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第10話 それぞれの決意

 静寂というものは、時に声よりも雄弁である。

 フィロメーラはそれを、今、身をもって知っていた。


 ここ数日、邸の空気がどこか重たくなっている。

 使用人たちの動きに無駄はないが、どこか緊張感が漂っていた。


 そして父――ベルクヴァイン侯爵が、いつになく長く書斎に籠もっているという話も耳にした。

 それだけで十分だった。


 何かが、動き始めている。

 いや、「動かされている」のだ。


(……クライスラー家が、何か仕掛けてきた?)


 ハインリヒの言葉は本気だった。


 ならば、彼が動く前に、が先手を打つ可能性は十分にある。

 午前中の講義を終え、学院から帰ってきたフィロメーラは、自室へ戻る途中で侍女の一人から声をかけられた。


「お嬢さま、旦那さまがお呼びです。すぐに書斎へお越しくださいませ」


(……来たわね)


 心の中で呟きながらも、表情は崩さずに頷いた。

 扉の向こうにいるのは、自分の父であり、ベルクヴァイン家の当主。

 同時に、フィロメーラにとっては「最も難しい交渉相手」でもある。


 ◆


 書斎の扉をノックし、中へ入ると、父は机の前で手紙を見つめていた。


「……来たか、フィロメーラ」


 低く、だが明朗なよく通る声。

 父の眸には、厳格な光が宿っていた。


「はい。お呼びとのことで」

「座れ」


 促され、フィロメーラは静かに椅子に腰掛ける。

 重い沈黙が数秒続いた後、父は一枚の書状を差し出した。


「クライスラー侯爵からの書簡だ。内容は――お前のことだ、察しが付くだろう」


 フィロメーラは受け取り、目を通す。

 そこには婉曲な表現で「両家の結びつき」についての希望が綴られていた。

 政略結婚の申し入れ――それ以外の意味などない。


「……父上は、どうお考えですか?」


 静かに尋ねると、父は少しだけ目を細めた。


「クライスラー家は強硬だ。だが、力はある。敵に回せば厄介だが、利用できればそれもまた大きな支えになる」


 当然だ。

 父は当主として、家の利益を第一に考える。

 娘の感情ではなく、家門の未来を見据えている。

 だからこそ――


「私は、断るべきだと考えています」


 その一言は、部屋の空気を張り詰めさせた。


「理由を聞こう」


「ハインリヒ様の申し出は誠意あるものでした。ですが、彼の意思ではなく、家の都合で進められるようでは、いずれ破綻します。それに――」


 言いかけて、フィロメーラは言葉を止めた。


 本心を、父に明かすわけにはいかなかった。

 未来だの物語だの、悪役令嬢だのと言った所で、ただの世迷言よまいごとだ。

 本気にされないどころか、正気を疑われてしまう。


「……私は、マルガレーテの未来を守ると誓いました。そのために最も適した立場で在り続ける道を、もう少し見極めたいのです」


 侯爵は黙って彼女を見つめていた。

 長い沈黙のあと、ふっと肩を落とすようにして答えた。


「……分かった。今はまだ、強制はせん。だが、選択を誤れば全てを失う可能性もある。それを忘れるな」


「承知しております」


 フィロメーラは深く頭を下げた。

 その背筋に、冷たい汗が一筋流れていた。


 ◆


 部屋を出て、廊下に立ったとき。

 彼女はようやく、僅かに息を吐いた。


(……少しだけ、時間ができた)


 だがそれは、わずかな猶予にすぎない。

 次の一手をどう打つか。

 時間は待ってはくれないのだ。


 ◆


 それは、学院の政学講義後――

 表向きは静かな談笑の場。

 だがその空気の中に、鋭い氷の刃が一筋、ひそかに走っていた。

 ユリウス・フランツ・シュタールは、王子としての面をまったく崩すことなく、鳶色の髪の青年と向き合っていた。


 その青年は、表情に余裕を装いながらも、どこか焦りを隠しきれていない。

 クライスラー侯爵家に連なる一派の一人、王政寄りの貴族であり――ユリウスに「婚約者の再考」を進言した、中心人物のひとりだった。


「殿下、あくまで噂の段階ではありますが……学園内での御婚約者殿の振る舞いが、やや周囲に懸念を抱かせていると申しますか……」


 ユリウスは片手を上げた。

 彼にそれ以上の言葉を続けさせなかった。


「この件は、私の婚約者のことなのだから――私の意思なしに、どうこうできると思わないことだね」


 静かな口調だった。

 だがその一言には、王族としての冷然たる威圧があった。

 その場の空気が一気に張り詰め、進言した男は苦い笑みを浮かべて一礼した。


「……僭越せんえつでした。殿下のお気持ち、深く承りました」


 立ち去っていくその背を、ユリウスはじっと見つめる。

 その表情にはもはや笑みも、余裕もなかった。


(……誰であろうと、僕の大切な人を傷つけようとするならば、容赦はしない)


 ◆


 同じ頃、マルガレーテは、学院の図書館にいた。

 机の上には分厚い礼儀作法書、王家の歴史書、そして話し方の指南書。

 ひとつひとつのページをめくりながら、彼女の眉間にはわずかに皺が寄っていた。


わたくしは、まだ“第三王子の婚約者”として不十分なのかもしれない。……いいえ、全然足りないんだわ)


 それを初めて自覚したのは、エルザに対する嫉妬が心を曇らせた時。

 次に感じたのは、発表会でユリウスとエルザが堂々と意見を交わし合う姿を見た時。


 彼女には彼女の良さがある――そう頭では分かっていても、どこかで「自分が足りていないのでは」という焦りが消えなかった。


 だが、今のマルガレーテには、あの頃と違って支えがあった。

 姉のフィロメーラ。

 そして、自分の言葉に真剣に耳を傾けてくれるユリウス。

 彼の一言が、学園の空気を変えたと、彼女は後から知った。


わたくしのことを、あの方が公に“守る”と言ってくださったのなら――)


 今度は、自分が応える番だ。

 決して「守られるだけ」の存在で終わらないために。

 彼の隣に、胸を張って立てるようになるために。


 マルガレーテは膝の上で拳を握りしめると、そっと立ち上がった。

 閉じた本を抱えて、彼女は図書館を出る。

 姿勢を正し、足取りは堂々としていた。


わたくしも、変わる。私自身の意志で、変わって見せる)


 風が、廊下のステンドグラス越しに彼女の琥珀色の髪を揺らす。

 それは、決意の夜明けを告げる風だった。



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