静寂というものは、時に声よりも雄弁である。
フィロメーラはそれを、今、身をもって知っていた。
ここ数日、邸の空気がどこか重たくなっている。
使用人たちの動きに無駄はないが、どこか緊張感が漂っていた。
そして父――ベルクヴァイン侯爵が、いつになく長く書斎に籠もっているという話も耳にした。
それだけで十分だった。
何かが、動き始めている。
いや、「動かされている」のだ。
(……クライスラー家が、何か仕掛けてきた?)
ハインリヒの言葉は本気だった。
ならば、彼が動く前に、
午前中の講義を終え、学院から帰ってきたフィロメーラは、自室へ戻る途中で侍女の一人から声をかけられた。
「お嬢さま、旦那さまがお呼びです。すぐに書斎へお越しくださいませ」
(……来たわね)
心の中で呟きながらも、表情は崩さずに頷いた。
扉の向こうにいるのは、自分の父であり、ベルクヴァイン家の当主。
同時に、フィロメーラにとっては「最も難しい交渉相手」でもある。
◆
書斎の扉をノックし、中へ入ると、父は机の前で手紙を見つめていた。
「……来たか、フィロメーラ」
低く、だが明朗なよく通る声。
父の眸には、厳格な光が宿っていた。
「はい。お呼びとのことで」
「座れ」
促され、フィロメーラは静かに椅子に腰掛ける。
重い沈黙が数秒続いた後、父は一枚の書状を差し出した。
「クライスラー侯爵からの書簡だ。内容は――お前のことだ、察しが付くだろう」
フィロメーラは受け取り、目を通す。
そこには婉曲な表現で「両家の結びつき」についての希望が綴られていた。
政略結婚の申し入れ――それ以外の意味などない。
「……父上は、どうお考えですか?」
静かに尋ねると、父は少しだけ目を細めた。
「クライスラー家は強硬だ。だが、力はある。敵に回せば厄介だが、利用できればそれもまた大きな支えになる」
当然だ。
父は当主として、家の利益を第一に考える。
娘の感情ではなく、家門の未来を見据えている。
だからこそ――
「私は、断るべきだと考えています」
その一言は、部屋の空気を張り詰めさせた。
「理由を聞こう」
「ハインリヒ様の申し出は誠意あるものでした。ですが、彼の意思ではなく、家の都合で進められるようでは、いずれ破綻します。それに――」
言いかけて、フィロメーラは言葉を止めた。
本心を、父に明かすわけにはいかなかった。
未来だの物語だの、悪役令嬢だのと言った所で、ただの
本気にされないどころか、正気を疑われてしまう。
「……私は、マルガレーテの未来を守ると誓いました。そのために最も適した立場で在り続ける道を、もう少し見極めたいのです」
侯爵は黙って彼女を見つめていた。
長い沈黙のあと、ふっと肩を落とすようにして答えた。
「……分かった。今はまだ、強制はせん。だが、選択を誤れば全てを失う可能性もある。それを忘れるな」
「承知しております」
フィロメーラは深く頭を下げた。
その背筋に、冷たい汗が一筋流れていた。
◆
部屋を出て、廊下に立ったとき。
彼女はようやく、僅かに息を吐いた。
(……少しだけ、時間ができた)
だがそれは、
次の一手をどう打つか。
時間は待ってはくれないのだ。
◆
それは、学院の政学講義後――
表向きは静かな談笑の場。
だがその空気の中に、鋭い氷の刃が一筋、ひそかに走っていた。
ユリウス・フランツ・シュタールは、王子としての面をまったく崩すことなく、鳶色の髪の青年と向き合っていた。
その青年は、表情に余裕を装いながらも、どこか焦りを隠しきれていない。
クライスラー侯爵家に連なる一派の一人、王政寄りの貴族であり――ユリウスに「婚約者の再考」を進言した、中心人物のひとりだった。
「殿下、あくまで噂の段階ではありますが……学園内での御婚約者殿の振る舞いが、やや周囲に懸念を抱かせていると申しますか……」
ユリウスは片手を上げた。
彼にそれ以上の言葉を続けさせなかった。
「この件は、私の婚約者のことなのだから――私の意思なしに、どうこうできると思わないことだね」
静かな口調だった。
だがその一言には、王族としての冷然たる威圧があった。
その場の空気が一気に張り詰め、進言した男は苦い笑みを浮かべて一礼した。
「……
立ち去っていくその背を、ユリウスは
その表情にはもはや笑みも、余裕もなかった。
(……誰であろうと、僕の大切な人を傷つけようとするならば、容赦はしない)
◆
同じ頃、マルガレーテは、学院の図書館にいた。
机の上には分厚い礼儀作法書、王家の歴史書、そして話し方の指南書。
ひとつひとつのページをめくりながら、彼女の眉間にはわずかに皺が寄っていた。
(
それを初めて自覚したのは、エルザに対する嫉妬が心を曇らせた時。
次に感じたのは、発表会でユリウスとエルザが堂々と意見を交わし合う姿を見た時。
彼女には彼女の良さがある――そう頭では分かっていても、どこかで「自分が足りていないのでは」という焦りが消えなかった。
だが、今のマルガレーテには、あの頃と違って支えがあった。
姉のフィロメーラ。
そして、自分の言葉に真剣に耳を傾けてくれるユリウス。
彼の一言が、学園の空気を変えたと、彼女は後から知った。
(
今度は、自分が応える番だ。
決して「守られるだけ」の存在で終わらないために。
彼の隣に、胸を張って立てるようになるために。
マルガレーテは膝の上で拳を握りしめると、そっと立ち上がった。
閉じた本を抱えて、彼女は図書館を出る。
姿勢を正し、足取りは堂々としていた。
(
風が、廊下のステンドグラス越しに彼女の琥珀色の髪を揺らす。
それは、決意の夜明けを告げる風だった。