その知らせは、ひどく静かに、不気味なほどに前触れなく、フィロメーラのもとへと届いた。
「第三王子ユリウス殿下の婚約者を見直すべきではないか」という動きが、一部の貴族間で囁かれている。
表立って声を上げる者はいない。だが、確かに「空気」は変わりつつあった。
エルザ・グラーツの台頭、マルガレーテの変化、そして何より、ベルクヴァイン家が王家と親しすぎることに警戒を抱く者たちの存在。
そしてその陰には、クライスラー侯爵家の名があった。
(ハインリヒが……? いいえ、まさか)
フィロメーラはすぐに否定した。
彼がそんな陰湿な手を使うとは思えない。
少なくとも、本人の意思であれば――
「フィロメーラ嬢、お時間を頂けますか」
絶妙な間で、ハインリヒは現れた。
フィロメーラは噴水の前、ゆっくりと振り返った。
黄昏時。何もかもが曖昧に溶けていくような時間帯。
「丁度良かった。
硬い表情のフィロメーラに、ハインリヒは苦く顔を
「もう、お耳には入っているようですね。ですが、私は貴方にもベルクヴァイン家にも敵意がないと信じてほしい。……家の総意には反するのですが」
フィロメーラは、
ハインリヒの表情はいつになく真剣だった。
「我が父……いえ、“彼ら”は、ユリウス殿下の婚約者に別の令嬢を推している。マルガレーテ嬢ではなく、我が派閥の……とある伯爵家の娘をね」
「つまり、ベルクヴァイン家を外すということ」
「ええ。そのために、いくつかの工作がなされている。……エルザ嬢への中傷も、その一部だ」
フィロメーラは静かに息を呑んだ。
あれほど理不尽で不自然な噂が、自然発生的なものではないと感じていた。
だが、まさかその背後にクライスラー家が――
彼女の視線を察したのか、ハインリヒは
「私は、知らなかったんだ。本当に。先日ようやく気配を感じ取り、父の執務室でそれらしい書状を見つけた。……もう、黙っているつもりはない」
「では、どうなさるおつもり?」
問いかけに、彼はふっと笑みを漏らした。
「手を組みませんか。私と貴方とで。ベルクヴァインとクライスラー――この二つが結びつけば、派閥の力関係は覆るでしょう。むしろ新たな派閥を築ける」
「……結びつく?」
「婚約、です。政略に見せかけた、貴方と私の協定。貴方を守るため、貴方の家を守るため。……そして、妹君を守るために」
唐突な言葉に、フィロメーラはしばし沈黙した。
風が、ふたりの間を通り抜ける。
「驚かれましたか?」
「当然でしょう。貴方、本気で言っているの?」
「勿論です。わざわざこんな冗談を言いに、来たわけではありませんよ」
フィロメーラは一歩、彼に近づいた。
「……では、伺いましょう。貴方はどうやってご両親を説得なさるおつもりかしら? クライスラー家だけでなく、我がベルクヴァイン家も説得しなくてはならないのよ?」
ハインリヒは視線を外さなかった。
軽口はない。皮肉もない。ただ真剣な瞳で、彼は静かに応じた。
「策はあります。まだ確定ではありませんが……少なくとも、父を黙らせる材料も、味方に引き込む余地もあります」
「その“材料”とやら、聞いてもいいかしら」
「時が来れば、すべてお話しします。ですが今は、貴方の返事が欲しい」
フィロメーラは目を伏せた。
政略結婚――それ自体は、貴族にとって珍しいことではない。
だが、これは政略などではない。彼の眸がそう語っていた。
自分の未来と、家の未来を見据えた上での、一つの「選択」。
だが――
「今すぐお返事することは、できません」
「ええ、それで構いません。……ただ一つだけ、忘れないでください」
そう言って、彼は少しだけ近付いた。
その距離に、フィロメーラの心が微かに揺れる。
「私は、ずっと貴方を見ていた。――幼い頃から、ずっとです。気付かなかったでしょう? まったく、自分のこととなると、鈍いにも程があるんですよ、貴方は」
柔らかく、どこか甘い溜め息だった。
フィロメーラが顔を上げたとき、ハインリヒは既に背を向けていた。
庭の影の中へと姿を消していくその背中を、彼女はただ見送ることしかできなかった。
(……どうして、今なの)
そう呟きそうになった唇を、フィロメーラはきゅっと引き結んだ。
大きな流れが、確かに動いている。
彼と、自分と、そして――妹の未来を巻き込んで。
◆
あの日のことを、フィロメーラは何度も思い出していた。
噴水の水音、黄昏色の何もかも曖昧な景色。
そしてハインリヒ・クライスラーの言葉――
「私と手を組みませんか。婚約という形で」
その一言は、彼女の胸の奥に静かに、だが確かに残っている。
冗談ではなかった。
皮肉もなく、彼が見せた真剣な瞳は、フィロメーラの心を確かに揺らした。
けれど、それでも彼女は今も――答えを、出せずにいた。
翌朝。
いつものように侯爵邸の朝食の席についたが、手はあまり進まなかった。
「お姉さま、パンが冷めてしまいますわよ」
向かいの席に座るマルガレーテが、心配そうに声をかける。
「ごめんなさい、少し考え事をしていたわ」
「学院のこと? それとも……何か心配なこと?」
「……いいえ。どうということもないこと、なのだけど、ね」
そう答えながら、フィロメーラは視線を逸らした。
言えるはずがなかった。
あの婚約の提案も、その背景にある陰謀の気配も。
マルガレーテはまだ、何も知らない。
第三王子ユリウスの婚約者という立場にいながら、どれほど多くの思惑が自分を取り巻いているのか――その全貌を。
そして、もしその重圧が妹の肩に圧し掛かったとしたら、彼女は耐えられるだろうか。
いや、違う。
圧し掛からせてはいけない。耐えること自体、させない。
だからこそ、フィロメーラは悩んでいた。
どう立ち回るべきか。
今、マルガレーテたちはフィロメーラが知る「物語」とは違う道筋に立っている。
つまりは先が見通せない。
自分の頭で考えて、動くしかない。
「お姉さま、最近少し変よ。
マルガレーテのまっすぐな言葉に、フィロメーラは一瞬だけ、胸が締め付けられた。
こんなにも真摯に向き合ってくれる妹に、何も伝えられないことが、もどかしい。
「……ありがとう、マルガレーテ。でも、これは
そう言うのが、精一杯だった。
その日の午後、フィロメーラは書斎に籠もり、クライスラー家とベルクヴァイン家の過去の政略関係、派閥図、家臣団の動きなどを読み漁った。
目は通しているはずの文書なのに、頭に入らない。
ページをめくる手が、無意識に止まる。
(あの人は、本気なのよね……)
ハインリヒが見せた、あの最後の言葉――
「私は、ずっと貴方を見ていた」
それが彼の本心だとして、ならばどうして今、この時に伝えてきたのだろう。
(私のため? 家のため? 妹のため? それとも全部?)
どれも否定できなかった。だからこそ、迷う。
その夜、フィロメーラはひとり
(答えは、簡単じゃない。でも――時間は、そう残ってない)