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Prologue:私が夢見た救済劇

Prologue/Chapter001:蔓延る邪悪

────side ████


「……本気で言っているのか。それにしても、いきなりすぎるだろう」

「はっはっは、その反応は想定外じゃったのう。てっきり賛同してくれるものだと思っておったんじゃが──なぁ、クレマリー」


 柔らかな風が、山藍摺色やまあいずりいろのカーテンを微かに揺らしていた。三月初旬の冷たい空気が半開きの硝子ガラス窓から吹き抜け、空調により薄く温められた室内の温度と溶け合っていく。

 空は茜色のグラデーションを終え、夜の入り口のような瞑色めいしょくに染まり始めていた。その高みに、一番星……乙女座のスピカが静かに瞬いている。


 冬と春の狭間、昼と夜の境目──逢魔時おうまがときの診療室。

 その室内で、赤のラインが入った白衣を纏った老医師……リズベルト・ゴッドフレイは、長い白髪と深紅の瞳を持つ一人の若き女性に視線を向けていた。


 「クレマリー」と呼ばれた彼女は、赤を基調としたドレスのような服に白衣を羽織り、表情には冷たい夜風のような無機質さを宿してリズベルトを横目に映す。その無感情な佇まいは、所謂いわゆる彼女の平常運転だ。

 感情を閉ざしたような雰囲気の中で、「何を唐突に」という混乱が感じ取れてしまう。人間、表情以外でも感情を語れるものだと、彼女の存在がそう証明していた。


「……賛同すると思うか?この診療所はどうする」

「心配は要らん。リューデンには病院など山ほどあるじゃろう」

「確かに、都心ならな。だがこの街には此処しか無い事を忘れたとは言わせないぞ。お前が居なくなれば、診てもらえない患者がどれほど出ると思っている」

「何を。医師ならお前が居るじゃろう」

「……は?」

わしも定年が近い。後継者の事くらい考えておる。……儂の一番弟子のお前なら、この診療所を継ぐに相応しいじゃろう。クレマリー……どうか、Yesと言ってくれんか」


 ──この通り、と頭を下げる老医師。弟子に頭を下げるとは、威厳というものはどこへやら。クレマリーはひとつ、大きな息を吐いた。


 此処は国家リューデンの地方都市に建てられた、小さな診療所。

 「光の大陸」アルセリオの西部に位置する内陸国のリューデンは、医学の中心地にして医師の都と名高い国である。

 都市部に足を運べば大抵の病は完治し、新薬や新型ワクチンの開発も盛んで、「治せぬ病などない」という豪語さえ現実のものとなる。

 ……最も、それは都心の話に限るのだが。

 この診療所は都市圏から離れた郊外にぽつんと建ち、手術室や入院設備も持たない簡素な造りだった。診察室と処置室がひとつずつ。けれど、此処の主の名声は、この箱庭の中に留まらない。


リズベルト・ゴッドフレイ。

その名を知らぬ者は、このリューデンの医学界では存在しないだろう。


 若かりし頃より数多くの命を救い、そのオペレーションの緻密さは最早芸術とさえ讃えられた。彼の指先で多くの命が救われた事は紛れもない事実であり、彼の足跡がこの国の医療の道標みちしるべとなった事は言うまでもない。その上彼は精神医学においても第一人者であり、うつ病や双極性障害、統合失調症などの理解と支援を深め、社会政策にも携わってきた人物だ。


 そんな名医が、頭を下げてまで後継を託し、行いたい事とは──。


「……偉大なるDr.リズベルトが職務を放り出し、私を後継者に据えてまでヴェルティに行きたいと?」

「そうじゃ」


 呆れと困惑の混じったクレマリーの声に、リズベルトはあっさりと頷いてみせた。目の前のこの老医師は、リューデンの隣国・ヴェルティに移住したいと、真顔で言ってのけたのだ。

