ベルクヴァイン侯爵邸、会議室。
壁を飾る家紋と歴代当主の肖像が見下ろす中、フィロメーラとハインリヒは並んで座していた。
長机の向こうには、ベルクヴァイン侯爵、フィロメーラとマルガレーテの父。
その隣には、クライスラー侯爵・エルンストの姿もある。
重苦しい沈黙が数秒続いたのち、侯爵が口を開いた。
「……お前の意思は変わらぬな、フィロメーラ」
「はい、父上。これは、
フィロメーラの声音に迷いはなかった。
視線の先の父もまた、無言で娘の覚悟を見定めているようだった。
やがて、エルンストが、口元に僅かに笑みを浮かべた。
「我が息子がここまで明確に“意志”を示したのは、初めてのことです。私はクライスラー侯爵家の長として、この婚約を支持します」
その言葉に、ベルクヴァイン侯爵も静かに頷いた。
「ならば、異論はない。お前たちの婚約を承認しよう」
その瞬間、空気がふっと和らいだ。
形式的な書状と署名が交わされ、婚約はついに「公式な契約」として結ばれた。
顔合わせの場より退席後、屋敷の回廊をフィロメーラとハインリヒは並んで歩いていた。
窓から差し込む陽光が、ふたりの影を重ねていた。
「成立ですわね」
「ええ、ようやく」
フィロメーラがぽつりと呟く。
ハインリヒも静かに返す。
歩幅は自然と揃い、以前とは違う心地よい沈黙が続く。
「……不思議ですわ。貴方とはずっと言い争ってばかりいたのに、今は、並んでいることがとても自然に感じられる」
その言葉に、ハインリヒはほんの僅かに、柔らかく微笑んだ。
「それは、貴方が誰よりも強く、誰よりも優しいからです。……私は、ずっとその強さに惹かれていた」
フィロメーラは照れ隠しのようにそっぽを向く。
「貴方がそんな風に言うなんて、気味が悪いわね」
「酷いな。それでも、これから一生を共にする相手に言う台詞ですか?」
その軽口に、ふたりの笑みが重なった。
ふたりの間に交わされた「確約」は、政略や義務ではなく、互いの想いと信頼に根ざしたものだった。
だからこそ、この契約は「未来への約束」となる。
◆
クライスラーとベルクヴァイン、両家の正式な婚約が発表されたのは、学院内でも話題を呼んだ。
「犬猿の仲」とまで噂された二家の長子同士の縁組。
貴族社会に与える衝撃は小さくない。
多くは祝意と驚きで語られた。
だがその裏で、誰にも気づかれぬ「陰」が密かに動き始めていた。
◆
ある夜、王都の外れにある屋敷。
灯火の少ない小さな客間の奥で、数人の貴族が静かに集っていた。
その中心にいるのは、王政派の中でも強硬と知られる老伯爵。
彼は薄く笑みを浮かべながら、卓上の書簡を撫でていた。
「思ったよりも早かったな、あの二人の婚約成立は。だが、まだ“既成事実”には程遠い」
「ええ、正式な婚礼までは猶予があります。揺さぶる余地は十分に」
静かに応じたのは、ユリウスの縁談に別の令嬢を推していた一派の者。
「計画は?」
「すでに学院内に“証拠”となるものを配しています。エルザ・グラーツに関する……過去の“改竄された記録”です。貴族社会に受け入れられにくい“出自”に関する疑義も添えて」
部屋の空気が、薄く張り詰める。
「狙いは?」
「彼女の信用を揺るがし、結果的にマルガレーテ嬢を“情緒不安定”な令嬢と見せかけるのが狙いです。婚約者として不適格と判断させられれば、ユリウス殿下の立場にも揺さぶりが掛けられる」
陰謀は静かに、だが確かに進行していた。
◆
一方、学院の談話室では。
マルガレーテが何気なく聞いた噂に、手にしていたティーカップを落としそうになる。
「……エルザが、学院に“虚偽の身分”で入学したって……そんな馬鹿な」
その場に居合わせたエルザも、顔を強張らせていた。
「私には、心当たりなんてありません。虚偽って、私はただの平民です。試験の際も入学の際も、特段何も言われませんでしたし……。偽ることなんて、思い当たりません」
マルガレーテの背筋に冷たいものが走った。
これは、偶然でも、悪戯でもない。
はっきりと「狙われている」のだとわかった。
(私たちの絆を、崩そうとしている……)
マルガレーテは強く唇を結んだ。
(もう、迷わない。今度は、私が――エルザを守る)
談話室を出たマルガレーテは、すぐにエルザの手を取った。
「一緒に行きましょう、エルザ。もう黙っているわけにはいかないわ」
エルザは少し驚いたような顔をしていたが、その目には迷いはなかった。
「はい。行きましょう、マルガレーテさま」
向かった先は、学院の記録管理局。
貴族生徒の情報が厳重に保管され、改竄など到底許されるはずのない聖域――しかし、そこが今回の標的だった。
◆
フィロメーラとユリウスの協力を得て、マルガレーテたちは記録閲覧の特別許可を得た。
そこにあったのは、明らかに「後から差し替えられた」粗雑な転入資料。
記されていたのは、エルザがとある貴族の庶子であるということ。
その縁故により不正に入学を認めたとなっている。
フィロメーラが眉を
冷静に文書の
「印章の位置が不自然過ぎます。王立学院の正式文書ではありえませんわ。文体にも違和感があります。公用の書式を模倣しているだけで、実務文書の体裁を満たしておりません。――こんな雑な捏造で、エルザ嬢を陥れようだなんて」
ユリウスが補足した。
「この改竄は、内部に協力者がいなければ不可能だ。――つまり、我々の周囲に“敵の手”が伸びている」
静かに、しかし確実に全員の視線が交差した。
証拠は得た。
だが、敵は学院の中に「情報操作」の可能な者を抱えている。
このまま暴けば、確実に反撃を受けるだろう。
それでも――マルガレーテは、まっすぐに立ち上がった。
「
その声には、かつての高慢な令嬢の影はなかった。
ただ真っ直ぐに、友を想う心根が表れていた。
◆
翌日。
学院の公示板に貼り出された一通の声明文。
署名はマルガレーテ・ベルクヴァイン、エルザ・グラーツ、そしてユリウス・フランツ・シュタール第三王子の連名。
『虚偽の記録操作と、それによる個人への誹謗中傷は、学び舎の名を辱めるものである。本学院の名誉と、関係者の尊厳を守るため、私たちは真実の開示を求める』
生徒たちは騒然としたが、誰一人それを拒否することはできなかった。
この行動には、第三王子と二つの侯爵家の名とが並んでいるのだ。
第三王子ユリウスが動く時、必ずクライスラー侯爵家も動く。
それは誰もが知る事実だ。
◆
陰謀は崩れ始めていた。
情報の差し替えを命じた学院内の書記官が、関与を認め、上層部の調査が動き出す。
黒幕の背後に連なる貴族派閥の名も、次第に明るみに出てくるだろう。
そして何より――
マルガレーテとエルザの「肩を並べる姿」が、学院内に新たな空気をもたらしていた。
それは、「悪役令嬢」と「ヒロイン」という物語上の構図を、根底から塗り替える、静かで力強い革命だった。