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第14話 運命は動き出す

 ベルクヴァイン侯爵邸、会議室。

 壁を飾る家紋と歴代当主の肖像が見下ろす中、フィロメーラとハインリヒは並んで座していた。

 長机の向こうには、ベルクヴァイン侯爵、フィロメーラとマルガレーテの父。

 その隣には、クライスラー侯爵・エルンストの姿もある。

 重苦しい沈黙が数秒続いたのち、侯爵が口を開いた。


「……お前の意思は変わらぬな、フィロメーラ」


「はい、父上。これは、わたくしが決めたことです」


 フィロメーラの声音に迷いはなかった。

 視線の先の父もまた、無言で娘の覚悟を見定めているようだった。

 やがて、エルンストが、口元に僅かに笑みを浮かべた。


「我が息子がここまで明確に“意志”を示したのは、初めてのことです。私はクライスラー侯爵家の長として、この婚約を支持します」


 その言葉に、ベルクヴァイン侯爵も静かに頷いた。


「ならば、異論はない。お前たちの婚約を承認しよう」


 その瞬間、空気がふっと和らいだ。

 形式的な書状と署名が交わされ、婚約はついに「公式な契約」として結ばれた。


 顔合わせの場より退席後、屋敷の回廊をフィロメーラとハインリヒは並んで歩いていた。

 窓から差し込む陽光が、ふたりの影を重ねていた。


「成立ですわね」

「ええ、ようやく」


 フィロメーラがぽつりと呟く。

 ハインリヒも静かに返す。


 歩幅は自然と揃い、以前とは違う心地よい沈黙が続く。


「……不思議ですわ。貴方とはずっと言い争ってばかりいたのに、今は、並んでいることがとても自然に感じられる」


 その言葉に、ハインリヒはほんの僅かに、柔らかく微笑んだ。


「それは、貴方が誰よりも強く、誰よりも優しいからです。……私は、ずっとその強さに惹かれていた」


 フィロメーラは照れ隠しのようにそっぽを向く。


「貴方がそんな風に言うなんて、気味が悪いわね」

「酷いな。それでも、これから一生を共にする相手に言う台詞ですか?」


 その軽口に、ふたりの笑みが重なった。

 ふたりの間に交わされた「確約」は、政略や義務ではなく、互いの想いと信頼に根ざしたものだった。

 だからこそ、この契約は「未来への約束」となる。


 ◆


 クライスラーとベルクヴァイン、両家の正式な婚約が発表されたのは、学院内でも話題を呼んだ。

「犬猿の仲」とまで噂された二家の長子同士の縁組。


 貴族社会に与える衝撃は小さくない。

 多くは祝意と驚きで語られた。

 だがその裏で、誰にも気づかれぬ「陰」が密かに動き始めていた。


 ◆


 ある夜、王都の外れにある屋敷。

 灯火の少ない小さな客間の奥で、数人の貴族が静かに集っていた。

 その中心にいるのは、王政派の中でも強硬と知られる老伯爵。

 彼は薄く笑みを浮かべながら、卓上の書簡を撫でていた。


「思ったよりも早かったな、あの二人の婚約成立は。だが、まだ“既成事実”には程遠い」


「ええ、正式な婚礼までは猶予があります。揺さぶる余地は十分に」


 静かに応じたのは、ユリウスの縁談に別の令嬢を推していた一派の者。


「計画は?」


「すでに学院内に“証拠”となるものを配しています。エルザ・グラーツに関する……過去の“改竄された記録”です。貴族社会に受け入れられにくい“出自”に関する疑義も添えて」


 部屋の空気が、薄く張り詰める。


「狙いは?」


「彼女の信用を揺るがし、結果的にマルガレーテ嬢を“情緒不安定”な令嬢と見せかけるのが狙いです。婚約者として不適格と判断させられれば、ユリウス殿下の立場にも揺さぶりが掛けられる」


 陰謀は静かに、だが確かに進行していた。


 ◆


 一方、学院の談話室では。

 マルガレーテが何気なく聞いた噂に、手にしていたティーカップを落としそうになる。


「……エルザが、学院に“虚偽の身分”で入学したって……そんな馬鹿な」


 その場に居合わせたエルザも、顔を強張らせていた。


「私には、心当たりなんてありません。虚偽って、私はただの平民です。試験の際も入学の際も、特段何も言われませんでしたし……。偽ることなんて、思い当たりません」


 マルガレーテの背筋に冷たいものが走った。

 これは、偶然でも、悪戯でもない。

 はっきりと「狙われている」のだとわかった。


(私たちの絆を、崩そうとしている……)


 マルガレーテは強く唇を結んだ。


(もう、迷わない。今度は、私が――エルザを守る)


 談話室を出たマルガレーテは、すぐにエルザの手を取った。


「一緒に行きましょう、エルザ。もう黙っているわけにはいかないわ」


 エルザは少し驚いたような顔をしていたが、その目には迷いはなかった。


「はい。行きましょう、マルガレーテさま」


 向かった先は、学院の記録管理局。

 貴族生徒の情報が厳重に保管され、改竄など到底許されるはずのない聖域――しかし、そこが今回の標的だった。


 ◆


 フィロメーラとユリウスの協力を得て、マルガレーテたちは記録閲覧の特別許可を得た。

 そこにあったのは、明らかに「後から差し替えられた」粗雑な転入資料。

 記されていたのは、エルザがとある貴族の庶子であるということ。

 その縁故により不正に入学を認めたとなっている。


 フィロメーラが眉をしかめた。

 冷静に文書のあらを指摘する。


「印章の位置が不自然過ぎます。王立学院の正式文書ではありえませんわ。文体にも違和感があります。公用の書式を模倣しているだけで、実務文書の体裁を満たしておりません。――こんな雑な捏造で、エルザ嬢を陥れようだなんて」


 ユリウスが補足した。


「この改竄は、内部に協力者がいなければ不可能だ。――つまり、我々の周囲に“敵の手”が伸びている」


 静かに、しかし確実に全員の視線が交差した。

 証拠は得た。

 だが、敵は学院の中に「情報操作」の可能な者を抱えている。

 このまま暴けば、確実に反撃を受けるだろう。

 それでも――マルガレーテは、まっすぐに立ち上がった。


わたくしは、退きません。……これを光のもとに晒します」


 その声には、かつての高慢な令嬢の影はなかった。

 ただ真っ直ぐに、友を想う心根が表れていた。



 翌日。

 学院の公示板に貼り出された一通の声明文。

 署名はマルガレーテ・ベルクヴァイン、エルザ・グラーツ、そしてユリウス・フランツ・シュタール第三王子の連名。


『虚偽の記録操作と、それによる個人への誹謗中傷は、学び舎の名を辱めるものである。本学院の名誉と、関係者の尊厳を守るため、私たちは真実の開示を求める』


 生徒たちは騒然としたが、誰一人それを拒否することはできなかった。

 この行動には、第三王子と二つの侯爵家の名とが並んでいるのだ。

 第三王子ユリウスが動く時、必ずクライスラー侯爵家も動く。

 それは誰もが知る事実だ。


 ◆


 陰謀は崩れ始めていた。

 情報の差し替えを命じた学院内の書記官が、関与を認め、上層部の調査が動き出す。

 黒幕の背後に連なる貴族派閥の名も、次第に明るみに出てくるだろう。


 そして何より――

 マルガレーテとエルザの「肩を並べる姿」が、学院内に新たな空気をもたらしていた。

 それは、「悪役令嬢」と「ヒロイン」という物語上の構図を、根底から塗り替える、静かで力強い革命だった。



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