 クレマリーは、治らぬ頭痛を堪えようとこめかみに手を遣り、長い溜息を吐き出した。


 ヴェルティ──それはリューデンから見て北に位置する国家だ。首都エルシアをようし、友好国として技術交流も盛んな国。科学も文化も進んでいる、美しく穏やかな緑と白亜の都市。……そう、数年前までは。


 今では、かの国は別の呼び名を持つ。

 〝死の国〟……その噂は、国内外で広く知られているものである。

 ……クレマリーがリズベルトの移住に賛同できない理由は、この診療所を放置する事だけではなかった。


「……よりによって、今〝死の国〟と噂されているヴェルティに、何故……」

「〝死の国〟だからこそ、じゃよ」

「〝死の国〟だから?意図が読めないな……。ヴェルティで死者が年々増えているのは知っているだろう、そんな場所に行くと言われて賛同する訳が──」

「感染症か、治安の悪化か。いずれにせよ普通は〝行きたくない場所〟の筈だ、とでも言いたげな顔じゃな」

「……そうだ。正直、正気を疑っているぞ。まさかとは思うが、ヴェルティで増え続ける死者、それも自殺者に〝病〟を見出したとでも?」

「ほう、察しがいいのう」


 リズベルトはそう言ってデスクに一度向かうと、クレマリーに封筒を手渡した。彼女は怪訝な顔でそれを受け取り、「親展」と印が押された白い封筒を見つめる。クレマリーがそれを手にした事を確認しながら、リズベルトは乾燥した唇を震わせた。


「……ヴェルティでは〈病魔びょうま〉と定義された病が流行っておる。その名を〈スアサイダル〉──人の心を蝕み、自殺へと追いやる新型の感染症じゃ」

「……スアサイダル?病魔?何を現実味の無い事を。この世界は、ファンタジーでは無いのだぞ」

「分かっておる。〈魔が差す〉という言葉があるじゃろう?この〈病魔〉は、その名の通り人に〝魔〟を刺す。つまり、精神に干渉し、思考を狂わせる」

「感染症……でありながら、精神疾患の面を併せ持つ病が、現実に存在すると?」

「そうじゃ。感染した者は体内に結晶化した腫瘍……まるでクリスタルのような物質を形成する。それが脳神経に影響を及ぼし……すると患者は次第に感情を失い、希死念慮を呼び起こす。そして最終的には──自分の手で、自ら命を絶つ。これが、今ヴェルティで起きている事の全貌じゃ。現時点でこの病の存在を知る人間は、ヴェルティ医学会の重鎮しからん。儂が知っておるのは、ヴェルティ国立中央病院の院長と〝繋がり〟があるからじゃからのぅ」

「……頭痛がする話だが、一旦呑み込もう。治療法はあるのか?」

「心理療法も有効じゃが、最も効果があるのは、腫瘍の外科的切除じゃな。つまり、メスが必要なのじゃよ」


 リズベルトの語るそれは、狂言のようでありながら、あまりに真剣で、あまりに悲しげな色を含んでいた。クレマリーはそんな彼を眺め、「その話、何か証拠があるのか?」と問う。あまりに、話が飛躍しすぎている。一度咀嚼しようと試みたが、話が唐突すぎて呑み込めない。


「あるとも。封筒の中身にのぅ」


 見ろ、という事らしい。その言葉に従って、天使の羽のような白い封筒に視線を落とす。封が既に切られたそれから中身を取り出せば、そこには機械的な明朝体の列と、数枚の写真が入れられていた。クレマリーの双眸そうぼうが、忙しなく文字列を追う。病理解剖の結果であった。


「……これは」


 視点が、ひとつの違和感に吸い寄せられていた。患者の体内、冷たい緋色に染まる画像に映り込んだ異物の影。……腫瘍?

