重厚な扉が閉じられる音が、書斎の空気を一際静かにする。
クライスラー侯爵邸の本館奥、主執務室。
ハインリヒ・クライスラーは、父である当主エルンストと向かい合っていた。
長年軍務に従事してきた父の姿は、今なお威厳に満ちている。
だが、今日のハインリヒはその視線を、一度も逸らさなかった。
「私に何か言いたいことがあるようだな、ハインリヒ」
「はい、父上。――今日は“取引”に参りました」
率直すぎるその言葉に、エルンストの眉がわずかに動く。
「ふむ……よかろう。聞こうではないか。何を対価に、何を得ようとする?」
「私は、フィロメーラ・ベルクヴァイン嬢と婚約したい。形式だけではなく、実際の婚姻を視野に入れて。そのために、クライスラー家としての正式な後押しをお願いしたいのです」
「……ずいぶんと率直だな。だが、なぜ今、そのような話を?」
「彼女を守るため、です。そして――私自身の意志として、そう在りたいと望んでいるからです」
エルンストは無言で、書類の束をゆっくりと机の脇へ避けた。
それから、ハインリヒを真正面から見据える。
「お前が“意志”を語るとはな。……いつから、そんなに己の心を強く持つようになった?」
「分かりません。ただ、彼女と出会い、彼女を見続けてきて……それでも傍観者でいることが苦しくなっただけです」
「愚かだと思うぞ。“守るために駒になる”などと口にする者が、真に守れるものなど何もない」
ハインリヒは頷いた。
「ええ、私もそう思います。ですが、だからこそ――“駒”として従うのではなく、いずれは“駒を選び動かす側”になりたいのです。そう、遠い未来ではなく、近いうちに」
その一言に、エルンストの目が細くなった。
「……言ったな、ハインリヒ。ならば問おう。お前は、クライスラー家の“嫡男”としての自覚を、本当に持っているのか?」
「はい。その覚悟がなければ、今ここに立ってなどいません」
数秒の沈黙。
やがてエルンストは、深く一つ息を吐くと、椅子から立ち上がった。
ゆっくりと歩み寄り、ハインリヒの前に立つ。
そして、息子の肩にそっと手を置いた。
「お前が“自分の言葉”で私に向き合ったのは、これが初めてだな」
「父上……」
「良いだろう。フィロメーラ嬢との婚姻を認めよう。お前が自らの意志で望み、責任を持つというのなら――それもまた、クライスラー家の力としよう」
ハインリヒは、はっきりと頷いた。
「ありがとうございます。必ずや、ご期待に応えてみせます」
「それを言うのは、結果を出してからにしろ。まだ、始まったばかりだ」
父の手が離れ、再び背を向ける。
だがそこには、明確な信頼が宿っていた。
初めて、「息子」として――「跡取り」として。
ハインリヒが認められた瞬間だった。
◆
陽の光が穏やかに降り注ぐ中庭に、風がさやさやと薔薇の葉を揺らしていた。
ベルクヴァイン邸の庭園には、整えられた花壇と噴水の音が響き、まるで時間がゆっくりと流れているような静寂があった。
そんな場所に、ハインリヒ・クライスラーはひとり立っていた。
彼の装いは控えめながら格式を備えた礼服。
直立不動の姿勢は、今日という日の覚悟を雄弁に語っていた。
そこに現れたのは、フィロメーラ・ベルクヴァイン。
フィロメーラは、薄紅色のドレスを身にまとい、しかし表情はどこか硬かった。
「お待たせしました、ハインリヒ様。こんな晴れた日だというのに、重い話になるのでしょう?」
微笑すら皮肉めいていた。
だが、ハインリヒはその挑発に一切乗らなかった。
「本日は――正式な申し入れのために、参りました」
その一言に、フィロメーラの微笑が消える。
気取らず、飾らず、それでいて明確な宣言だった。
「クライスラー家嫡男として、そして個人として。私は貴方との婚約を望みます」
彼は胸元から、封蝋の押された書状を取り出す。
それはエルンスト・クライスラー侯爵の名で認められた、正式な婚姻の申入書だった。
フィロメーラは嘆息した。
どんな意味の溜め息なのか、本人にすらわからなかった。
「……本気なのですね。あの御父上から、許可を得たのですか?」
「はい。“駒”としてではなく、“後継としての責任”として認めていただきました」
フィロメーラは、差し出された書状をしばらく見つめていた。
それから、ゆっくりと視線を彼の目に戻す。
「なぜ……そこまでして?
「利ではありません。意地です。そして願いです」
その返答に、フィロメーラは息を呑んだ。
ハインリヒは、ゆっくりと言葉を続ける。
「貴方はいつも、自分より誰かを優先する。妹君を、家を、殿下を。けれど、貴方自身の“幸せ”を誰が守るのかと、私はずっと思っていた」
「
「幸せになってください。いいえ、貴方を幸せにします。私が、幸せにしてみせます」
ハインリヒの言葉に、フィロメーラは小さく目を伏せた。
「……答えは、すぐには出せません」
「承知しています。ただ、これだけは覚えておいてください」
ハインリヒは一歩、近づく。
「貴方がひとりで立つのが辛くなった時、私はここに居ます。貴方が振り返る場所に、必ず」
その言葉に、フィロメーラは答えられなかった。
けれど、その胸の奥が、何か温かなもので満たされるのを確かに感じていた。