早川奈緒は不思議そうに振り返ると、執事が手にした上品な食事箱を持って急ぎ足で近づいてきた。
「奥様、」執事は恭しく頭を下げて言った。「凛様からのご指示で、今朝はご出発が早いので朝食を取る時間がないかもしれないと、特別にご用意いたしました。」
差し出された食事箱を見て、奈緒は一瞬戸惑った。早川家で過ごした七か月の間、こんな気遣いを受けたことはなかった。忙しい時は、残り物さえ手に入らないことも多かった。山奥の暮らしに慣れていた彼女は、もともと食事にこだわりはしなかったが、この突然の心遣いに胸の奥が少し複雑に揺れた。
「ありがとう。」そう言って箱を受け取った。
執事は待機していた運転手に合図を送ろうとしたが、奈緒はすぐに断った。
「ご心配なく。自分で呼んだタクシーがもうすぐ来ますから。」そう説明すると、「バラエティ番組の現場は人が多くて目立つし、家の車を使うとパパラッチに狙われてしまって、余計な問題になりかねません。」
早川家がこの番組を利用して何か仕掛けてくるのは明らかで、そのうえ危険が潜んでいるかもしれない。奈緒は九条家を巻き込みたくなかった。
「かしこまりました。」執事は素直に答え、キャリーケースと小さなバッグを手に一人で歩き去る奈緒の背中を見送りつつ、心の中でそっと呟いた。「奥様は……あの甘やかされたお嬢様方とは、やっぱり違う。」
車に乗り込んだ奈緒は、食事箱をそっと触った。まだ温かい。中を開けると、おにぎりと玉子焼きがきれいに詰められていた。遠慮せず、静かに朝食を口に運ぶ。
食べ終わった後、箱の底に小さな包みがいくつか入っていることに気付いた。開けてみると、上質な魔除けの塩と虫除けの漢方薬が入っていた。薬の香りも確かで、昨夜薬局で買ったものよりもずっと良さそうだ。
「九条凛が用意させたのかな?」小さく呟いた。本邸で自分の行動を把握しているのは彼くらい。執事がわざわざ朝食を届けてくれたのも、これらを持たせるためなのだろう。
奈緒はためらうことなく薬をバッグにしまった。持っていて損はない。無人島なら備えは多いほどいい。この“親切”の裏にある意味も、彼女は十分理解していた——自分の存在が九条凛の命運に直結していることを。
「運転手さん、埠頭まであとどれくらいですか?」奈緒は尋ねた。
「あと一時間半ほどで、九時前には必ず着きます。」運転手の声にどこか聞き覚えがあった。
奈緒はバックミラー越しに運転手の顔を見る——昨夜、外出の際に九条家から送ってくれた運転手だった。なるほど、さっき本邸でタクシーを呼んだら即座に配車された理由が分かった。この辺りは人通りも少ないし、偶然のはずがない。誰かが彼女が車を呼ぶと読んで、先に待機させていたのだ。
奈緒は気付かぬふりをして、シートにもたれて目を閉じた。
車は八時四十分に埠頭へ到着。奈緒が降りると、運転手は急いでキャリーケースを下ろしてくれた。
「彼にお礼を伝えて。」奈緒は小声でそう言った。
運転手は一瞬驚いたが、すぐに奈緒が全て分かっていることを察し、「承知しました」と答えて車を走らせた。
奈緒はマーチンブーツを履き、堂々と集合場所へ向かった。司会者とカメラマンはすでに待機しており、カメラがすぐに彼女をとらえた。
「早川奈緒さんですね?ようこそ!」司会者がにこやかに手を差し出し、カメラに向かって紹介した。「本日の一人目のゲストが到着です!」
奈緒は横に設置されたリアルタイムコメントの画面に目をやる。
「誰?知らない。」
「エキストラじゃないの?」
「早川奈緒?Twitterでも見つからない……」
奈緒は落ち着いた表情で、コメントなど気にせず、キャリーを持って端のゲスト用椅子に腰を下ろした。早川エンターテインメントに入って七か月、彼女はずっとエキストラばかり。必要な時だけ早川智洋から電話が来て、雑用や手伝いばかりだった。家から本当の意味でチャンスをもらったことはない。
もし生まれ変わっていなかったら、今も「家族の情」だと信じて疑わなかっただろう。実際は、彼らにとって自分は便利な何でも屋――エキストラ、雑用係、家政婦、介護要員、さらには夜中に泥酔した「家族」を迎えに行くことすらあった。
思い出すと、奈緒の瞳に一瞬冷たい光が走った。
「愛花!愛花!」 不意に近くからファンの歓声が上がった。
奈緒が顔を上げると、早川愛花がVネックのドレスを身にまとい、美しい曲線を引き立て、ゆるく巻いた長い髪を揺らしながら、LVのバッグを手にエレガントに歩いてくるところだった。彼女は満足げに微笑み、何度もファンに手を振り、花束を受け取って可愛らしく言った。「応援に来てくれてありがとう!今回の番組、絶対に期待を裏切らないから、みんな大好き!」
「愛花が一番きれい!愛花最高!」ファンの声援が飛ぶ。
愛花は少し恥ずかしそうに微笑み、くるりと振り返ったその瞬間、足元が「偶然」もつれて、バランスを崩してしまう。
「危ない!」 高身長の男性が素早く駆け寄り、彼女の腰をしっかりと抱き寄せた。
愛花がその胸に倒れ込み、なじみのある香りに気付いて慌てて顔を上げると、そこには冷泉慎也の優しい瞳があった。「慎也……」
「足、ひねってない?ちょっと見せて。」冷泉慎也は人目も気にせずその場でしゃがみ、彼女の足首を優しく揉みほぐす。その横顔で、彼は鋭い視線を奈緒に投げつけ、あからさまな挑発と誇示の色を浮かべた。
「わあ!ショウ、優しすぎ!愛花ちゃんとお似合い!」ファンたちは大興奮。
愛花は冷泉慎也の肩に手をそっと置き、控えめに押し返しながら頬を赤らめて言った。「ショウ、大丈夫だよ。ただちょっと滑っただけ。」
彼女の言葉が終わるか終わらないうちに、また別の人影が近づいてきた――早川智洋だった。彼はすぐに手を差し伸べ、心配そうに愛花の腕を支えてゲスト用の椅子へとエスコートし、カメラに向かってにこやかに言った。「すみません、妹がファンに会えて興奮してしまって、ちょっと足を滑らせてしまいました。」