学院主催の舞踏会は、貴族子女にとって最も華やかで、そして最も注目される行事のひとつだ。
この日、王立学院の大広間は白い花と銀の装飾に彩られて。
無数の燭台が黄金の光をきらきらと揺らしていた。
生徒たちは正装に身を包み、煌びやかな笑顔を交わしながら談笑し、音楽隊の奏でる緩やかな調べに合わせて優雅に踊る。
フィロメーラは、淡い藤色のドレスを身にまとい、会場の片隅でグラスを傾けていた。
無論、中身はジュースである。
マルガレーテはユリウスと共に既に舞踏会の中心にいたが、その距離にはまだぎこちなさが残っている。
(もう一歩。あと少しなのに)
フィロメーラが視線を巡らせていたそのとき、歩み寄ってきた者がいた。
ハインリヒ・クライスラー。
「壁の花ですか。貴方らしくもない。華やかにその姿を披露したら如何です? 孔雀のように」
「ごきげんよう、ハインリヒ様。皮肉は
言葉を交わしながらも、互いにどこか警戒を崩さない。
だがその夜のハインリヒは、いつもより真剣な眼差しをしていた。
「本気で言っている。今夜は、貴方に伝えておくべきことがある」
「……どういう意味かしら」
グラスを置き、フィロメーラも真顔になる。
「マルガレーテ嬢の評判が、一部の生徒の間で怪しくなってきている。グラーツ嬢への嫉妬だと面白おかしく噂されている」
「……誰が広めたの?」
「名指しは控えるが、貴方も察しているだろう。王家も、ユリウス殿下も、そうした小波には過敏だ。崩れるのは一瞬だぞ」
フィロメーラは強く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「忠告を感謝します。他ならぬ貴方が伝えてくれたという事実も」
「私が誰の味方か、貴方なら理解しているだろう」
「理解しているわ」
家同士が反目していようと、ハインリヒはユリウスの味方だ。
つまり、マルガレーテの利になるよう立ち回ってくれている。
ユリウスの気持ちがマルガレーテにある、
フィロメーラは静かに一礼し、ドレスの裾を
視線の先には、まだぎこちなく顔を強張らせた妹が、マルガレーテが居る。
(今夜こそ、二人を繋げる)
舞踏会の月明かりが、静かにその背を押していた。
◆
舞踏会の後半、楽団の奏でる音楽はゆったりとした
大広間の中央では、いくつものドレスと礼服が、ゆるやかに弧を描いてまるで花畑のようだ。
フィロメーラは人の流れを見極め、
マルガレーテは会場の隅、噴水の見えるテラスへ出ていた。
肩を落とし、装飾の
その姿を見つけたフィロメーラは、ひとつ息を吐いて背筋を伸ばした。
「マルガレーテ、こんなところにいたのね」
「……少し、騒がし過ぎたから」
マルガレーテは振り向きもせずに答える。
「
「……断ったわ」
「それは、もったいないことね」
フィロメーラはマルガレーテの隣に並び、そっと視線をやる。
「ユリウス殿下、探していたわよ」
その一言に、マルガレーテの肩がぴくりと動いた。
「……今更、何を話せばいいのか分からないの」
「素直に謝ればいいのよ。貴方が後悔してるってことを、伝えれば」
「それで……許してもらえるかしら」
「それは、試してみないと分からない。でも、何もしないより、ずっと前に進めるわ」
その瞬間、テラスの奥から誰かの足音が近づいてきた。
姿を現したのは、ユリウスだった。
「……マルガレーテ」
彼の声に、マルガレーテは目を見開く。
「殿下……」
「少し、話せるかい」
フィロメーラは静かに後ろへ下がり、二人だけを残す。
マルガレーテは一歩踏み出し、ゆっくりと頭を下げた。
「先日は……ひどいことを言いました。
言葉は震えていた。
だが、マルガレーテは逃げずに言い切った。
ユリウスはしばし無言で彼女を見つめたあと、穏やかに口を開く。
「ありがとう。君が素直に告げてくれて、嬉しい。僕のことで、嫉妬してくれたということも含めて、ね」
「許して……頂けますか」
「僕は、君を嫌いになったことなんてないよ」
マルガレーテの目に、涙が滲んだ。
そして、ユリウスはそっと手を差し出した。
「次の曲、君と踊りたい」
「……はい」
その夜、月と星のもとで、二人は再び手を取り合った。
その様子を遠くから見つめていたフィロメーラは、深く胸を撫で下ろす。
(ようやく、ひとつ軌道修正できた……)
だが、物語の試練はまだ続いていく。
未来は、まだエルザの手の中にある。
◆
舞踏会が終わり、王立学院の広間には名残惜しげな空気が漂っていた。
生徒たちは次々と退出し、馬車へと向かう。
フィロメーラ・ベルクヴァインは一人、回廊を歩いていた。
灯りのともったランプが床に影を落とし、足音が静かに響く。
その先に、待っている影があった。
柱に寄りかかっているその姿は――
「フィロメーラ嬢。終わったようだな」
ハインリヒ・クライスラー。
軽く笑ってはいたが、その眼差しはどこか優しかった。
「今回の件、ありがとう。貴方の忠告がなければ、取り返しがつかないことになっていたかもしれない」
フィロメーラは正面から彼を見つめ、深く頭を下げた。
「……礼など要らない。私は、見ていたいだけだ。貴方が何を守るか、どう進むか」
「皮肉かと思ったけれど……今夜は、違うのね」
二つ年下の生意気な少年。だが、それだけでは収まらない。
ハインリヒは優秀だ。そして手強い相手でもある。
だが、味方に付ければ心強い。
ハインリヒは小さく息を吐いた。
「貴方は強い。だが、一人で戦う必要はない。時には、誰かに頼ってもいいと思うぞ」
「……貴方が、その“誰か”になるつもり? ベルクヴァインと反目する、クライスラーの嫡子が?」
少しだけ微笑んで尋ねたその言葉に、ハインリヒははっとしたように視線を外した。
そう。
家同士が反目している以上、不用意に近付くべきではない相手。
それはお互いによくわかっている。
「気が向けば、な。後は運と機会とに恵まれればだ」
その返しに、フィロメーラもまた微笑む。
「考えるまでもなく、前途多難ですけれど。その時は、遠慮なく頼らせて頂くわ」
二人の間に、心地よい沈黙が流れた。
夜風が窓から吹き抜け、遠くの空に、淡い星が瞬いていた。