王立学院での新たな日々が始まった。
入学式から一夜明け、朝の校舎はまだ静けさを保っている。
だがその静寂も、生徒たちの活気にすぐに掻き消されていく。
マルガレーテは制服の襟元を指で直しながら、大理石の廊下をまっすぐ歩いていた。
教室の扉を開けると、すでに数人の生徒が着席しており、ひそひそと声を交わしている。
その視線の先には――エルザ・グラーツの姿があった。
彼女は窓際の席に静かに座り、ノートに何かを走り書きしていた。
昨日の入学式での印象が、まだ鮮烈に残っているのだろう。
周囲の視線には好奇心と警戒、そして僅かな羨望が混じっていた。
「グラーツ嬢、もう予習ですか? さすが特待生ですね」
そう声をかけたのは、ホフマン伯爵家の次女だった。
だがその声音には、どこか含みがある。
「はい。早く授業に馴染めるようにと思いまして」
エルザはにこやかに応じる。
だが、その姿勢がまた一部の生徒には鼻につくようだ。
マルガレーテはそのやり取りを黙って見つめながら、自分の席へと向かった。
教室の後方、窓から少し離れたその席。
彼女の隣は、ユリウスがいる。
マルガレーテに特例としてユリウスの隣の席を
第三王子としての威厳を崩さずに立つその姿は、自然と周囲を静めていく。
「おはよう、マルガレーテ」
「おはようございます、ユリウス殿下」
マルガレーテはわずかに笑みを浮かべて応じるが、その視線はちらりとエルザへと向かう。
「彼女が気になるのかい?」
ユリウスの声音は穏やかだった。
だが、その瞳には
「少しだけ。……殿下は、昨日の演説をどう思われましたか?」
「立派だったと思う。彼女には芯がある。だが、だからこそ試されるだろうね」
彼の言葉には特別な感情は見られなかった。
だが、それだけにマルガレーテの胸には、言葉にできないもやもやとした気持ちが残った。
そして。
扉が開いて一人の教師が入ってくる。
授業の開始を告げる声が響き、
初めての授業は、歴史学だった。
講義の中で、貴族制度の成り立ちや王家の沿革などが語られ、何人かの生徒がうとうとと
(やっぱり、彼女はただの特待生じゃない)
マルガレーテは胸の奥に、小さな対抗心のようなものを抱いていた。
それが嫉妬なのか、競争心なのか、自分でも分からない。
ただ、エルザという存在が、自分の立場に影響を及ぼすのではないかという不安だけは確かだった。
一方、その様子を離れた場所から見つめるもう一人――フィロメーラは、姉として妹の表情の変化を敏感に読み取っていた。
(波紋は、もう広がっている。静かに、けれど確実に……)
妹には真実を告げられない。
だが、守ると決めた以上、すべての兆しを見逃すわけにはいかない。
(私が、変えなければ)
そう考えるフィロメーラは、背後に近付く影に気付かずにいた。
「フィロメーラ・ベルクヴァイン。授業はもう始まっているが?」
フィロメーラは顔を引き攣らせながら振り向いた。
そう。彼女自身も生徒の身。マルガレーテのことばかり気にしている場合ではない。
「申し訳ありません、レッチェルト先生。少し眩暈がしておりまして――。もう少しだけ、ここで休んでいて構いませんでしょうか」
「具合が悪いのか。それはすまない。気付かなかった。保健室へ行くか?」
「いえ、少し休めば大丈夫だと思います。ただ、少し足元がふらつきますので」
「わかった。担任に伝えておこう」
「お手数をお掛けし、申し訳ありません。落ち着き次第、すぐ参ります」
「無理をしないように」
フィロメーラは小さく頷いて、また、窓枠に凭れ掛かった。
視線の先には一年生の教室。そしてマルガレーテ。
(普段から優等生で通していて、よかった)
何の疑いも無く信じてくれる教師に、少しばかり罪悪感を抱くが、ことは妹の未来に関わる。
些末なことになど構っていられるものか。
フィロメーラは小さく、けれど長く溜息を吐いた。
◆
午後の陽が傾きかけた頃、ベルクヴァイン侯爵邸の一室は落ち着いた静けさに包まれていた。
マルガレーテの私室では、制服を着たままの彼女が、
部屋にはきちんと整えられた家具、花の刺繍が施されたクッション、銀のブラシが机の上で日差しを反射している。
マルガレーテの表情は晴れない。
机の端に置かれたノートには、エルザ・グラーツの名前。
今日の授業で目立っていたその姿が、どうしても頭から離れなかった。
(あの子、どこか完璧すぎるのよ)
表面的には礼儀正しく、態度も謙虚。
けれどそのどれもが、周囲に好感を与えるよう計算されているように思えてならなかった。
そんなこと、あり得ないのはわかっているのに。
何故か気に障る。
――そして、そんな自分が嫌で仕方ない。
ノックの音がした。
「マルガレーテ、入るわよ」
扉の向こうから聞こえたのは、聞き慣れた声。
マルガレーテは返事もせず、視線を窓の外に向けた。
扉が静かに開かれ、フィロメーラが入ってくる。
「初日、お疲れさま。……どうだった? 授業」
「……別に。普通だったわ」
マルガレーテの声はそっけない。
フィロメーラは少しだけ眉を
「エルザ・グラーツのこと、気にしているの?」
「……あんなの、誰だって気にするでしょう」
マルガレーテがぽつりと漏らす。
その声には、怒りよりも戸惑いが混じっていた。
「
フィロメーラはそっとベッドの端に腰を下ろした。
マルガレーテの頬にかかる髪を、優しく掻き上げる。
「貴方は、貴方のままでいいのよ。比べなくても」
「……お姉さまは、いつもそう言うわね。でも、結果として選ばれるのは、ああいう子なのよ――殿下も……ああいう子の方が、お好きかもしれない」
フィロメーラは黙ってマルガレーテの手を握った。
言葉で何かを否定するよりも、今はただ、その不安を受け止めてやりたかった。
だが、内心では焦りもあった。
マルガレーテの中に芽生えた不安と劣等感。
それが、物語の「悪役令嬢」としての行動へ繋がる種と成り得ることを、フィロメーラはよく知っていた。
(まだ間に合う。すこしずつでも道を正していけば……きっと)
「
マルガレーテは、僅かに頷いた。
だがその目は、どこか遠くを見つめていた。
姉妹の距離は、確かに近い。
けれど、それでもほんの少しの隙間が、すれ違いを生むのだった。