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第6話 舞踏会の夜

 学院主催の舞踏会は、貴族子女にとって最も華やかで、そして最も注目される行事のひとつだ。

 この日、王立学院の大広間は白い花と銀の装飾に彩られて。

 無数の燭台が黄金の光をきらきらと揺らしていた。

 生徒たちは正装に身を包み、煌びやかな笑顔を交わしながら談笑し、音楽隊の奏でる緩やかな調べに合わせて優雅に踊る。


 フィロメーラは、淡い藤色のドレスを身にまとい、会場の片隅でグラスを傾けていた。

 無論、中身はジュースである。


 マルガレーテはユリウスと共に既に舞踏会の中心にいたが、その距離にはまだぎこちなさが残っている。


(もう一歩。あと少しなのに)


 フィロメーラが視線を巡らせていたそのとき、歩み寄ってきた者がいた。

 ハインリヒ・クライスラー。


「壁の花ですか。貴方らしくもない。華やかにその姿を披露したら如何です? 孔雀のように」


「ごきげんよう、ハインリヒ様。皮肉は舞踏ダンスの代わりかしら」


 言葉を交わしながらも、互いにどこか警戒を崩さない。

 だがその夜のハインリヒは、いつもより真剣な眼差しをしていた。


「本気で言っている。今夜は、貴方に伝えておくべきことがある」

「……どういう意味かしら」


 グラスを置き、フィロメーラも真顔になる。


「マルガレーテ嬢の評判が、一部の生徒の間で怪しくなってきている。グラーツ嬢への嫉妬だと面白おかしく噂されている」


「……誰が広めたの?」


「名指しは控えるが、貴方も察しているだろう。王家も、ユリウス殿下も、そうした小波には過敏だ。崩れるのは一瞬だぞ」


 フィロメーラは強く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「忠告を感謝します。他ならぬ貴方が伝えてくれたという事実も」

「私が誰の味方か、貴方なら理解しているだろう」


「理解しているわ」


 家同士が反目していようと、ハインリヒはユリウスの味方だ。

 つまり、マルガレーテの利になるよう立ち回ってくれている。


 ユリウスの気持ちがマルガレーテにある、


 フィロメーラは静かに一礼し、ドレスの裾をひるがえして歩き出した。

 視線の先には、まだぎこちなく顔を強張らせた妹が、マルガレーテが居る。


(今夜こそ、二人を繋げる)


 舞踏会の月明かりが、静かにその背を押していた。


 ◆


 舞踏会の後半、楽団の奏でる音楽はゆったりとした円舞曲ワルツへと移り変わっていた。

 大広間の中央では、いくつものドレスと礼服が、ゆるやかに弧を描いてまるで花畑のようだ。


 フィロメーラは人の流れを見極め、時宜タイミングを図っていた。


 マルガレーテは会場の隅、噴水の見えるテラスへ出ていた。

 肩を落とし、装飾のほどこされた手すりにそっと寄りかかって、物憂げに。


 その姿を見つけたフィロメーラは、ひとつ息を吐いて背筋を伸ばした。


「マルガレーテ、こんなところにいたのね」

「……少し、騒がし過ぎたから」


 マルガレーテは振り向きもせずに答える。


舞踏ダンスの誘いは?」

「……断ったわ」


「それは、もったいないことね」


 フィロメーラはマルガレーテの隣に並び、そっと視線をやる。


「ユリウス殿下、探していたわよ」


 その一言に、マルガレーテの肩がぴくりと動いた。


「……今更、何を話せばいいのか分からないの」

「素直に謝ればいいのよ。貴方が後悔してるってことを、伝えれば」


「それで……許してもらえるかしら」

「それは、試してみないと分からない。でも、何もしないより、ずっと前に進めるわ」


 その瞬間、テラスの奥から誰かの足音が近づいてきた。

 姿を現したのは、ユリウスだった。


「……マルガレーテ」


 彼の声に、マルガレーテは目を見開く。


「殿下……」

「少し、話せるかい」


 フィロメーラは静かに後ろへ下がり、二人だけを残す。

 マルガレーテは一歩踏み出し、ゆっくりと頭を下げた。


「先日は……ひどいことを言いました。わたくしは――嫉妬していたのです」


 言葉は震えていた。

 だが、マルガレーテは逃げずに言い切った。

 ユリウスはしばし無言で彼女を見つめたあと、穏やかに口を開く。


「ありがとう。君が素直に告げてくれて、嬉しい。僕のことで、嫉妬してくれたということも含めて、ね」


「許して……頂けますか」


「僕は、君を嫌いになったことなんてないよ」


 マルガレーテの目に、涙が滲んだ。

 そして、ユリウスはそっと手を差し出した。


「次の曲、君と踊りたい」

「……はい」


 その夜、月と星のもとで、二人は再び手を取り合った。

 その様子を遠くから見つめていたフィロメーラは、深く胸を撫で下ろす。


(ようやく、ひとつ軌道修正できた……)


 だが、物語の試練はまだ続いていく。

 未来は、まだエルザの手の中にある。


 ◆


 舞踏会が終わり、王立学院の広間には名残惜しげな空気が漂っていた。

 生徒たちは次々と退出し、馬車へと向かう。


 フィロメーラ・ベルクヴァインは一人、回廊を歩いていた。

 灯りのともったランプが床に影を落とし、足音が静かに響く。

 その先に、待っている影があった。

 柱に寄りかかっているその姿は――


「フィロメーラ嬢。終わったようだな」


 ハインリヒ・クライスラー。

 軽く笑ってはいたが、その眼差しはどこか優しかった。


「今回の件、ありがとう。貴方の忠告がなければ、取り返しがつかないことになっていたかもしれない」


 フィロメーラは正面から彼を見つめ、深く頭を下げた。


「……礼など要らない。私は、見ていたいだけだ。貴方が何を守るか、どう進むか」


「皮肉かと思ったけれど……今夜は、違うのね」


 二つ年下の生意気な少年。だが、それだけでは収まらない。

 ハインリヒは優秀だ。そして手強い相手でもある。

 だが、味方に付ければ心強い。


 ハインリヒは小さく息を吐いた。


「貴方は強い。だが、一人で戦う必要はない。時には、誰かに頼ってもいいと思うぞ」


「……貴方が、その“誰か”になるつもり? ベルクヴァインと反目する、クライスラーの嫡子が?」


 少しだけ微笑んで尋ねたその言葉に、ハインリヒははっとしたように視線を外した。

 そう。

 家同士が反目している以上、不用意に近付くべきではない相手。

 それはお互いによくわかっている。


「気が向けば、な。後は運と機会とに恵まれればだ」


 その返しに、フィロメーラもまた微笑む。


「考えるまでもなく、前途多難ですけれど。その時は、遠慮なく頼らせて頂くわ」


 二人の間に、心地よい沈黙が流れた。

 夜風が窓から吹き抜け、遠くの空に、淡い星が瞬いていた。



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