「必要ありません。」早川奈緒はきっぱりと断り、薬箱を手に取った。「ただの『無人島サバイバル』でしょ?気分転換に島へ行くと思えばいいわ。心配しないで、あなたの症状に支障は出さないから。」そう言い残し、彼女は落ち着いた口調で階段を上がっていった。「一ヶ月は命を保証するって言ったでしょ。約束は守るわ。」
九条凛はその場に立ち尽くし、彼女の颯爽とした後ろ姿をじっと見送った。瞳には複雑な色が宿る。
しばらくして、彼はようやく視線を外した。
「凛様。」内木優哉がタブレットを手に足早にやってきて、声を潜めて報告した。「早川拓海が最近関わっていたプロジェクト、すべて“手を回して”おきました。しばらくは頭を抱えることになるでしょう。」
「そうか。」九条凛は低く返事をした。
ふと腕時計に目を落とす。普段なら毒の発作が起きる時刻だ。だが、予想していた激痛も、皮膚のただれも訪れない。しばし感覚を研ぎ澄ませた後、彼は両手を背中に組み、庭の方へと歩き出した。内木優哉も慌てて後を追う。
「彼女の素性は調べがついたか?」九条凛が問いかける。
「はい。」内木優哉は声をひそめた。「奥様は七ヶ月前に早川家に迎え入れられ、東京に戻ったそうです。それ以前は山を下りたこともなく、養父である神社の神主と暮らしていました。」資料では、早川奈緒と九条凛の毒とは何の縁もない。
だが、彼女は一目でそれを見抜き、処置までしてみせた。
本当に漢方医として卓越しているのか、それとも裏に何かあるのか――。
「さらに調べますか?」内木優哉はやや迷いを見せる。早川奈緒の立場は特殊で、もし調査が知られれば厄介なことになりかねない。
「必要ない。」九条凛の声は冷たかった。「もし俺の命運が尽きるなら、調べても無駄だ。しかし、俺が死ぬ前に背後で毒を盛った奴は、必ず炙り出す。」
「……承知しました。」内木優哉は重い気持ちを隠せなかった。九条凛は若くして家を継ぎ、一族を頂点に押し上げた。その彼が、誰かに命を狙われている――。
「凛様……」内木優哉は少しためらいながら口を開いた。「私たちが密かに早川家を圧迫しているのが露見すれば……ご当主にご迷惑がかかるのでは?何しろ“以喜事で厄を祓う”と提案されたのはご当主ですし……」
九条凛の足が止まる。
彼はゆっくりと振り返り、その黒い瞳は鋭く、誰にも心の内を読ませない。
「半年前、祖父が“以喜事で厄を祓う”と言い出した際、早川家はそれを口実に巨額のプロジェクトを要求してきた。だが、今になって手のひらを返し、家で一番冷遇されている娘を押し付けてきたんだ。九条家を甘く見ているのか?」彼の声は氷のように冷たい。「それとも、早川奈緒が嫁いだところで、すぐに死ぬとでも思っているのか?」
「早川家がどんな思惑でいようと――」九条凛は断固たる口調で言い切った。「一度九条家の門をくぐった者は、俺が生きていようと死んでいようと、治療できようとできまいと、決して誰にも、九条家に関わる者を侮辱させない。早川家とて例外ではない。」
九条家は、身内に対して徹底して庇護する一族だった。
「どうやら早川家の思惑は、完全に外れたようですね。」内木優哉が小さく笑う。早川家は、九条家が早川奈緒を受け入れれば文句も言えないだろうと踏んでいた。九条家が彼女をかばうはずがない、そう踏んでいたのだ。
二階の寝室
早川奈緒は薬箱を置き、貴重な薬材を分けたり調合したりと、黙々と作業していた。外はすっかり夜になっている。ようやく首のこりをほぐしながら立ち上がると、足が痺れてよろめいてしまった。
そのまま床に仰向けに倒れ込み、薬草の香りに鼻をくすぐられながら、心も落ち着いてくる。ふとスマートフォンの画面が光る――着信が三件、すべて早川拓海からだ。
奈緒は無視して連絡先を眺め、東京に友人が一人もいないことに気づく。
「……本当に、ばかだな、早川奈緒。」自嘲気味に笑った。わずかな家族の情を信じて七ヶ月も早川家に尽くし、自分を孤島のような存在にしてしまったのだ。
再びスマートフォンが震え、「冷泉慎也」の名前が表示される。すぐに着信を切った。
すぐにメッセージが届く。【なぜ電話に出ない?今すぐ折り返せ!】
【電話しろ、話がある!】
この命令口調に、奈緒の気分はますます悪くなる。再び着信音が鳴ると、ためらうことなく着信拒否にした。
その時、ノックの音が響いた。奈緒は立ち上がり、調合した薬包を持ってドアを開けた。
執事が丁寧に立っている。「奥様、夕食の時間でございます。」彼は横に控え、二階の小ホールには丁寧に用意された料理が並んでいた。「凛様から“お休み中はお邪魔しないように”とのご指示がありましたが、もう遅い時間ですし、きっとお腹も空かれているでしょう。」執事の態度は終始敬意に満ちていた。
九条家の人々の対応に、奈緒は少し驚いた。
「ありがとう。」彼女は薬包を差し出した。「これは凛様の薬湯用です。毎晩、夜になる前に必ず半時間は入浴させてください。」真剣な表情で言う。「絶対に忘れないでください。怠ると、抑えていた毒素が倍になって反撃し、命に関わります。」
執事の顔色が一変し、薬包を宝物のように両手で大切に受け取った。「奥様……もし、もし万が一発作が起きたら、どうすれば……?」