翌日、学院では特別講義として、上級生との合同討論会が開かれていた。
テーマは「王国における貴族と平民の協調」。
マルガレーテとエルザが同じ班になったのは、偶然だったのか、それとも何者かの意図が働いたのか。
フィロメーラは別の班に属していたが、妹とエルザの様子には常に意識を向けていた。
「協調のためには、まず互いを尊重する意識が必要だと思います」
エルザの発言は簡潔で理知的だった。
周囲の上級生たちも頷く者が多い。
だが、マルガレーテはうまく反論ができず、ただ黙っていた。
討論会が終わる頃、フィロメーラは決意する。
(今、介入すべきだ)
その放課後。
エルザが一人で資料を返しに向かった図書館で、声を掛けた。
「グラーツ嬢、少しお時間をいただけますか」
驚いたように振り返ったエルザだったが、すぐに微笑む。
「はい。なんでしょうか、フィロメーラ先輩」
フィロメーラは戸棚の影で視線を合わせたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「……
エルザは少し驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、穏やかに頷いた。
「……はい。分かっています。私、マルガレーテさまのこと、嫌いではありません」
その一言に、フィロメーラは内心で深く息を吐いた。
「ありがとう。彼女も、貴方のことを……少し気にしすぎているだけなのです。少しばかり、他の方よりもきちんとしていないと、という気持ちが強過ぎて。……いえ、悪気が無ければいいという問題で無いのは承知しています。その点は――ごめんなさいね」
「いいえ。……それも、なんとなくわかります。王子殿下の婚約者というお立場で、一生懸命になさっているのですよね。素晴らしいことだと思います」
二人の間に、静かで穏やかな空気が流れた。
フィロメーラはそれ以上は何も言わず、静かに礼をして図書館を後にした。
(まず一歩……ひとつ、火種を減らした。でも、まだひとつだけ)
だが、すべての問題が解決したわけではない。
マルガレーテの心の中には、まだ影が残っていた。
それがどこで再び表に出るか。
(私がフォローできる範囲は限られている――ああ、私も一年生だったなら……!)
歯噛みしたところで、どうなるものでもない。
フィロメーラは彼女の出来る範囲で、出来る限りのことをするしかない。
◆
学院の庭園には、季節の花々が咲き誇り、柔らかな風が木々を揺らしていた。
昼休み、マルガレーテは一人で東の回廊を歩いていた。
その心は穏やかではなかった。
エルザとユリウスの姿を、講義後の廊下で見かけたのだ。
二人は何か話していたが、その距離感が妙に近く見えた。
(殿下があの子と……?)
胸の奥に、
確かにユリウスは、誰に対しても公平であるよう心がけている。
だが、エルザに向ける視線は、どこか柔らかさを帯びていたように感じられた。
(私の勘違い、かしら。でも……)
自分でも気づかぬうちに歩みは速くなり、やがて回廊を曲がった先で、思わぬ場面に遭遇する。
「……の加減がとても綺麗ですね、ユリウス殿下」
「君の言葉でそう感じるなら、なおさらだ。ありがとう、エルザ嬢」
ユリウスが微笑んでいた。
その穏やかな笑みは、マルガレーテの知る王子の顔とは少し違って見えた。
まるで、何かを許し、受け入れているような。
特別な、なにか。
マルガレーテの心臓が、一つ大きく脈打った。
足が止まり、口元が僅かに開く。
そのとき――
「マルガレーテ?」
ユリウスがこちらに気付き、声をかけた。
マルガレーテは一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐに笑顔を浮かべて近づいた。
「殿下、エルザ嬢。こんな所でお話とは、珍しい取り合わせですわね」
エルザが少しだけ困ったように微笑む。
「ごめんなさい、マルガレーテさま。ちょっと資料の話をしていただけで……」
「そう、でしたの」
マルガレーテの声音は穏やかだった。
けれど、その笑顔の奥には冷たいものが宿っていた。
ユリウスはその微かな揺らぎに気付いたが、敢えて触れなかった。
「そろそろ戻ろう。午後の講義が始まる」
そう言って、ユリウスはマルガレーテの隣に立つ。
だが、その間に一瞬の沈黙が流れた。
(殿下の隣は、私の場所なのに……)
マルガレーテの胸には、不安と疑念がわずかに芽を出し始めていた。
フィロメーラが恐れていた「感情の種」が、静かに目を覚ます。
◆
その日の夕方、フィロメーラは学舎の裏庭にある噴水の前にいた。
すべての授業が終わり、生徒たちが思い思いに寮や馬車へと帰っていく中、彼女は一人、冷えた石畳の上で佇んでいた。
午前中、マルガレーテが東回廊でエルザとユリウスの会話を目にしたという話だ。
フィロメーラの級友たちの何気ない噂話。
だが、それを聞いたのが
(それを直接私に言わなかった……タイミングが悪かっただけかもしれない。でも……敢えて言わなかったのだとしたら――)
危険信号だ。
マルガレーテは、何でもすぐに姉であるフィロメーラに打ち明ける子だった。
甘えたで、素直で可愛い、でも少しわがままな妹。
なのに、何も言わず黙っている。
心が塞がりかけている証拠だった。
その夜、侯爵邸。
夕食の後、フィロメーラはマルガレーテを自室に呼び寄せた。
「何か、言いたいことがあるのではなくて?」
言葉を選ばずに切り出す。
マルガレーテは最初、ぽかんとした顔をしていたが、すぐに視線を逸らす。
「……別に。何もないわ」
「エルザ嬢とユリウス殿下の話を、聞いたわ」
マルガレーテの体が、びくりと揺れた。
「……見たの。偶然。二人が、すごく……自然に話していたから」
唇を噛むように言葉を絞り出すその様子に、フィロメーラはそっと手を伸ばした。
「嫉妬するのは当然よ。貴方は殿下の婚約者なのだから」
「でも、あの子のほうが……
「そんなの関係ないわ。ユリウス殿下の婚約者は、貴方だけよ」
マルガレーテは黙ったまま、姉の手を握り返した。
フィロメーラはマルガレーテを抱き寄せると、頭をそっと撫でて、落ち着かせる。
「大丈夫よ、マルガレーテ。何かあっても、
「お姉さまは、嘘は吐かないわ。――教えてくれないことは多いけど」
「淑女は秘密が多いものよ」
その抱擁は、言葉以上に強く、確かにマルガレーテに届いた。
けれど。
その夜、マルガレーテの夢には、エルザとユリウスの寄り添う姿が出て来ていた。
微笑み合うその光景が、心の奥に棘となって残り続けた。