藤原遥は人混みを避けて、一人で何か食べようと考えていた。リソース交換エリアの薄暗い廊下を抜けていると、前方から一人の男とぶつかりそうになった。
思わず彼の顔に目を奪われる。
整った顔立ち、際立つ骨格、シャープな顎のライン。無表情の時はどこか冷たさが漂うが、笑うと不良っぽさの中に少年らしさが混じる。濃い眉が印象的で、少し手入れのされていないラフな美しさがある。特徴的な切れ長の目尻に、澄んだ黒い瞳。人を見る時はいつも少し茶化すような、気だるげな余裕すら感じさせる。
歩く姿も堂々としていて、まるでファッションショーのランウェイを闊歩しているかのようだ。片手をポケットに入れ、「俺が一番カッコいい」と全身でアピールしているようだった。
藤原遥はすぐにピンときた。
東京でも有名な放蕩者――つまり、九条家の若様、九条森だ。やはり国外から戻ってきたらしい。本館では姿を見なかったし、藤原知世の性格からして招待するはずもない。おそらく自分で入り込んだのだろう。雲鏡軒に潜り込むとは、大したものだ。
藤原遥は余計な関わりを避けたいので、ほんの数秒視線を止めると、そのまますれ違おうとした。
ところが九条森はふいに手を伸ばして彼女の行く手を塞ぎ、ふざけた調子で言った。
「きみ、俺のことじっと見てたけど、もしかして俺のファン?」
藤原遥はこめかみがピクッと動いた。やっぱり噂通りの性格だ。この顔と声がもったいない。
「あなたのことなんて知らないけど、何を好きになるっていうの?」
彼女は呆れつつも、なんとかため息をこらえた。
「ごまかさなくていいよ。俺の魅力に抗える人はいないからね」
九条森は自信満々に言う。
藤原遥:「……」
本当に面倒くさい。これ以上関わるのはごめんだと思い、黙って別の方向へ歩き出した。
「ちょっと、どこ行くの? まだ話し足りないんだけど」
九条森はしつこく付いてくる。幸い、周囲に人の気配はない。
「ねえ、きみどこの子? 初めて見る顔だよ?」
藤原遥はあまりのしつこさに振り返って睨みつけた。
「そっちこそ誰? 私、見たことないけど」
「もちろん君の家の人さ、忘れた?」
「ふざけないで。どこから湧いてきたの? 宴が始まった時はいなかったよね?」
「仕方ないな、ばらすか」
九条森は大げさに肩をすくめ、真面目な顔で言った。
「実は藤原知世さんに頼まれて、今夜の接待役で呼ばれたホストなんだ」
藤原遥は思わずむせそうになった。この人、本気で自分の評判なんて気にしてないらしい。そんなことを平気で言うなんて。藤原知世がホストを呼ぶ? そんな噂を流されたら、さすがの知世も黙っていないだろう。彼女が九条森を嫌うのも納得だ。
「信じてないの? じゃあ、試してみる?」
「ふざけないで!」藤原遥は思わず、彼の顔めがけて拳を振り上げた。
かわされたが、元々本気で殴るつもりはなかった。
「まったく、なんで美人はみんな気が強いんだ?」九条森は不満そうに口を尖らせる。
「みんな? 他に誰が?」
藤原遥は鋭く聞き返した。
「もちろん、あの有名な藤原知世さん。あの人も相当キツいよ」
「へえ、どんなふうに?」
九条森はまた距離を詰めて、声をひそめた。
「この目で見たんだ、あの人が人を殺すところ。手際が見事だったよ」
「そう」と藤原遥は口元をわずかに上げる。
「まだ信じてない? 証拠は残さなかったけどね」
「それなのに、彼女に呼ばれて来たの? 口止めされるのが怖くない?」
「いやぁ、報酬が良すぎて断れなかったんだ」
九条森は真剣な顔で言った。
藤原遥:「……」
どこまで茶番を続ける気だ。
「じゃあその知世さんのところに行ったら? 私に構わないで」
「いやいや、あんな人はちょっと無理。結婚する相手は苦労するだろうね」
九条森はそう言いながらも、どこか楽しげな表情。
藤原遥もにやりとし、彼の後ろを指差した。
「ほら、後ろにいるけど」
九条森はビクリとし、慌てて振り返ると、藤原知世の冷たい表情と目が合った。すぐさま藤原遥の後ろに隠れた。
「うわ、びっくりした! 君は優しいから助かったよ。さもなきゃ命が危なかった」
藤原遥はすぐに距離をとった。
「この人のこと知らない。全部彼が勝手に言ってただけ。自分で“知世さんに頼まれたホスト”って名乗ってたよ」
九条森は目を丸くして、驚きの表情。
「え、もう裏切るの!?」
「じゃあ、次はもう少し待ってあげる」
藤原遥はとぼけた顔で言った。
藤原知世の視線が二人を見比べ、さらに冷たさを増す。
「ほう、九条家の御曹司がホスト役とは、私も光栄だわ」
騒ぎを聞きつけて周囲に人が集まり始め、思いがけずその一言が耳に入った瞬間、場内がどよめいた。
「えっ、九条家の御曹司? 海外にいるんじゃなかったの?」
「さっきまでいなかったよな?」
「ホスト役? まさか、幻聴?」
「でも、あいつならやりかねない!」
「私たちも指名できる? それとも藤原家だけ?」
「そんな夢みたいなことあるわけない。せいぜい藤原家の本家と知世さんだけよ」
「これ、修羅場? すごすぎる! 何見逃したの?」
場は一気に市場のような騒がしさに。藤原遥も思わず眉をひそめる。
「静かにしなさい!」藤原知世が鋭く一喝し、場の空気を一変させた。彼女は九条森に冷ややかな視線を向け、はっきりと拒絶を示した。
「九条家の御曹司が勝手に来たことは今回は不問にするけれど、二度と私にも藤原家の者にも近づかないで」
そう言い残し、意味ありげに藤原遥を一瞥する。
「それは困るな。うちの家と藤原家には、まもなく婚約の期限が来るでしょ?」
九条森はわざと挑発的に言い放つ。
見物人たちはさらに盛り上がり、騒ぎは収まる気配がない。
藤原知世は眉をひそめ、九条森を鋭く睨みつける。
「あなたは反発ばかりして、この結婚に大反対だったはず。だから国外にまで逃げたのでしょう? それが今さらどういうつもり?」
「君と結婚する気はさらさらないさ」
九条森は鼻で笑った。
「ただ、藤原家の本当の娘さんが戻ってきたって聞いてね。俺の花嫁候補を一目見に来たんだよ」