「アン……アン、です。初めまして……」
無意識の内に返事をしていた私は、彼と握手をしていることすら気付かなかった。
だが、その温かな手の感触に、我に返った。そしてそのリアムと名乗る青年の方を見ると……
「大変、怪我してるわ!」
左の前腕の外側に細長い切り傷があり、シャツに薄らと血が滲んでいた。
「あぁ、これくらい大丈夫だよ。それより……」
「ダメです! ちゃんと殺菌して、手当しないと!」
「えぇ? でも……」
「何かあったら大変ですもの! それに……」
(この人、メッチャタイプなんですけど……?!)
不謹慎な気持ちを抱く私を許して頂きたい。毎日仕事を通してゴツイ男達しか見てこなかった所為で、逆に痩せてちょっとばかり貧弱そうな男性の方が私の好みになってしまった。まぁ、そんなタイプの人が私みたいな女を好きになるかは別として、だ。
それより、手当はしなければならない。小さい傷でも馬鹿にするのは禁物だ。
「この近くに知り合いが経営している宿があるので、 そこでしましょう! 心配しないで下さい、すぐに済みますので!」
「俺は別に、心配してないんだけどねぇ」
クスッと笑いながら、リアムさんは言った。もっと抵抗するかと思ったが、割とあっさりと付いて来てくれた。
その場を離れる前に、私は地面に転がった男達をどうするべきか考えた。が、リアムさんがう〜んと伸びをしながら「別にほっぽっといてもいいんじゃないかな?」と言ったので、そうする事にした。余計な時間を取らせるのは、逆に彼に失礼だろう。
ただ、その時私は気づかなかった。誰かが私を陰から監視しているのを。
私の知人が経営する宿はほんの少し歩いた所にあった。仕事でも良くお世話になる場所で、オーナーは何も訊かずに空いてる部屋を少しの間貸してくれた。
リアムさんには部屋の真ん中にあるテーブルの椅子に座ってもらい、私は手当に必要な道具を下に借りに行った。
戻ってくると、彼は朗らかな笑みを浮かべながら、私に言った。
「君って、結構大胆なんだね。会ったばっかりの男を、宿の部屋に連れ込むだなんて」
「ひぇっ?! え、あ、ち、違います! 私、そんなつもりじゃなくて……!」
あたふたする私を見ながら、彼は今度はプッと吹き出した。
「ごめん、ごめん。ちょっと揶揄っただけ。感謝してるよ」
「そ、そうなんですか……?」
掴み所が無い感じの青年だが、悪い人ではなさそうだ。それに、ユーモアは大事である。
いや、いや。これはちょっとした接触だ。深い関係に発展する訳がない。どうせ私みたいな見た目の女は、彼の好みではないだろう。
自分の考えに自分で落ち込みながら、私は彼の傷の手当を始めた。
「すみません、シャツの袖を肘まで捲ってもらえますか」
「いいよ。こんな感じ?」
「はい、ありがとうございます」
それからリアムさんは静かに座っていてくれた。そして何となく……私の所作の一つ一つを観察している様だった。
「上手なんだね」
彼はそう言うと、私が包帯を外れない様に固定したのを確認して、袖をまた元に戻した。
「あぁ、えっと……色々あって、ですね……応急手当てとかは、一応……」
そうなのだ。私がしている仕事だと、そう言った知識も必要になってくる。
「ふーん、そうなんだ。俺もやたらと怪我するから、こう言うの、習った方がいいのかな」
「あ、そ、そうですね! 基礎が分かると、それだけでも助かりますからね!」
(く〜っ! よく怪我しちゃうなんて、おっちょこちょいなのかしら?! そう言うトコロもかわいいわ!)
コホン。いや、怪我をするのは決して良くないだろう。
「でも、あそこで助けてくれたのには、驚いたよ。喧嘩、強いんだね」
「えっ? あっ、えっと……そう、ですね。色々あって……」
「色々、かぁ。で、アンはどんなお仕事してるの?」
「うぇっ?! あ、えーっと……た、ただの引っ越し屋です! 今日も、その、仕事帰りで!」
「なるほど。だからそんなに力強いんだね」
「あ……」
力強い。侯爵令嬢にとっては、そんな形容詞は嫌がられるモノだ。でも、今の私には……そんなことは関係ない。
私はリアムさんの顔を見て、微笑んだ。
「はい、そうなんです。私、チビでも、筋肉には自信があるんですよ!」
彼は一瞬目を見開いたが、その次の瞬間、ほろほろと破顔した。
「そっか。素敵だね。俺、君みたいな人に憧れるよ」
「え……?」
そんなこと、生まれて初めて言われた。仕事では、女だった所為で最初は半信半疑で雇われたが、腕力が使える人材だと証明したら、ちゃんと評価される様になった。それでも、憧れだと言われたことはなかった。
「あ、ありがとう……ございます」
そう私が呟くと、リアムさんは私の頭にポンと手を乗せ、優しく撫でてくれた。
「色々あるの……頑張ってね」
「はい……じゃ、私は、これで……」
「うん。ありがとう。本当に、助かったよ」
私達はそう言って椅子から立ち上がり、借りた部屋を後にした。宿を出るとリアムさんは私に向き直り、明るく言った。
「じゃ、気を付けて。また会えたらいいね」
つぎの瞬間彼が少し目を鋭くしたのは、気のせいだろうか。彼はすぐまた元の表情に戻り、私に微笑みかけた。
「はい、そちらこそ、お気を付けて」
そう言うと、私は自分の家へと急いだ。まだ心臓がドキドキしている。
きっと彼と会う事はもうないだろう。それでも……
「眼福だったな〜……」
そして私は早足で歩きながら、初めて気付いたのだった。
彼の帽子が、やはりあの十年前の朝に最後に見たお爺さんのに似ている事を。
思いがけぬ寄り道をしてしまった私は、自分の家へと通例の近道をしていた。もうそろそろ日が沈む頃で、辺りは暗くなり始めていた。
次の裏路地を曲がったら家に着く……そう思った瞬間。
「むぐっ?!」
何者かに口を布で覆われた。鋭い薬剤の匂いがする。
「お前か?! ライム家の家出娘は?!」
その名を聞いたのは、何年ぶりだろうか。
「くそっ、アンネマリーア・ライム……手間を掛けさせやがって……!」
(この人……だれ……? 声に……聞き覚えが、ない……)
迂闊だった。誰かにつけられていた事に何故気付かなかったのだろう。
(これじゃあ……裏社会で働く……悪女失格、ね……)
馬車に連れ込まれているのをぼんやりと認識はできたが、抵抗はできなかった。
そして意識が遠のきかけた、その時だった。
ヒュッ! ズサッ!
何かが空を切る音……続いて、どこか不吉な、何か尖った物が柔らかい何かに差し込まれる音がした。
すると私は地面に倒れ込んだ。どうやら私を引きずっていた男が、私から手を離した様だった。
「危ない、危ない」
誰かが呑気な声で言うのが聞こえた。
朦朧とする意識を掻き集め、私は薄っすらと目を開く。するとそこにいたのは……
「ど……して……?」
リアムさんだった。