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第13話 選ぶ道の先に

 夜のとばりが降りたベルクヴァイン邸の書斎に、フィロメーラはひとり佇んでいた。

 ランプの灯が書類の端を照らし、窓の外にはもうすぐ満ちる月が浮かんでいる。

 目の前には、一通の封書――クライスラー家からの正式な婚約申し入れの書状。


 彼の言葉が、何度も心の中で反響する。


「貴方がひとりで立つのが辛くなった時、私はここに居ます」


 それは、優しさというにはあまりに強く、誓いというにはあまりに静かな一言だった。


わたくしの幸せ……)


 口に出してみようとしたが、声にはならなかった。

 マルガレーテの断罪回避。幸せな未来を掴む。

 未来を知る者として、それが当然であり、宿命だった。

 そう思ってきた。


(けれど――それを望んだのは、他でもない私)


 誰に強いられたわけではない。

 妹の幸せを願い、未来を守ると決めたその日から、自分の人生は妹のためにあると思っていた。

 でも、もしその未来の先に、自分を「見ていてくれる人」がいるのだとしたら――

 椅子の背に背中を預けて、そっと目を閉じる。


 ハインリヒ・クライスラー。幼い頃から知っている間柄。

 仲良くしたことなどなかった。してはいけないのだと思っていた。

 家同士が反目している以上、父の邪魔になってはいけない。


 フィロメーラにとって、ハインリヒはずっと、敵の家の嫡男でしか有り得なかった。

 皮肉と遠回しな物言いでしか本心を表せない少年。

 年下の癖に、わかった風なことを言い、偉そうにしてくる。

 けれどその言葉の端々に、ずっとフィロメーラを見つめてきた時間の片鱗が滲んでいた。


(彼なら、もしかしたら……)


 胸の奥が、ほんの少しだけ暖かくなる。

 不意に、扉の向こうからノックの音がした。


「お姉さま、まだ起きていらっしゃる?」


 マルガレーテだった。


「ええ、起きてるわ」


 扉が開き、妹が入ってくる。

 彼女の手には、二人分のカップと夜のお茶菓子。


「……ねえ、お姉さま。最近、少しだけ変わったと思うわ」


わたくしが?」


「うん。少しだけだけど、自分のことも大事にしようとしているように見えるの。……わたくし、それがすごく嬉しい」


 フィロメーラは驚いて、妹の顔を見た。


「貴方にそう言われるなんて」


「だって、ずっとわたくしのために頑張ってくれてたでしょう? 特に、学院に入ってからはずっと、そう。だから、今度は、お姉さまの番よ。誰かに頼ってもいいと思うの」


 その言葉に、胸がいっぱいになった。

 マルガレーテは、見てくれている。

 フィロメーラの献身も、苦悩も、そして今の揺れも。

 ならば――そろそろ、自分の意志を形にすべき時なのかもしれない。


 フィロメーラはティーカップを持ち、静かに息をつく。

 苦味と香りが喉を通り抜ける。


「ねえ、マルガレーテ。もしわたくしが、誰かと婚約するとしたら――どう思う?」


 マルガレーテは一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。


「お姉さまが幸せなら、それが一番よ。でも、ちゃんと笑っていてくれる人がいいな。お姉さまには、そういう人が似合うから」


 その言葉に、フィロメーラは思わず吹き出しそうになった。


「……分かったわ。ちゃんと考える。私の人生を、私の意志で」


 カップの中の紅茶が、かすかに揺れた。



 ベルクヴァイン家の応接室に、穏やかな日差しが差し込んでいた。

 この部屋で交わされる話はいつも重く、そして今日も例外ではない。


 だが――今日は、誰の圧力でも命令でもなく、フィロメーラ自身の意志によって、その場が設けられていた。

 向かいに座るのは、クライスラー侯爵家の嫡男、ハインリヒ。

 普段の皮肉屋な表情は影を潜め、礼服の襟をきちんと正し、その双眸はいつも以上に真剣だった。


 応接室には他に誰もいない。

 立会いすら求めなかったのは、彼女の意志だった。


「今日は、正式なご返答をお伝えするために、お時間を頂きました」


 フィロメーラは、すっと姿勢を正して話し出す。


「貴方の言葉、貴方の誠意――すべて、しっかりと受け取りました。そして、たくさん迷いました」


 ハインリヒの表情は変わらない。

 ただ、その指先が膝の上で僅かに動いた。


わたくしが少しでも気を抜けば、運命は悪い方に転がってしまうような気がしていました」


 そう。マルガレーテのことだ。

 フィロメーラが気を付けていなければ、マルガレーテの運命はどう足掻いても断罪の方向へ転がってしまう気がしていた。


「でも、そうではなかった。わたくしだけでなく、殿下も、貴方も――そして、あの子も――自分自身の力で、運命を切り開いていけるのだと、思い知らされた気が致します」


 フィロメーラは、まっすぐに彼の眸を見つめた。


わたくし、貴方をあなどっておりました。お詫び致しますわ」


 そして、少しだけ微笑む。


「貴方となら、運命を共に切り開いていける。そう思いましたの。ですからどうぞ、宜しくお願い致します。――末永く」


 その瞬間、ハインリヒは驚いたように目を見開き――

 次いで、ゆっくりと、深く頷いた。


「……ありがとうございます、フィロメーラ・ベルクヴァイン。私の方こそ、その決意に相応しい男になれるよう努めます」


 言葉は短く、飾らなかった。

 だがその一言の中に、彼の全てが詰まっていた。

 ふたりの間に流れる空気は、以前のような火花でも皮肉でもない。

 静かで、けれど確かな信頼の温度を持っていた。


「今後、両家の調整が必要になります。私の父はすでに了承済みですが、ベルクヴァイン家の意志にも、正面から向き合う所存です」


「ええ。わたくしも、逃げたりしません。これは、私が自分で選んだ未来ですから」


 窓の外では、木々が揺れ、新たな季節の訪れを告げていた。

 そして、ふたりの選択もまた――新たな未来への扉を、静かに開こうとしていた。



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