 眉をひそめる。何故なら〝それ〟は、従来の肉による芽でなく──結晶化した硬度を持つ物体であったのだから。


 あかい結晶のプリズムが虹色の光を体内に散らしている。まるで、石窟に生える鉱石。そんな異物が、人間の体内から生えているなんて。

 リズベルトが緊張を和らげるように、努めて優しく「見たじゃろう」と口にする。


「ヴェルティの国立中央病院で、既に病理解剖が行われておる。……結果の通り、自殺者の心臓をはじめとした臓器から、同じ鉱石の腫瘍が発見されたんじゃ。しかも、全て同じ特徴を持っておる」

「興味深い、が……それが感染症であると、どうして断定できた?」

「彼等は皆、発症前まで正常だったんじゃ。心理治療を受けた記録も、精神的な疾患の予兆もない。それが、ある日を境に崩れていく。そして、最後には……。普通の精神疾患というには無理がある」

「……それで、感染症か」

「そうじゃ。この病を撲滅する事は、最早ヴェルティ国民だけの利益に留まらん。これがアルセリオ大陸中に広まり、パンデミックが起これば──人類は間違いなく敗北する」

「それで、お前がヴェルティに向かう……そういう話か、名医リズベルト」

「名医などでは無い。……じゃが、確かに……儂は、〝誰も知らない真実〟を、知っておるかもしれんのう……」


 一度、休符が描かれる。彼の真意を測り損ねたクレマリーは、無表情の中に疑問符を浮かべ、小さく首を傾げた。それを横目で追いかけたリズベルトが再び口を開く。


「……はじめ医師達は内臓由来の神経性毒素を疑っておった。じゃが、儂が……否定したんじゃ。これは、自己破壊を促す『生物的感染症』であると」

「その証拠は何だ。何の理由もなく否定した訳ではないのだろう」

「……聞きたいか?」


 彼は、そこで言葉を止めた。深く、ゆっくりと息を吐いた後、じっとクレマリーの横顔を見つめる。

 リズベルトにとってクレマリーは、十二年間、傍に居た孫のような存在だった。彼等の血は繋がっておらず、遺伝子にも関連性は見出せない。彼女は十二年前、血塗ちまみれの状態で運び込まれた「患者」であるのだから。けれど、二人は家族であった。切れぬえにしで結ばれた、師と弟子であった。


 互いに、あの日の事を鮮明に記憶している。クレマリーの持つ瞳のようなくれないが、胸腹部を染めていたあの春の日を。


 ──死の淵を彷徨さまよえど、彼女は生きていた。

 奇跡だった、とリズベルトが何度も口にするのを、クレマリーは聞いていた。まさに医術の神が、運命の女神が祝福してくれたのだと。そうでなければお前は死んでいたと、そう繰り返す。その度に彼女は瞳に影を落とし、それでも有難うと微笑んだ。


 彼女は、死ななかった。

 今、彼等の暮らす世界で、次々と命の灯火が消えているのに。

 あの日の彼女と同じように、紅の海に溺れて、輪廻のかえっているのに。

 それでもクレマリーは生きている。

 ……否、この言い方は正しくない。何故なら、彼女は死ななかったのではなく──。


 リズベルトはふと、愛しい弟子の端整な顔立ちを見て、微かに震えた声で問いかけた。


「……クレマリー、お前は」


 窓の外に旋風が吹き、白衣が僅かに翻る。長い白髪がそれになびき、リズベルトは彼女の瞳に、罪の十字架の姿を見た。


「──お前は、どうしてあの時、〝死ねなかった〟んじゃ?」


 唐突な問いであった。再び吹き込んだ風が、カーテンを柔らかく揺らしていた。

 漆黒に呑まれつつある夕陽ゆうひが、硝子窓から差し込む。部屋に残った仄かな光が二人の顔を照らし、表情をぼかしていた。

 クレマリーは、その言葉に返す事が出来なかった。

 問いに応える事も、視線を合わせる事も出来ないまま、静かに沈黙だけが包んでいく。

無垢の床に落ちた二つの影が彼等をそこに縫い留めていた。そしてそれは音もなく、宵闇へと融けてゆく。


 この病を根絶するために、ヴェルティへと向かうのだと。

 その決意を、もう非難できなかった。

 彼の覚悟を、蔑ろになど出来なかった。


 尊敬と、愛と、ひとつの後悔が、洛陽らくようの代わりに胸を焦がしていた。

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