早川奈緒の動きはまるで閃光のように速かった。早川雅子は首元が急に締め付けられ、身につけていた勾玉があっという間に奈緒の手に奪われた。
「奈緒!よくも私の物を奪ってくれたわね!」
雅子は首筋にくっきりと赤い跡を残し、丁寧に化粧した顔が一瞬で歪み、険しい皺が浮かんだ。
奈緒は失った勾玉をしっかりと握りしめ、手のひらで確かめると、そのまま手際よくバッグにしまい込んだ。
「奪った?ふん。」
彼女は冷笑し、目には氷のような鋭さが宿る。
「これは私の神主養父が二十年以上も身につけていた大切な護符よ。昔、あなたの顔色が悪くて病に侵されていたから、命を守るために貸しただけ。今のあなたには相応しくないわ。」
この勾玉には霊力が宿っている。もしこれがなければ、雅子はとっくに病に倒れていたはずだ。今まで勘違いして預けてしまった物は、これから一つずつ取り戻すつもりだった。
「何様のつもり!?私はお母様よ!よくもこんなことを!」
雅子は胸を大きく波打たせながら、奈緒を指差す手が震えていた。
「早川家に戻る気はないの!?」
奈緒の冷たい視線に、雅子は恐れと怒りが入り混じった表情を浮かべる。
「戻る?冗談でしょ?」
奈緒は口元に冷たい笑みを浮かべた。
「"以喜事驱散灾祸"だの、私を身代わりに使っておいて、今さら戻れだなんて。そんな早川家に、未練なんてないわ。」
この瞬間、心の最後の糸が完全に切れた。愛されない現実を受け入れるのは、意外と簡単だった。
「奈緒!お母様に何てことを言うの!」
将史が勢いよく飛び出し、雅子と愛花の前に立ちふさがって奈緒を睨みつける。
「お姉ちゃん……」
愛花はすぐに目に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな声で訴えた。
「朝、結納金を持ち出しただけじゃなく、今度はお母様の勾玉まで……どうしてそんなに酷いことができるの?お母様はずっと優しくしてくれたのに……」
泣きそうな顔の奥で、愛花の目が一瞬だけ意地悪く光ったが、奈緒はその表情を見逃さなかった。
一度死んだ身、こんな芝居にもう騙されることはない。
愛花の言葉が火に油を注ぐ形となり、雅子の怒りは爆発した。
「こんな恩知らず、産んだ時に始末しておけばよかった!」
雅子は毒々しい言葉を浴びせた。
そんな憎しみのまなざしを受けて、奈緒は逆に冷ややかに笑った。その笑みにはもう一片の情もなかった。
「恩知らず?」
彼女は一言一言、静まり返ったリビングに響くように口にした。
「私が十七年間外で苦労していた間、誰か探した?戻ってきてこの七ヶ月間、誰か私を愛してくれた?」
「この七ヶ月、兄様の雑用は押し付けられ、会社のイベントや裏方も全部私の仕事。給料なんて一円もなし。家では家政婦以下の扱いで、身の回りの世話も全部私。あなたが病気で苦しんでいた間、夜通し付き添ったのは誰?」
奈緒の鋭い視線が皆を射抜き、最後に雅子の顔で止まった。
「ふん。」
自嘲気味に笑いながらも、目は冷たく光る。
「私が本当に恩知らずなら、神主養父からもらったこの宝物を、あなたなんかに渡したりしなかった。」
本当はもう二度とこの家に戻るつもりはなかった。ただ、雅子の電話での罵倒があまりに続いたから、この大切な勾玉を取り返しに来ただけだ。今、雅子が顔を真っ赤にしてソファに崩れ落ちるのを見て、奈緒の胸には冷たい満足感がよぎった。
忠告も無駄な相手には、もうどうでもいい。
「追い出されなくても結構。これから先、私と早川家は赤の他人よ。」
奈緒はきっぱりと言い放ち、背を向けて玄関へ向かった。
だが、その行く手を大きな影が立ちはだかる。兄様、拓海だった。眼鏡越しの視線は鋭く、冷たい。
「どいて。」
奈緒は淡々と言った。
その瞬間、拓海が奈緒の腕を強く掴んだ。骨が折れそうなほどの力だった。
「謝れ。お母様に謝罪しろ。」
低く、命令するような声。
奈緒はまるで愚か者を見るような目で彼を見返した。
「早川奈緒、これ以上は我慢できないぞ。」
拓海の目は険しく光った。
「もう一度言う。お母様に謝れ。そして九条家からの結納金もすべて返せ。さもないと――」
最後まで言い切る前に、奈緒は勢いよく手を振り上げ、拓海の頬を平手で強く打った。
「パシッ――!」
静まり返ったリビングに、鋭い音が響き渡る。
不意を突かれた拓海は顔を横に弾かれ、白い頬にははっきりと指の跡が残った。鼻梁の金縁眼鏡は吹き飛ばされ、床に激しく落ちて転がった。全員が呆然と奈緒を見つめた。
あの、家で大声も出せなかった奈緒が、兄様に手をあげただと――?
「拓海、」
奈緒は痛めた手首をさすりながら、冷たく言い放った。
「その面の皮、早川家の後継者って肩書きにはちょうどいいわね。何様のつもりで私に謝罪を命じるの?結納金まで狙ってるなんて。」
「兄様なんて呼んでやってたのが間違いだった。私は奈緒、早川の名字にももううんざり。あんたたちの家の人間じゃない。指図する権利なんてないわ!」
その声は鋭く、決別を宣言した。
言い終えると、奈緒はヒールのかかとで床に落ちた金縁眼鏡を何度も踏みつけた。
「バキッ!」
レンズの割れる音が響く。それは、早川家との関係が完全に壊れた証だった。
「もう二度と連絡してこないで。」
奈緒はそう言い捨て、颯爽と玄関へ向かった。
ちょうど階段を下りてきた智洋が、その光景を見て激怒し、駆け寄りながら拳を振り上げて奈緒の後頭部めがけて殴りかかった――
その瞬間、外で待っていた九条家の運転手が素早く中に入り、はっきりとした声で言った。
「奥様、凛様が本邸でお待ちです。」
「奥様」という呼び名が、怒りに任せた早川家の空気を一気に冷やした。
智洋の拳は空中で進路を変え、隣の高価な花瓶を打ち砕いた。
「ガシャーン!」
陶器の破片が飛び散る。
奈緒は運転手に一瞥をくれ、意味ありげに口元を歪めた。彼の機転がなければ、智洋は自分の愚かさの報いを受けていただろう。
「ええ、行こう。」
奈緒は冷たく答え、堂々と外の高級車へ向かった。
車が発進し、遠ざかっていく。バックミラーには、外へ飛び出そうとする智洋と、それを無理やり押しとどめる顔色を失った拓海の姿が映っていた。
「奥様……」
運転手がバックミラー越しに奈緒を見て、不安そうに声をかける。
奈緒は目を閉じたまま、静かに答えた。
「気にしないで。所詮は通りすがりの人たちよ。」
その声には、完全な静けさと距離感があった。
――早川家本邸――
智洋は拓海の手を振り払って叫んだ。
「兄様!なんで止めたんだよ!あんな女、徹底的に叩きのめしてやるべきだった!」
拓海は熱くなった弟を冷ややかに見つめ、火照る頬を押さえた。
「今のは九条家の人間だった。手を出せば、九条家がどう思うか考えろ。俺たちに何の得にもならない。」
彼は去っていく高級車を見送りながら、眼鏡の奥の目が陰りを帯びていく。奈緒……本当に変わったな。その変化が、どこか不安を掻き立てた。