クライスラー侯爵が動いた、という報せが、ベルクヴァイン家の執務室に届いた。
それはつまり、既に「次の一手」に打って出たということだ。
「旦那様。クライスラー侯爵が、近日中に当邸を訪問なさるとのことです。目的は――“親交の確認”との名目でございますが」
家令の言葉に、ベルクヴァイン侯爵は手にしていたペンを机上に置いた。
軽く、しかし鈍く響く音。
その一拍が、空気の重さを引き立てる。
「やはり来たか……ようやく、表に姿を見せる気になったらしいな」
フィロメーラは、執務机の傍に控えていた。
少しだけ
あの人が来る。
ハインリヒの父、そして「王家婚姻の再編」を後押しする一派の本丸。
◆
数日後、応接間に響いたのは、実に落ち着いた足音だった。
クライスラー侯爵――エルンスト。
黒に近い深緑の礼服を纏い、年齢を重ねてもなお、いや、重ねるほどに、鋭く研ぎ澄まされた双眸を持つ男。
背筋は伸び、口元には穏やかな笑みすら浮かべていたが、その一歩一歩に国家の重鎮としての威圧感がある。
「お招きに預かり光栄です、ベルクヴァイン侯。フィロメーラ嬢にも、久し振りにお目にかかれて嬉しい限りです」
挨拶としては礼儀に則ったものだった。
だが、空気には淡い威圧が混じっている。
「ご足労いただき恐縮です、クライスラー侯。……ご用件は、例の件と見てよろしいでしょうか?」
ベルクヴァイン侯爵の言葉は曖昧さを排し、真っ直ぐだった。
エルンストは口元をわずかに引き上げる。
「率直に申し上げましょう。我が家と貴家が、今後も良好な関係を築けるよう、改めて“結びつき”の可能性について考えて頂きたく、参りました」
それは遠回しな婚姻交渉の再確認だった。
つまり、ハインリヒとフィロメーラの結婚。
それが派閥同士を繋ぐ橋となり、第三王子の婚約問題にも揺さ振りをかける――
「口を挟むご無礼、お許しください。――ご子息の意向をお聞きしても?」
唐突に、フィロメーラが問いを発した。
エルンストは一瞬だけ目を細めた。
「ハインリヒは、家のことに関して私に一任している。……貴方への“好意”は、私も承知しているつもりです」
まるで、感情など計算に入れているとでも言いたげな口ぶりだった。
そこに割って入ったのは、静かな声だった。
「それは――違いませんが、父上。言い足したいことがあります」
扉の開く音と共に現れたのは、他ならぬハインリヒだった。
「ご無礼致します、ベルクヴァイン侯爵閣下」
丁寧に一礼し、ハインリヒはエルンストの前に立った。
まるでフィロメーラを庇うかのような、そんな位置で。
「私は、貴方の駒でも構いません。家に従うのも、嫡男の義務ですから」
エルンストが薄く目を細める。
「ならば何故、わざわざ出しゃばって来た」
「ただ一つだけ。私は、私自身の意志で動きます。そして私が望むのは――フィロメーラ嬢とマルガレーテ嬢、そしてユリウス殿下が、誰にも傷つけられず、幸せであることです。そのためなら、父上の駒であることも厭いません」
その言葉には、覚悟があった。
利用されても構わない。ただし、守るべきものは守り抜く。
父と息子の視線がぶつかる。
一拍置いて、エルンストはふっと鼻で笑った。
「……随分と生意気になったものだな、我が息子よ」
◆
夜の
フィロメーラは、書斎の窓辺に立っていた。
月は雲間に隠れ、星の光さえ鈍く、今夜の空はどこか不穏だった。
彼女の胸の内もまた、空模様に重なるように、静かに揺れていた。
あの場でのハインリヒの言葉が、耳から離れない。
「私は、父の駒でも構わない。けれど、貴方たちの幸せを守りたい」
駒であることを選びながら、自らの意志を貫こうとする彼の姿は、あまりにも真っ直ぐで、だからこそ――胸が痛んだ。
(あの人は、どこまで本気なのかしら……)
政略と情愛。その狭間で揺れる心に、フィロメーラは未だ明確な答えを出せずにいた。
そのとき、静かに扉がノックされた。
「お姉さま、いらっしゃるかしら?」
マルガレーテだった。
「どうぞ。お入りなさい」
扉が開き、妹がそっと顔を覗かせる。
その手には、紅茶と菓子の乗った小さな盆があった。
「少し、お話しできるかと思って……
フィロメーラは微笑んで頷き、椅子をすすめる。
姉妹は静かに向かい合い、湯気の立つティーカップを挟んで座った。
「……お姉さま。実は私、今日、ユリウス殿下からお話を伺いました」
「……どんな?」
「“この件は、僕の婚約者のことだから、僕の意思なしにどうこうできると思わないことだね”――そう仰ったそうです」
マルガレーテの言葉に、フィロメーラの手が僅かに止まる。
「皆の前で、堂々と。少し、震えてしまいました。でも……同時に、嬉しかったの。殿下が、
視線を伏せたマルガレーテの頬は、わずかに赤らんでいた。
そして、彼女はきゅっと指を握る。
「だから
その眸は強く、まっすぐで。
フィロメーラは思わず、その手に自分の手を重ねた。
「マルガレーテ……貴方は、もう十分に強いわ。でも、その決意は、きっと貴方をもっと美しくする」
「お姉さま……ありがとう」
ふたりは、そっと笑い合った。
静かに重ねられた姉妹の絆が、確かに暖かく広がっていく。
(私も……覚悟を決めなくては)
フィロメーラは、夜の窓をもう一度見つめた。
遠くに灯る光が、まるで彼女の決意を促すかのように揺れていた。