学院の空気が、また静かに揺れ始めていた。
舞踏会の翌週、生徒たちの間に一つの噂が流れ始めた。
それは、エルザ・グラーツにまつわるものだった。
「王子に取り入るためにわざと目立とうとしている」
「特待生の地位だって、どこまで本当か分からない」
最初は些細な陰口。
だが、それは意図的に火を
不可解な広がり方だった。
わざと広められているのだと、わかった。
だが、火元がわからない。
そう簡単に特定できるようでは貴族などやっていられない。
噂、陰口、根回し。
まだ社交界に出る前の子女にも、それは求められるのだ。
(このままでは、今度はエルザが標的になる。そして、マルガレーテが黒幕として陥れられる可能性が高いわ)
だが、最初に動いたのはフィロメーラではなかった。
昼の休憩時間。
庭園で広がる小さな集団の中に、マルガレーテの声が響いた。
「そのようなこと、事実も確認せずに口にして、恥ずかしいとは思いませんの?」
その場にいた女子たちが息を呑む。
マルガレーテ・ベルクヴァイン。
第三王子の婚約者が、明確に言葉を発した。
「エルザ嬢は、この学院に誰よりも
そして、驚く視線の中で、マルガレーテはエルザの手をそっと取った。
「
エルザは目を見開き、そして小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。マルガレーテさま」
遠くからその様子を見ていたユリウスは、ふと目を細める。
(やはり、マルガレーテは、素晴らしい女性だ)
あの強さ。
真っ直ぐな言葉。
誰かのために立ち上がれる心。
気づけば、彼は胸の奥に熱を覚えていた。
(僕の隣には、彼女こそが居て欲しい)
風がそよぎ、花の香りが淡く香る。
春の空気の中で、マルガレーテとエルザの間には新たな芽が生まれ、そして、ユリウスの中にもまた、想いの種が根を下ろし始めていた。
◆
エルザを巡る騒動は、マルガレーテのひと言によって見事に収束を見せた。
それどころか、あの場面以降、二人の関係には確かな変化が芽生えていた。
「今日は一緒に昼食を、どうかしら?」
「……ええ、ぜひ」
最初はぎこちなかった。
けれど、エルザの微笑と、マルガレーテの不器用な真面目さは、次第に互いを和ませていった。
その様子を遠巻きに見ていた女子たちも、いつの間にか好意的な視線を向けるようになっていた。
一方、その変化をもっとも敏感に感じ取っていたのは、ユリウスだった。
講義の合間にふと目をやれば、マルガレーテがエルザと共に笑っている。
以前は見せなかったような、柔らかな微笑を浮かべて。
それを引き出したエルザに対し、少し嫉妬さえ覚えるくらいだ。
気付けば、視線が離せなくなっていた。
(彼女は、自分の足で誰かと向き合っている)
(守られるだけの存在ではない。……惚れ直す、とはこういう気持ちか)
そんな折。
学院の掲示板に、次なる行事の予告が貼り出された。
上級生と下級生による学術協議発表会。
形式上は発表と交流が主だが、貴族社会においては、後継者の見極めや婚約話の水面下での調整など、思惑が錯綜する重要な催しでもある。
それに伴い、代表発表者としてマルガレーテ、エルザ、そしてユリウスの名が掲げられた。
「まさか、三人で発表?」
「珍しい組み合わせね……」
エルザは一歩引こうとしたが、マルガレーテがその腕を取った。
「やりましょう、一緒に。もう、遠慮はしないで」
その言葉に、エルザの表情がふっと和らぐ。
ユリウスは、そんな二人の姿を見て、心の中で何かが確かに変わったのを感じていた。
「やれやれ、マルガレーテ。少しは僕の方も向いてくれないか。エルザ嬢に嫉妬してしまうよ」
「でっ、殿下!」
「満更冗談でもないのだけど?」
マルガレーテが頬を染め、ユリウスがにこやかに笑い、エルザが憧れの眼差しで二人を見つめる。
ハインリヒは目を細めた。
(一難去ったか)