目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第12話 立場と覚悟

 重厚な扉が閉じられる音が、書斎の空気を一際静かにする。

 クライスラー侯爵邸の本館奥、主執務室。


 ハインリヒ・クライスラーは、父である当主エルンストと向かい合っていた。


 長年軍務に従事してきた父の姿は、今なお威厳に満ちている。

 だが、今日のハインリヒはその視線を、一度も逸らさなかった。


「私に何か言いたいことがあるようだな、ハインリヒ」


「はい、父上。――今日は“取引”に参りました」


 率直すぎるその言葉に、エルンストの眉がわずかに動く。


「ふむ……よかろう。聞こうではないか。何を対価に、何を得ようとする?」


「私は、フィロメーラ・ベルクヴァイン嬢と婚約したい。形式だけではなく、実際の婚姻を視野に入れて。そのために、クライスラー家としての正式な後押しをお願いしたいのです」


「……ずいぶんと率直だな。だが、なぜ今、そのような話を?」


「彼女を守るため、です。そして――私自身の意志として、そう在りたいと望んでいるからです」


 エルンストは無言で、書類の束をゆっくりと机の脇へ避けた。

 それから、ハインリヒを真正面から見据える。


「お前が“意志”を語るとはな。……いつから、そんなに己の心を強く持つようになった?」


「分かりません。ただ、彼女と出会い、彼女を見続けてきて……それでも傍観者でいることが苦しくなっただけです」


「愚かだと思うぞ。“守るために駒になる”などと口にする者が、真に守れるものなど何もない」


 ハインリヒは頷いた。


「ええ、私もそう思います。ですが、だからこそ――“駒”として従うのではなく、いずれは“駒を選び動かす側”になりたいのです。そう、遠い未来ではなく、近いうちに」


 その一言に、エルンストの目が細くなった。


「……言ったな、ハインリヒ。ならば問おう。お前は、クライスラー家の“嫡男”としての自覚を、本当に持っているのか?」


「はい。その覚悟がなければ、今ここに立ってなどいません」


 数秒の沈黙。

 やがてエルンストは、深く一つ息を吐くと、椅子から立ち上がった。

 ゆっくりと歩み寄り、ハインリヒの前に立つ。

 そして、息子の肩にそっと手を置いた。


「お前が“自分の言葉”で私に向き合ったのは、これが初めてだな」


「父上……」


「良いだろう。フィロメーラ嬢との婚姻を認めよう。お前が自らの意志で望み、責任を持つというのなら――それもまた、クライスラー家の力としよう」


 ハインリヒは、はっきりと頷いた。


「ありがとうございます。必ずや、ご期待に応えてみせます」


「それを言うのは、結果を出してからにしろ。まだ、始まったばかりだ」


 父の手が離れ、再び背を向ける。

 だがそこには、明確な信頼が宿っていた。


 初めて、「息子」として――「跡取り」として。

 ハインリヒが認められた瞬間だった。


 ◆


 陽の光が穏やかに降り注ぐ中庭に、風がさやさやと薔薇の葉を揺らしていた。

 ベルクヴァイン邸の庭園には、整えられた花壇と噴水の音が響き、まるで時間がゆっくりと流れているような静寂があった。


 そんな場所に、ハインリヒ・クライスラーはひとり立っていた。


 彼の装いは控えめながら格式を備えた礼服。

 直立不動の姿勢は、今日という日の覚悟を雄弁に語っていた。


 そこに現れたのは、フィロメーラ・ベルクヴァイン。

 フィロメーラは、薄紅色のドレスを身にまとい、しかし表情はどこか硬かった。


「お待たせしました、ハインリヒ様。こんな晴れた日だというのに、重い話になるのでしょう?」


 微笑すら皮肉めいていた。

 だが、ハインリヒはその挑発に一切乗らなかった。


「本日は――正式な申し入れのために、参りました」


 その一言に、フィロメーラの微笑が消える。

 気取らず、飾らず、それでいて明確な宣言だった。


「クライスラー家嫡男として、そして個人として。私は貴方との婚約を望みます」


 彼は胸元から、封蝋の押された書状を取り出す。

 それはエルンスト・クライスラー侯爵の名で認められた、正式な婚姻の申入書だった。


 フィロメーラは嘆息した。

 どんな意味の溜め息なのか、本人にすらわからなかった。


「……本気なのですね。あの御父上から、許可を得たのですか?」


「はい。“駒”としてではなく、“後継としての責任”として認めていただきました」


 フィロメーラは、差し出された書状をしばらく見つめていた。

 それから、ゆっくりと視線を彼の目に戻す。


「なぜ……そこまでして? わたくしとの結婚が、貴方にどんな利をもたらすと?」


「利ではありません。意地です。そして願いです」


 その返答に、フィロメーラは息を呑んだ。

 ハインリヒは、ゆっくりと言葉を続ける。


「貴方はいつも、自分より誰かを優先する。妹君を、家を、殿下を。けれど、貴方自身の“幸せ”を誰が守るのかと、私はずっと思っていた」


わたくし……」


「幸せになってください。いいえ、貴方を幸せにします。私が、幸せにしてみせます」


 ハインリヒの言葉に、フィロメーラは小さく目を伏せた。


「……答えは、すぐには出せません」


「承知しています。ただ、これだけは覚えておいてください」


 ハインリヒは一歩、近づく。


「貴方がひとりで立つのが辛くなった時、私はここに居ます。貴方が振り返る場所に、必ず」


 その言葉に、フィロメーラは答えられなかった。

 けれど、その胸の奥が、何か温かなもので満たされるのを確かに感じていた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?