず、九条家の権威だけを手に入れたい――そんな都合のいい計算だ。
「ふふっ、結納金が欲しいの?」奈緒は冷笑し、
「いいですよ。」
雅子がさらに何か言う前に、彼女は電話を切った。
どんなに心を強く持っても、この体に刻まれた本能が、胸を僅かに痛めていた。家族にここまで利用されるのは、やはり辛い。
「そこまでやるなら、もう遠慮する必要もないわね。」
奈緒の目は氷のように冷たくなり、ベッドから降りて素早く身支度を整えると、まっすぐ玄関へ向かった。
階下に降りると、執事がすぐに恭しく迎えた。
「奥様、お出かけですか?」
九条凛の毒を抑えたあの場面を見て以来、執事は奈緒に一切の無礼ができなくなっていた。この人は九条家の恩人かもしれないのだ。
「早川家に行ってきます。できれば車を手配してもらえますか?」
財閥の便利さは、使える時に使わない手はない。
「かしこまりました。少々お待ちください。」
執事はすぐに、まだ発売前の最新モデルの高級車を用意した。
奈緒は車に乗り込み、静かに早川家本邸へと向かった。
早川家本邸は、表面上は「家族団欒」の雰囲気だ。
愛花はふくれっ面で将史にしなだれかかっていた。
「兄様、もっと欲しいな~」
将史は優しく頭を撫で、ティッシュで口元を拭いてやる。
「いいよ、もう一つ食べな。」
そう言って、真っ赤な苺を差し出した。
愛花は苺をぱくっと頬張り、上目遣いに大きな瞳で見上げる。
「兄様って本当に優しい!」
その横で、雅子が湯気の立つ薬膳スープを持ってきて、柔らかく声をかける。
「愛花、さあ。お母様が特別に作った高麗人参のスープよ。体力つけなきゃ。」
けれど愛花は眉をしかめる。
「お母様、太ったらどうするの?『孤島サバイバル』の収録があるのに、スタイルキープしなきゃ。終わったらすぐ別のドラマもあるし。」
そう言って、スープの碗を受け取ろうとしない。
雅子は気にせず、スプーンを吹いて口元に持っていく。
「この番組は大変なんだから、体力つけなきゃだめよ。」
その時、ふと玄関に立つ奈緒の姿に気づき、顔色が一変した。
「ガタン!」
スープの碗をテーブルに乱暴に置き、険しい声で奈緒を問いただす。
「やっと帰ってきたの?物は?持ってきたんでしょ?」
愛花もすぐに反応し、ソファから裸足で玄関に駆け寄った。
外にはピカピカの最新型高級車しかない。
「お姉ちゃん!」愛花は振り返り、目に涙を浮かべて訴える。
「結納金は?持ってこなかったの?“以喜事驱散灾祸”のために行っただけじゃなかったの?なんでうちの結納金まで独り占めするの?」
彼女の視線は車に釘付けになり、嫉妬で震えていた――発売前の車なんて、なぜ奈緒だけが乗れるの?全部私のはずなのに!
「奈緒、何しに来たの?」
雅子はソファで主婦の威厳を保とうとするが、奈緒の鋭い眼差しに思わず身を引いた。
横にいた将史が立ち上がり、声を荒げる。
「お前……」
「どいて。」奈緒の声は氷のように冷たい。
容赦なく足を振り上げ、将史の腹を蹴り飛ばした!
将史は反応する間もなく、腹に激痛が走り、ソファに叩きつけられる。呻き声を上げ、しばらく動けない。
奈緒は一瞥もくれず、まっすぐ雅子の前へ。
「奈緒!私に手を出す気?いい加減にしないと……」
雅子が叫ぶが、奈緒は素早く手を伸ばし、彼女の首にかかったネックレスのチェーンを力任せに引きちぎった――。
「パキン!」
チェーンが音を立てて切れた。