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Prologue/Chapter002:彼の意志を継ぐもの

 ──翌日。


 三月の朝は澄んでいて、空気が酷く冷たい。風が頬をなぞり、さらりと長い髪を撫ぜて走り去ってゆく。春一番が西から東へ雲を押し流し、鳩の羽音が空に影を描いていた。桃の蕾が膨らみかけている事だけが、季節が確かに春へ向かっている事を教えてくれる。

 いつもと変わらぬ朝の筈であった。

 クレマリーは診療所に到着し、無言で靴を脱いで上靴に履き替える。


「クレマリー先生ッ!」


 看護師の一人が、ひたいに汗を滲ませて駆け寄ってきた。寒さが尾を引いて残る季節には不釣り合いな蒼白の顔色に、違和感と微弱な焦燥感を覚える。


「どうした……急患か?」

「い、いえ……ッ、そ、その……リズベルト先生が……!」

「リズベルト?リズベルトに何か……?」

「先生が──倒れて、呼吸をしていないんですッ!!」


 ──その言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。

 Dr.リズベルトが……呼吸をしていない?

 まさか。笑って否定しようと唇を開いた瞬間、それが「嘘ではない」と本能が告げる。

 笑うのは自分ではなく、己を取り巻く運命の方だと、そう悟った。

 クレマリーはマフラーを乱暴に外して投げ捨て、言葉尻を強くして叫ぶように声を上げる。いつもの冷徹さも、無感情さも、今は覚える余裕などなかった。


「──リズベルトは何処だ!案内しろッ!」

「こ……ッ、此方です!!」


 シューズの足音が診療所の廊下を二重に駆け抜ける。

 心臓の鼓動が耳を圧して、吐き出す息はあまりにも熱い。


 看護師に案内されたのは、昨夜までリズベルトと会話を交わしていたあの診療室だった。机に積まれていたものが散乱したのであろう──床に資料が散らばっている事だけを除けば、暴れた様子もなく綺麗な部屋だ。緩くかけられたままの空調が部屋を生温なまぬるく染めている。

 彼はそんな室内で、眠るように伏せていた。窓際に置かれた仕事用のデスクに突っ伏するように力無く身を預け、その瞳は固く閉じられている。クレマリーはゴム製の薄い手袋を填めて、彼に触れた。

 ──脈は、無かった。肌は冷たくて、外の風と同じ温度がした。


「……いつからこの状態だ?」

「え…と……私達看護師が出勤した時には既に……」

「心停止になってから数時間は経っているな……これは、もう……」

「そん、な……ッ、リズベルト先生、が、死ん──!」


 看護師の膝が崩れ落ち、彼女は顔を覆って涙した。背後で様子をうかがっていた他の看護師達もまた、絶望という針で場に縫い付けられている。その姿がいたたまれなくて、クレマリーは思わず目を逸らす。

 彼女を満たすのは絶望と、困惑と、そして──後悔。


 私があと数時間早く出勤していたら救えたかもしれない。

 昨日、彼が帰宅するまで此処に残っていたら救えたかもしれない。


 救えなかった。彼の一番弟子を名乗っておきながら、有事の際に駆けつける事もしないで。それはもう、「見殺し」と変わらない。己が殺したようなものだった。

 じわりと目尻に涙が溜まる──その視界に、二つの薬の空き箱が映った。無意識のうちに目を細め、黒く細い文字列を追う……机の上のものに紛れていて失念していたが、この診療室で薬の空き箱があるという事実が異質だった。

 それは、ジェネリックの医薬品であった。ゴシック体の文字で「不眠に」と書かれているのが確認できる。


「睡眠薬、か……?なんでまた二つも空き箱が──」


 そこで、はたと気付く。

 ヴェルティでは睡眠薬の過剰摂取──俗に言うオーバードーズで自殺を図る人が多いと、以前耳にしたのだ。

 ……〝自殺〟?


「……まさか!」


 乱暴にペン立てからライトを掴むと、クレマリーは舌圧子ぜつあつしを取り出してリズベルトの口内を覗く。温度を失った冷たく硬い口内……その舌が、海の如くコバルトブルーに染まっている。


 それは、睡眠薬を飲んだ事の証明。

 そしてそれは同時に、彼が自ら命を絶った事の証明!


 間違いない。リズベルトはオーバードーズを行った。しかし、ヴェルティを救うと意気込んでいた彼が自殺を図るとは考え難い。ならば、誰かに薬を飲まされた……そう考えるのが妥当だろう。

 誰に?リズベルトを殺そうとした何らかの犯罪者の仕業か?

 それは近くに居る人物?愉快犯?それとも………


『……ヴェルティでは〈病魔〉と定義される病が流行っておる。その名を〈スアサイダル〉──人の心を蝕み、自殺へと追いやる新型の感染症じゃ』


 ………スアサイダル?

 不意に、リズベルトが生前言っていた話を思い出す。

 病魔である〈スアサイダル〉は人に希死念慮を抱かせ、思考能力を奪って自殺に導く。

 それに、彼が感染していたのだとしたら──?


