「ヘーックショイ!」
お爺さんは盛大なクシャミをした。
一瞬呆気に取られた私とお爺さんは、お互いの顔を見合わせて……吹き出してしまった。
「いや〜、失敬、失敬。夏でも朝は流石に冷え込むのう」
「そうですね……本当に」
危うくしみじみ思ってしまう所だったが、お爺さんのクシャミのおかげで、私はシャンとした。そして鞄の中からある物を取り出した。
「お爺さん、これ……使って下さい。これからの道のり、少しでも暖かい様に」
私は今まで自分が使って来たショールをお爺さんに差し出した。以前異母妹が好みではないと言って私にくれた物だった。女物だが、質も色も悪くはないので、肌寒いこんな朝には打って付けだろう。
お爺さんは、見ず知らずの私を馬車に乗せてくれた。何も訊かず、只々話を聞いてくれた。そして、慰めの言葉さえくれた。
私は、それがひたすらありがたかった。
「お前さん、これはお前さんが取っておくべきじゃ。こんな綺麗なもん……」
首を振りながら、私はお爺さんを見上げて言った。
「この国まで連れて来てくれて、ありがとうございました。私には、何もお返しする事ができません。だから、受け取って下さい。それに……」
もう一度ショールをお爺さんに差し出しながら、私は呟いた。
「これからは、私にこのショールは似合わないので」
そうだ。もう侯爵令嬢ではない。高価な物を持っていても怪しまれるだけだ。それに、今までの人生を思い出させる様な代物は、できるだけ手放すべきだ。
お爺さんは一瞬戸惑ったが、一度頷いて、ショールを手に取った。
「ありがとうよ。これは大事に使わせてもらうよ」
こちらこそ、と言った私は、馬車から一歩後ずさった。するとお爺さんが私の方を見て、少し声を低くして訊ねた。
「お前さん……これからどうするんじゃ」
それは、「ルーイヒューゲルへ人を探しに行く」以外のことを示している質問だった。
辿り着いたこの街は、王都ではなくても、大きな街だった。他の人にはできるだけ迷惑をかけない様努力して、自立できるまで、ここで頑張ろう。そうしたら、もっと故郷から離れた街に移り住もう。幸いこの国の文化と言語は、転生者と自覚した時から一生懸命勉強して来た。
「私は……」
今まで口にしたことがなかった思いを、私は初めて声に出した。
「……自由に、生きたい。そして……性別も、見た目も関係なく、誰もが幸せに生きられる……そんな社会を作るお手伝いをしたいです」
「そうかい」
私が渡したショールを膝の上でポンポンと叩きながら、お爺さんは言った。
「お前さんだったら、きっとできるよ」
「ん……ありがとう、お爺さん」
「あぁ……今更だが、お前さん、名前は?」
私は答えに詰まった。家族も名前も捨てた自分は、どう名乗るべきなのか。
「私はアンです。苗字は……」
戸惑う私を見たお爺さんは、少し笑って言った。
「いいかい。お前さんは、今日から生まれ変わるんじゃ」
「え……?」
「勇敢で、優しいお嬢さん。今からお前さんは、『アン・ニューハート』じゃ」
「アン……ニューハート」
朝日が昇る中、私はその名前を舌の上でゆっくりと転がした。そして私は背筋を伸ばし、お爺さんに言った。
「ありがとうございます。大事にします」
「それから、この街で何か困ったことがあったら、いつでも会いにおいで。ワシの名前は――」
お爺さんは手綱を両手に持ち、言った。
「――だよ」
お爺さんの名前は、何故か忘れてしまった。もう十年も経つからだろうか。もしくは、私がまだ子供だったからか、それとも新しい街で生きて行くのに必死だったからか。他のことは覚えているのに。
* ~ * ~ *
「じゃあ、また明日ね〜」
夕方過ぎ、私達は今日の引越し作業を終えた。帰り支度をして、私は一人暮らしをしている部屋に戻る準備をした。
「おう、折角だから、送ってくぞ」
「え? 別にいいわよ。デリックだって疲れてるでしょ。私んち、アンタの家の反対方向じゃない」
「な、だ……別に、構わねーよ……」
「はぁ……?」
「あ、じゃあ、俺が送ってくよ! 俺んち、近所だもん」
「なっ……! ジョン、テメー、抜けが……って!」
「はーいはい、お前達は明日も仕事だろ。ちょっと打ち合わせするぞ」
「げ……オスカー先輩、ヒドイっす……」
「ハハハ! この俺を出し抜くなんざぁ百年早いぞ、お前達」
男性軍が何を言っているのか分からなかった私は、その間々お暇する。明日は非番だ。早く家に帰って、ゆっくりしたい。私は帰路に就き、仕事を通して覚えたありとあらゆる近道を歩き進んだ。
その時だった。丁度曲がり入った裏道の先で、何人かの人が固まっているのを見たのは。
建物の陰と離れた距離の所為ではっきりとは見えなかったが、どうやら一人の男性が三人程のガラの悪い男達に絡まれている様子だった。全員大人らしく、いじめより何となく深刻そうな雰囲気だった。そして目を凝らして見ると……
(あの帽子……)
私は、被害に遭っているらしい男性が、十年前に出会ったお爺さんと似た様な帽子を被っているのに気が付いた。
その瞬間、身体が勝手に動いていた。
「大丈夫ですか?!」
そう叫びながら、私は彼等に走り寄り、三人の内の一人の男の首に手刀を喰らわせた。ドサッとその男が崩れ落ちると同時に、私はもう一人の男の腹に蹴りを入れ、すかさず三人目の鼻に掌底打ちを見舞った。
数秒もしない内に、男達は三人とも地面で泡を吹いていた。正確に言うと、一人は鼻血を出していたのだが。
「あ……いけない。やり過ぎちゃったかも……」
そう零した私は、それより大事なことを思い出し、慌てて帽子の男性の方へ振り向いた。
「だ、大丈夫でしたか?!」
声を荒げてしまったが、私は自分を落ち着かせる為、その人を頭から爪先まで一瞥した。
「あぁ、うん。大丈夫だよ」
そう言った男性は、地面に転がっている男達を見下ろしながら言った。
「やぁ、凄いなぁ」
私が助けた人は、お爺さんではなく、若い青年だった。随分と背が高く、私より三十センチ以上ある様だった。その上線が細く、どこか庇護欲を掻き立てる外見をしていた。
おまけに、彼は私にとてつもなく眩しい笑顔を向けて来たのだ。
「ありがとう。助かったよ」
思わず息を呑んだ私は、彼をお爺さんと見間違えたからついつい助けてしまった、なんて奇妙で失礼な事は言えず、その代わりにボソリと呟いた。
「ど、どう……いたしまして」
そしてその青年は、場違いな程に明るい声で、私に言った。
「俺はリアム。君は?」