「くそっ、黒沢竜也め。知世の前であんな醜態をさらして、藤原家の事業まで勝手に弄ぶなんて、今回はただじゃ済まさないぞ。」藤原光は怒りをあらわにした。
「知世がどこまで分かっているのか、気になるところだが……」
一家の話し合いが終わった頃には、もう夕暮れになっていた。
佐藤執事は知世のそばに腰掛け、周囲に誰もいないのを確かめてから、声を潜めて言った。
「知世様、どうしてあんなに必死でお嬢様をお守りになったのですか。少しでも判断を誤れば、ご自身の命が危ないのに……」
長年仕えてきた彼の心は、自然と知世に傾いていた。そこまで犠牲になる必要はない、と感じていたのだ。
「外に連れ出したのは私。事前にお父様とお母様には報告していたけど、責任は私にあるわ。もし誰かが傷つくか、命を落とすなら、きっと私にその役割が回る。藤原家が私を育てた理由は分かってる。彼らの情よりも利益が先に立つことも。でも私は、それを不満に思ったことはない。藤原家が与えてくれたものは十分すぎるほど。ほんの十数年で、東京で一番の令嬢の座を得て、自分の力も人脈も築けた。もし、藤原家に拾われてなければ、今ごろ底辺でもがいていたはず。遥が本来受けていた待遇を私が享受している。文句を言う資格なんてない。結局、私と遥の運命は一心同体。遥を守れば、藤原家も私に冷たくはしない。今回だって、お父様もお母様も満足してくれたし、私も望んだものは手に入った。少し傷ついたくらい、どうってことない。生きていれば治るわ。もし藤原家に必要とされるなら、私は一番鋭い刃になればいい。」
「知世様……」佐藤執事はさらに言葉を続けようとしたが、知世にさえぎられる。
「もういいわ。今一番大事なのは、あの二匹の老獪な狐が送り込んだ内通者を始末することよ。」
「かしこまりました。」佐藤執事はスマートフォンを取り出して見せた。
「知世様、昨日の件はできる限り情報を抑えましたが、それでも外に漏れてしまいました。黒沢竜也の仕業かと。」
「ということは、もう各家に知れ渡ってるのね?」
「その通りです。」
「ちょうどいいわ。少し休みたいし、面倒な付き合いは全部断っておいて。」
「もし見舞いに来る方がいたら?」
「相手次第。親しくもない人は中に入れなくていいわ。」
「承知しました。」
……
藤原健介と藤原美智は、藤原遥の部屋にいた。
「遥、もうひとつ相談があるの。」美智は遥の手を優しく取る。
「うちに戻ってきてしばらく経ったし、きちんと家族として迎え入れる儀式をしたいの。どうする?認知の宴を。」
「認知の宴?できればやりたくないな。目立つのは嫌だし、ネットで顔が広まるのもリスクがあるから……本当に静かに過ごしたいの。」
「しなくていいの?寂しくない?」
「寂しくないよ。お父さんもお母さんも、お兄さんも、みんなが私を大切にしてくれてる。それだけで十分。」
「この子、本当に気遣い屋さんね。」
「別に形式にこだわらなくていいよ。これから知世と一緒にいれば、いずれいろんな人と会うことになるし、今ここで無理に目立つ必要もない。」
二人はしばらく考えたあと、遥の意見を受け入れた。
「わかったわ。じゃあ藤原家のみんなが集まったとき、身内だけでささやかにお祝いしましょう。」
よくよく考えれば、今は知世に注目が集まってくれた方が家の計画にも都合がいい。知世はこれまで何度もそういう場を乗り越えてきた。一方、遥はまだ成長が必要だ。
「うん、それでいい。」
……
朝、知世は佐藤に起こされた。
「知世様、九条森様がお見えです。」
「は?あの人、こんな朝早くから来るなんて、怪我人が休んでるの知らないの?」
「知世様が怪我をされたと聞いて、お見舞いだそうです。」
「私を心配するような人じゃないでしょ。どうせ何か企んでるわ。」
「会われますか?」
「会わない。」
三分後、佐藤が戻ってきた。
「知世様、九条様は帰ろうとされません。もしお会いできないなら、お嬢様に会わせてほしいと。どうしても手ぶらで帰りたくないようです。」
知世は呆れて言った。
「お姉さんはこのこと知ってる?」
「まだご報告していません。」
「なら余計な手間かけさせないで。起こしてくれる?せっかくだし、彼が何を考えているのか見てみたいわ。」
そう言って、のんびりと支度をしながら、佐藤に支えられて階下へ降りていった。
九条森は待ちくたびれていたが、脚を組んでふてぶてしい態度を崩さない。
「わざわざ九条家のご子息がいらっしゃるなんて、今日はどんなご用件かしら?」
「良いものを持ってきたんだ。開けてみて、きっと気にいるから。」
知世は手を伸ばさずに言った。
「贈り物なら、次からはご本人が来る必要はないわ。」
「そうはいかない。ちゃんと無事な姿を見ないと、心配でさ。」
「今こうして顔を見せたんだから、もう帰ってくれていいわよ?」
「そんなに早く追い返すの?」
「まさかご飯でも食べていくつもり?」
「実は……そのつもりだった。」
知世は思わず黙り込む。やっぱり彼は一筋縄ではいかない。
「用件があるなら早く言って。前は私の顔を見るのも嫌がってたくせに。」
「君と昔のわだかまりを水に流したかっただけさ。」
知世は警戒心を露わにした。
「わだかまりを解消して、それで?」
「それで、藤原家のお嬢様は今、家にいらっしゃる?」
「いないわ。」
知世は「やっぱり」とでも言いたげな顔をして、佐藤に目配せした。
「佐藤さん、送ってあげて。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。会いたいだけで、別に……」
言い終わる前に、佐藤に丁寧に外まで案内され、なんとか財閥の御曹司としての体面だけは守られた。
外で待っていた付き人たちが駆け寄る。
「坊ちゃん、どうでした?未来のお嬢様に会えましたか?」
「会ってない。」
付き人たちは目を丸くして驚き、どこか呆れた様子も見せる。
「えっ?あんなに長く中にいたのに、藤原家のお嬢様に会えなかったんですか?」
「うるさい。」
九条森は一人一人に軽く蹴りを入れた。
彼を見送った後、知世はゆっくりと贈り物の箱を開けた。見た目は立派だが、中は空っぽで、緩衝材すら入っていない。念のため底を調べると、数枚の紙が――それは黒沢竜也と関西組が内通している証拠だった!
まさか藤原家より先に掴んでいるとは……?
考えを巡らす暇もなく、この恩義は受けておくしかなかった。知世の目が鋭く光る。
「佐藤――!」