刀傷のある老人は目を細めて微笑むが、その奥には軽蔑の色が隠れていた。
以前、藤原柏山から聞いていた。数日前に戻ってきた本当の娘は、気が弱くて純粋、扱いやすい子だと。だが、今目の前にいる彼女を見る限り、どうにも違う。入ってきた時から一言一言が知世に張り合うようで、遠回しにも自分こそが本当のお嬢様だと主張している。知世の顔色も気にせず、場の空気も読まずに発言する。好意的に見れば純粋だが、悪く言えば考えなし。帰ってきてまだ二、三日なのに、もう我が物顔で振る舞っている。これからどう騒がせてくれるのか、楽しみだ。
だが、それが彼には都合がいい。急に現れた血縁者が場をかき乱し、知世を牽制してくれるのは願ってもないことだ。彼女はもう大人だし、今さら藤原家がしつけ直すのは無理だろう。
「客じゃないなら、君は誰だい?」藤原遥が率直に尋ねる。
「黒沢竜也だ。君のお父様もお母様も、知世もみんな私を黒沢と呼ぶよ。」黒沢はどこか誇らしげに名乗り、遥が敬意を払うのを待っている。
遥は心の中で納得する。調べておいた通りだ——黒沢竜也、大和海運の会長で、世界の5%の貨物航路を掌握している。藤原家初代当主・藤原鴻の義兄弟で、かつては海賊だったが藤原鴻に救われ、清廉な道を歩み始めた。南洋-アメリカ航路の黄金ルートを支配し、密かに「ワニ組」という私設武装集団を育てている。新月グループの株主でもあり、三叔父・藤原柏山を裏から支援し、独立した海運事業を目論んでいる。藤原姓ではないが、長年藤原家のために尽くしてきた。
「へえ、黒沢さんね。やっぱり藤原家の人じゃないんだ。」遥はわざと軽い口調で言う。
黒沢竜也:「……」この子、ほんとに遠慮がないな。
その様子を見て、知世は微笑んだ。「黒沢さん、姉は思ったことをすぐ口にするんです。気にしないでください。」心の中では何度も悪態をついている。この老獪な狐は、両親がいない時ばかりを見計らってやってきて、私たちを困らせるくせに、表立って文句も言えない。
「年寄りが子供の言動にいちいち目くじら立てないよ。でも、お嬢様として戻ってきたからには、藤原家の作法は学んでもらいたい。次からは、ちゃんとノックしてから入るように。」黒沢は真面目な口調で言う。
「はいはい、次は気をつけます。」遥は気にせず返し、「それより、話の続きは?」
「先に席を外してくれ。今日の話は君にはまだ早い。次の機会に。」知世は焦りを隠せない。家の者は皆、遥がこうした話に関わることを望んでいなかった。絶対に聞かせられない内容だ。
「まだ話も聞いてないのに、なぜ分かるの?」
「そうだろう?君は藤原家の直系、知世よりもよほど話に加わる資格がある。もしかして、知世はそれが怖いのか?」黒沢は露骨に焚きつける。
知世の表情が一気に険しくなる。
沈黙していた佐藤執事が口を開いた。「お二人とも、それぞれ役割があります。ご主人様と奥様が決めることですから、黒沢さんが心配することではありません。」
「私はただ話をしただけさ。」黒沢はすぐに表情を引き締める。
「佐藤執事って執事じゃなかったっけ?この前は家のことに口出しできないって言ってたのに、どうして今日はここに座ってるの?」遥が無邪気を装って尋ねる。
佐藤が答える前に、黒沢が先に口を挟む。「執事?それだけじゃないんだよ。藤原家はそんなこともお嬢様に隠してるのか?」驚いたふりをして知世を見る。「知世、お姉さんには説明してないのか?」
遥がさらに聞く。「執事だけじゃないって、じゃあ何なの?」
「私と同じだよ。藤原家の長老会の一員さ。」黒沢はあっさり明かす。
知世と佐藤の目がかすかに陰る。
「長老会?」
「ああ、長老会は全部で五人いて……」
「黒沢さん、今日はずいぶんおしゃべりですね。」知世が低い声で遮った。
遥はもう大体察していた。佐藤執事は表向きはただの執事だが、実は家の裏側を仕切る長老会の重鎮。“密議”の元老であり、情報、暗殺、グレーな取引など“ブラックグローブ”の責任者。知世の管理する“裏帳簿”とも深く関わっている。「夜鷹」と呼ばれる家族直属の秘密武装集団も統率し、藤原鴻の義理の息子として幼いころから忠誠を誓い、冷酷な手段も辞さない。
「いやはや、年を取るとつい余計なことまで話してしまうな。」黒沢はわざとらしくため息をついてみせる。「まあ、いい。行こうか。」
「どこへ?」遥が訊く。
「お嬢様、ちょうど話も終わったし、これから出かけるところだ。一緒にどうだい?」
遥は少し驚く。「もう終わったの?これから何するの?」
「仕事の用事だよ。お嬢様も見て学んでみるといい。」
「ダメです。ご両親が姉を外に出すことを許していません。」知世は彼への苛立ちを隠さない。姉を連れ出して何を企んでいるのか、外で待ち伏せでもしているのではと疑っている。
「そんなに厳しくすることないだろう?囚われの身でもあるまいし、外出もできないのか?」黒沢は同情するように遥を見る。
案の定、遥も不満そうに口を尖らせる。「そうよ、知世。そんなに警戒しなくてもいいじゃない?」
「あなたのためよ。」知世は頑として譲らない。
黒沢は、姉妹が口論になりそうな様子を見て満足げだ。
「まあまあ、知世が心配なのは分かる。もし何かあれば、私が責任を持つ。お嬢様を連れて行っても問題ないだろう。」黒沢はまたもや煽るような口ぶりだ。
「それ、約束ですよ。」知世は納得できないながらも少し安心する。黒沢がここまで言うなら、今すぐに何か仕掛けるつもりはなさそうだ。外へ連れ出す本当の目的は、まだ見極めが必要だ。
「私の言葉だ。これで安心したかい?」黒沢が言う。
知世はうなずき、佐藤に目配せして、密かに警護を増やすよう指示した。