「……クレマリー先生?」


 硬直したまま動かないクレマリーを心配して、看護師の一人がそう声を掛ける。それに対し、振り返る事なく淡々と口にする。その言葉の半分には混乱が含まれていたが、もう半分には確信があった。彼女にしか知り得ない、真実を孕んでいた。


「……少し、席を外してもらえるか。確かめたい事がある」


 看護師達は顔を見合わせたが、クレマリーの胸中を察したのか、直ぐに小さく頷き、診療室を後にした。一人が振り返り、「……ゆっくりで大丈夫ですので」と声を掛ける。その声には、悲しみと、彼女への深い敬意が滲んでいた。


 静寂が戻った室内で、クレマリーはリズベルトの身体からだをそっと抱きかかえ、備え付けのベッドへと移す。むくろとなったその身体はとても重く、そして冷たかった。

 命を失った器というのは、こんなにも重たいのか。こんなにも冷たいのか。そして──命を奪われるというのは、こんなにも……。


 ……スアサイダル症候群、というのだろう。

 その病には、クリスタルのような腫瘍が形成されるという。外科的に切除可能なそれが、リズベルトの身体に本当に存在しているのか確かめなければなるまい。

 そう思いながら衣服を脱がせ、上半身を露わにする。長時間の手術に耐えうる躯体からだは齢六十とは思えない程筋肉質で、彼の医師としての矜持きょうじと日々の献身が刻まれていた。そんな彼の身体に目を落とし、腫瘍の痕跡が無いかを確認する。


 ──結果は、一目瞭然だった。肋骨の中央……心臓があるはずの部位が、ぼこりと不自然に膨らんでいる。クレマリーは躊躇いなくメスを取った。ドレープを掛け、白い肌に刃を当てる。紅い地上絵が、彼の胸部に厳かに引かれた。

 つう、と線が緋色に染まる。それがいくら溢れても、目の前の彼の体は危険にならないのだという悲しすぎる真実が再び脳裏を過ぎる。だが今は、それに臆する暇は無い。

 皮膚を胸の真ん中で真っ直ぐに切り、胸骨きょうこつを切って左右に広げ、開胸すれば……心膜を切らなくともその「違和感」は「異物によるもの」だという事がはっきりわかった。動きの停止した心臓から、血にまみれててらてらと光る赤いクリスタルのような鉱石が生えている。


 やはりそうか。

 リズベルトは、殺されたのだ。

 病魔〈スアサイダル〉によって、殺されたのだ。


 〈スアサイダル〉に身体を蝕まれたままに師匠に別れを告げるのは癪だった。

 クレマリーはその鉱石のような腫瘍を、心臓を傷つける事なく取り除いて──ゆっくりと縫合し、閉胸する。戻らないと分かっていながらも、まるで再び目を覚ましてくれる事を祈るように、最後まで優しく彼に触れる。

 時間だけが無慈悲に流れた。心のきずは、その程度で癒える事は無い。

有難ありがとう」も、「まさか儂が」も……彼は、治療したところで何も言わなかった。

「救えなかった」──それがたまらなく悔しくて、クレマリーは奥歯を噛んだ。


 〈スアサイダル〉。

 私はお前をゆるさない。

 大切な師を殺めたお前を……絶対に、赦してなるものか。


 怒りに燃えながら、拳を握り締め……その怒りを収めようとリズベルトから視線を逸らす。逸らした視線の先に、ヴェルティ国立中央病院のパンフレットがあった。それは暖かな陽光に照らされ、光を柔らかく反射している。


『現時点でこの病の存在を知る人間はヴェルティ医学会の重鎮しか居らん。儂が知っておるのは、ヴェルティ国立中央病院の院長と〝繋がり〟があるからじゃからのぅ』


 リズベルトの決意の声が、蘇ってくる。

 ヴェルティでは今も、彼のように……〈スアサイダル〉によって、何の罪もない命が奪われているのだろうか。


「………この病を今知っているのは、ヴェルティ医学会の重鎮と……それから、私だけ、という事か…」


 震える泣きそうな声で骸となったリズベルトを見遣り、そう呟く。規則的に針を進める時計だけが、彼女のその呟きに応えてくれた。そうじゃのう──言葉は発さなくとも、師はそう語っているように見えた。


 ……ならば。

 ならば、私は彼の意志を継いで、ヴェルティに向かわなければならないだろう。

 これ以上、〈スアサイダル〉の好きにさせてなるものか。

 これ以上、苦しむ人を出してなるものか。


 クレマリーは決意を胸にリズベルトと決別し、診療室を後にした。嘆き合っている看護師達は、つかつかと玄関に向かって足を進める彼女に驚いて声を掛ける。


「く、クレマリー先生……!?どちらに……!?」

「ヴェルティだ」

「え……!?」

「私はDr.リズベルトの意志を継ぎ、ヴェルティでこの病魔と戦う。〝死神〟に、これ以上暴れられては困るからな」

「病魔……?あ、ちょ──ッ、クレマリー先生!!」


 こうして彼女──クレマリー・ルーヴィルは一人、心に燃え盛る熱意と憎悪を秘めて、ヴェルティ、首都エルシアにある国立中央病院に足を運ぶのだった。


 物語は、動き始める。

 人類と死神の聖戦が、幕を上げる。


 さぁ、始めよう。

 これは剣を握り、勇者が悪に立ち向かう物語ではない。

 メスを握り、医師達が病魔に立ち向かう──


 そんな希望に満ちた救済劇サルヴェイションだ。


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