目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話 ハインリヒの想い

 クライスラー侯爵が動いた、という報せが、ベルクヴァイン家の執務室に届いた。

 それはつまり、既に「次の一手」に打って出たということだ。


「旦那様。クライスラー侯爵が、近日中に当邸を訪問なさるとのことです。目的は――“親交の確認”との名目でございますが」


 家令の言葉に、ベルクヴァイン侯爵は手にしていたペンを机上に置いた。

 軽く、しかし鈍く響く音。

 その一拍が、空気の重さを引き立てる。


「やはり来たか……ようやく、表に姿を見せる気になったらしいな」


 フィロメーラは、執務机の傍に控えていた。

 少しだけ青褪あおざめた顔色の奥で、彼女の胸はひどくざわめいていた。


 あの人が来る。

 ハインリヒの父、そして「王家婚姻の再編」を後押しする一派の本丸。


 ◆


 数日後、応接間に響いたのは、実に落ち着いた足音だった。

 クライスラー侯爵――エルンスト。

 黒に近い深緑の礼服を纏い、年齢を重ねてもなお、いや、重ねるほどに、鋭く研ぎ澄まされた双眸を持つ男。

 背筋は伸び、口元には穏やかな笑みすら浮かべていたが、その一歩一歩に国家の重鎮としての威圧感がある。


「お招きに預かり光栄です、ベルクヴァイン侯。フィロメーラ嬢にも、久し振りにお目にかかれて嬉しい限りです」


 挨拶としては礼儀に則ったものだった。

 だが、空気には淡い威圧が混じっている。


「ご足労いただき恐縮です、クライスラー侯。……ご用件は、例の件と見てよろしいでしょうか?」


 ベルクヴァイン侯爵の言葉は曖昧さを排し、真っ直ぐだった。

 エルンストは口元をわずかに引き上げる。


「率直に申し上げましょう。我が家と貴家が、今後も良好な関係を築けるよう、改めて“結びつき”の可能性について考えて頂きたく、参りました」


 それは遠回しな婚姻交渉の再確認だった。

 つまり、ハインリヒとフィロメーラの結婚。

 それが派閥同士を繋ぐ橋となり、第三王子の婚約問題にも揺さ振りをかける――


「口を挟むご無礼、お許しください。――ご子息の意向をお聞きしても?」


 唐突に、フィロメーラが問いを発した。

 エルンストは一瞬だけ目を細めた。


「ハインリヒは、家のことに関して私に一任している。……貴方への“好意”は、私も承知しているつもりです」


 まるで、感情など計算に入れているとでも言いたげな口ぶりだった。

 そこに割って入ったのは、静かな声だった。


「それは――違いませんが、父上。言い足したいことがあります」


 扉の開く音と共に現れたのは、他ならぬハインリヒだった。


「ご無礼致します、ベルクヴァイン侯爵閣下」


 丁寧に一礼し、ハインリヒはエルンストの前に立った。

 まるでフィロメーラを庇うかのような、そんな位置で。


「私は、貴方の駒でも構いません。家に従うのも、嫡男の義務ですから」


 エルンストが薄く目を細める。


「ならば何故、わざわざ出しゃばって来た」


「ただ一つだけ。私は、私自身の意志で動きます。そして私が望むのは――フィロメーラ嬢とマルガレーテ嬢、そしてユリウス殿下が、誰にも傷つけられず、幸せであることです。そのためなら、父上の駒であることも厭いません」


 その言葉には、覚悟があった。

 利用されても構わない。ただし、守るべきものは守り抜く。


 父と息子の視線がぶつかる。

 一拍置いて、エルンストはふっと鼻で笑った。


「……随分と生意気になったものだな、我が息子よ」


 ◆


 夜のとばりが静かに落ちる頃。

 フィロメーラは、書斎の窓辺に立っていた。


 月は雲間に隠れ、星の光さえ鈍く、今夜の空はどこか不穏だった。

 彼女の胸の内もまた、空模様に重なるように、静かに揺れていた。

 あの場でのハインリヒの言葉が、耳から離れない。


「私は、父の駒でも構わない。けれど、貴方たちの幸せを守りたい」


 駒であることを選びながら、自らの意志を貫こうとする彼の姿は、あまりにも真っ直ぐで、だからこそ――胸が痛んだ。


(あの人は、どこまで本気なのかしら……)


 政略と情愛。その狭間で揺れる心に、フィロメーラは未だ明確な答えを出せずにいた。

 そのとき、静かに扉がノックされた。


「お姉さま、いらっしゃるかしら?」


 マルガレーテだった。


「どうぞ。お入りなさい」


 扉が開き、妹がそっと顔を覗かせる。

 その手には、紅茶と菓子の乗った小さな盆があった。


「少し、お話しできるかと思って……わたくしも、眠れそうになくて」


 フィロメーラは微笑んで頷き、椅子をすすめる。

 姉妹は静かに向かい合い、湯気の立つティーカップを挟んで座った。


「……お姉さま。実は私、今日、ユリウス殿下からお話を伺いました」


「……どんな?」


「“この件は、僕の婚約者のことだから、僕の意思なしにどうこうできると思わないことだね”――そう仰ったそうです」


 マルガレーテの言葉に、フィロメーラの手が僅かに止まる。


「皆の前で、堂々と。少し、震えてしまいました。でも……同時に、嬉しかったの。殿下が、わたくしを、私のことを“守る”と言ってくださった」


 視線を伏せたマルガレーテの頬は、わずかに赤らんでいた。

 そして、彼女はきゅっと指を握る。


「だからわたくし、もっと努力します。誰よりも相応ふさわしい婚約者になります。――誰かに奪われたり、取り替えられたりなんて、絶対にされないように」


 その眸は強く、まっすぐで。

 フィロメーラは思わず、その手に自分の手を重ねた。


「マルガレーテ……貴方は、もう十分に強いわ。でも、その決意は、きっと貴方をもっと美しくする」


「お姉さま……ありがとう」


 ふたりは、そっと笑い合った。

 静かに重ねられた姉妹の絆が、確かに暖かく広がっていく。


(私も……覚悟を決めなくては)


 フィロメーラは、夜の窓をもう一度見つめた。

 遠くに灯る光が、まるで彼女の決意を促すかのように揺れていた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?