電話の向こうで、早川愛花はようやく涙を拭い、明るい声を取り戻した。「ありがとう、慎也!やっぱり一番頼りになるのはあなただよ!」
冷泉慎也はその甘えた声に心がほころび、さっきまでの気まずさも忘れて、優しく言った。「もう心配しないで。明日はバラエティ番組の収録だろ?早く休むんだよ。」
「うん、じゃあ切るね。」早川愛花は手早く電話を切った。
冷泉慎也はスマホを握ったまま、イライラと額を叩いた。早川奈緒の冷たい視線が頭から離れない。
「絶対、気を引こうとしてるだけだ!」自分に言い聞かせるように呟く。「なにを気取ってるんだ?俺は彼女がバツイチでも気にしないのに、なんで俺が私生児ってだけで拒否されなきゃいけない?」そう思うと少し気が晴れ、車を発進させた。
路地の陰に隠れて、早川奈緒は冷泉慎也がアイスをぶつけられて慌てている様子を無表情で見ていたが、口元にかすかな笑みが浮かんだ。気分が晴れやかになる。
タクシーを止めて乗り込む。窓の外に夜の街並みが流れる中、杏色の瞳を細めて考えた。「私が急に外出したのに、どうしてあんなに正確に待ち伏せできたの?」
一瞬の疑念が頭をよぎり、すぐさまスマホにコードを入力する。画面には赤いアラートが点滅し、隠された位置情報アプリが浮かび上がった。
「ふっ。」奈緒は冷ややかに笑う。以前、冷泉慎也が「電話をかける」と言って自分のスマホを借りたことを思い出した。あのとき、仕込まれていたのか。名の知れた芸能人が、こんな卑劣な真似をするなんて!
彼女はすぐにアプリを削除せず、逆にウイルスを仕込んで冷泉慎也のスマホに侵入し、保存されていた全データを瞬時にコピーした。
メッセージアプリを開くと、早川愛花から送られてきたばかりのメッセージが目に入った。奈緒は目を細め、二人のトーク履歴をざっと見返す――あやふやな言葉や下品なやり取りが並んでいた。
「なるほど……。」奈緒はすべてを悟った。愛花は両方に嘘をついていたのだ。奈緒には「冷泉慎也があなたに気がある」とささやき、一方で冷泉慎也には「奈緒があなたに夢中で、しつこく言い寄っている」と嘘を吹き込んでいた!
だから冷泉慎也は、あんなにも自信ありげに奈緒を操作しようとしたのか。これが前世の自分を鬱に追い込んだ元凶のひとつだったとは!
奈緒は素早くスクリーンショットを撮り、重要な会話ログを複数のクラウドメールにバックアップした。すべてが終わるころ、ちょうどタクシーは九条家本邸の前に到着した。
部屋に戻ると、サイドテーブルにお菓子と温かいミルクが置かれていた。奈緒は少し驚き、ミルクを手に取って匂いを確かめ、異常がないことを確認してから飲もうとした。
「コンコン!」と、急なノックの音。
「どなた?」奈緒はカップを置き、ドアを開けた。
執事が焦った表情で現れた。「奥様!お帰りなさいませ!凛様が薬湯に入った直後、急に吐血されたのです!」
「すぐ案内して!」奈緒は表情を引き締め、足早に九条凛の部屋へと向かった。執事と内木優哉が慌てて後に続く。奈緒はためらうことなく、しっかりと閉じられた浴室のドアを開け放った。湯気が一気に立ち込めてくる。
「奥様……」執事が止めようとするが、内木優哉が素早く執事の口を手で塞いだ。
「奥様と呼んでるんだ。浴室に入っても不思議じゃないだろ?」と小声で囁くと、執事も納得した様子。
浴室内は湯気で白く霞んでいた。九条凛の大きな身体がバスタブに沈み、引き締まった背中と力強い腕が水面に浮かんでいる。腕は無造作にバスタブの縁に置かれていた。
奈緒はそっと近づき、彼の首筋で脈を取った。
「誰だ!」九条凛は鋭く反応し、素早く奈緒の手首を掴んだ。ものすごい力だ。
奈緒は思わず前のめりになり、バスタブの縁に手をついて体勢を立て直した。顔を横に向けると、長い髪が垂れ、バスタブの男と鋭い黒い瞳がぴたりと合った。
九条凛は一瞬、全身が固まったが、奈緒だと気づくとすぐに手を離し、横に掛けてあったバスタオルを引き寄せて体を覆った。
「なんで入ってきた?」声はかすれ、冷たさが混じり、空気が一気に張り詰める。
「吐血したって聞いたから、様子を見に来たの。」奈緒は落ち着いた口調で、先ほどのやり取りなどなかったかのように答えた。指先で彼の口元に残る血を拭い、指で揉みながら観察する。
「ここ数年、薬を飲みすぎて体に毒素が溜まってる。薬湯がそれを刺激して、吐血するのは解毒の過程よ。」そう説明し、バスタブの薬湯を見やった。「今日から薬湯以外の薬は全部やめて。飲んでも意味がないから。」
九条凛はバスタブの中で動けずに座ったまま、奈緒が縁に立っている姿を見上げた。美しい指先がふいに水面をなぞる。喉が鳴り、骨ばった手でバスタブの縁をぎゅっと握りしめる。
「わかった。」かすれた声で答える。
「大丈夫。一ヶ月は持たせるって約束したから。」奈緒はそう告げると、突然、彼の裸の肩に手を置いた。
指先のぬくもりが、固く張った肩から首筋をなぞり、喉元をすべり、最後はしっかりと彼の胸の真上に触れた。
九条凛は全身がびくりと震えた。その指先が滑った跡に、微かな電流が走るような心地よい痺れが広がっていく。体の奥底で渦巻いていた激しい痛みが、不思議なことに奈緒の指が触れた瞬間、優しい力に包まれて鎮まっていった。今までにない安堵と心地よさが全身を満たす――。