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第5話 静かな楔

 翌日、学院では特別講義として、上級生との合同討論会が開かれていた。

 テーマは「王国における貴族と平民の協調」。

 マルガレーテとエルザが同じ班になったのは、偶然だったのか、それとも何者かの意図が働いたのか。


 フィロメーラは別の班に属していたが、妹とエルザの様子には常に意識を向けていた。


「協調のためには、まず互いを尊重する意識が必要だと思います」


 エルザの発言は簡潔で理知的だった。

 周囲の上級生たちも頷く者が多い。


 だが、マルガレーテはうまく反論ができず、ただ黙っていた。

 討論会が終わる頃、フィロメーラは決意する。


(今、介入すべきだ)


 その放課後。

 エルザが一人で資料を返しに向かった図書館で、声を掛けた。


「グラーツ嬢、少しお時間をいただけますか」


 驚いたように振り返ったエルザだったが、すぐに微笑む。


「はい。なんでしょうか、フィロメーラ先輩」


 フィロメーラは戸棚の影で視線を合わせたまま、慎重に言葉を選ぶ。


「……わたくしの妹、マルガレーテが時に無愛想に感じられることがあるかもしれません。ですが、それは不器用なだけなのです。どうか、誤解なさらないで」


 エルザは少し驚いたように目を見開いた。

 だがすぐに、穏やかに頷いた。


「……はい。分かっています。私、マルガレーテさまのこと、嫌いではありません」


 その一言に、フィロメーラは内心で深く息を吐いた。


「ありがとう。彼女も、貴方のことを……少し気にしすぎているだけなのです。少しばかり、他の方よりもきちんとしていないと、という気持ちが強過ぎて。……いえ、悪気が無ければいいという問題で無いのは承知しています。その点は――ごめんなさいね」


「いいえ。……それも、なんとなくわかります。王子殿下の婚約者というお立場で、一生懸命になさっているのですよね。素晴らしいことだと思います」


 二人の間に、静かで穏やかな空気が流れた。

 フィロメーラはそれ以上は何も言わず、静かに礼をして図書館を後にした。


(まず一歩……ひとつ、火種を減らした。でも、まだひとつだけ)


 だが、すべての問題が解決したわけではない。

 マルガレーテの心の中には、まだ影が残っていた。

 それがどこで再び表に出るか。


(私がフォローできる範囲は限られている――ああ、私も一年生だったなら……!)


 歯噛みしたところで、どうなるものでもない。

 フィロメーラは彼女の出来る範囲で、出来る限りのことをするしかない。


 ◆


 学院の庭園には、季節の花々が咲き誇り、柔らかな風が木々を揺らしていた。

 昼休み、マルガレーテは一人で東の回廊を歩いていた。

 その心は穏やかではなかった。


 エルザとユリウスの姿を、講義後の廊下で見かけたのだ。

 二人は何か話していたが、その距離感が妙に近く見えた。


(殿下があの子と……?)


 胸の奥に、もやのような感情が渦巻く。

 確かにユリウスは、誰に対しても公平であるよう心がけている。

 だが、エルザに向ける視線は、どこか柔らかさを帯びていたように感じられた。


(私の勘違い、かしら。でも……)


 自分でも気づかぬうちに歩みは速くなり、やがて回廊を曲がった先で、思わぬ場面に遭遇する。


「……の加減がとても綺麗ですね、ユリウス殿下」

「君の言葉でそう感じるなら、なおさらだ。ありがとう、エルザ嬢」


 ユリウスが微笑んでいた。

 その穏やかな笑みは、マルガレーテの知る王子の顔とは少し違って見えた。

 まるで、何かを許し、受け入れているような。


 特別な、なにか。


 マルガレーテの心臓が、一つ大きく脈打った。

 足が止まり、口元が僅かに開く。

 そのとき――


「マルガレーテ?」


 ユリウスがこちらに気付き、声をかけた。

 マルガレーテは一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐに笑顔を浮かべて近づいた。


「殿下、エルザ嬢。こんな所でお話とは、珍しい取り合わせですわね」


 エルザが少しだけ困ったように微笑む。


「ごめんなさい、マルガレーテさま。ちょっと資料の話をしていただけで……」

「そう、でしたの」


 マルガレーテの声音は穏やかだった。

 けれど、その笑顔の奥には冷たいものが宿っていた。

 ユリウスはその微かな揺らぎに気付いたが、敢えて触れなかった。


「そろそろ戻ろう。午後の講義が始まる」


 そう言って、ユリウスはマルガレーテの隣に立つ。

 だが、その間に一瞬の沈黙が流れた。


(殿下の隣は、私の場所なのに……)


 マルガレーテの胸には、不安と疑念がわずかに芽を出し始めていた。

 フィロメーラが恐れていた「感情の種」が、静かに目を覚ます。


 ◆


 その日の夕方、フィロメーラは学舎の裏庭にある噴水の前にいた。

 すべての授業が終わり、生徒たちが思い思いに寮や馬車へと帰っていく中、彼女は一人、冷えた石畳の上で佇んでいた。

 午前中、マルガレーテが東回廊でエルザとユリウスの会話を目にしたという話だ。

 フィロメーラの級友たちの何気ない噂話。

 だが、それを聞いたのがだということが問題だった。


(それを直接私に言わなかった……タイミングが悪かっただけかもしれない。でも……敢えて言わなかったのだとしたら――)


 危険信号だ。


 マルガレーテは、何でもすぐに姉であるフィロメーラに打ち明ける子だった。

 甘えたで、素直で可愛い、でも少しわがままな妹。


 なのに、何も言わず黙っている。

 心が塞がりかけている証拠だった。


 その夜、侯爵邸。

 夕食の後、フィロメーラはマルガレーテを自室に呼び寄せた。


「何か、言いたいことがあるのではなくて?」


 言葉を選ばずに切り出す。

 マルガレーテは最初、ぽかんとした顔をしていたが、すぐに視線を逸らす。


「……別に。何もないわ」

「エルザ嬢とユリウス殿下の話を、聞いたわ」


 マルガレーテの体が、びくりと揺れた。


「……見たの。偶然。二人が、すごく……自然に話していたから」


 唇を噛むように言葉を絞り出すその様子に、フィロメーラはそっと手を伸ばした。


「嫉妬するのは当然よ。貴方は殿下の婚約者なのだから」


「でも、あの子のほうが……わたくしより落ち着いてて、きれいで、言葉も上手で……」


「そんなの関係ないわ。ユリウス殿下の婚約者は、貴方だけよ」


 マルガレーテは黙ったまま、姉の手を握り返した。

 フィロメーラはマルガレーテを抱き寄せると、頭をそっと撫でて、落ち着かせる。


「大丈夫よ、マルガレーテ。何かあっても、わたくしが絶対に、何とかしてみせるわ。お姉さまを信じなさい。わたくしが貴方に嘘をいたことがあった?」


「お姉さまは、嘘は吐かないわ。――教えてくれないことは多いけど」


「淑女は秘密が多いものよ」


 その抱擁は、言葉以上に強く、確かにマルガレーテに届いた。

 けれど。

 その夜、マルガレーテの夢には、エルザとユリウスの寄り添う姿が出て来ていた。

 微笑み合うその光景が、心の奥に棘となって残り続けた。



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