王都最大の舞踏会場。
今夜は王宮主催の社交舞踏会であり、出席者の顔ぶれは国の中枢を担う貴族ばかり。
誰もが豪奢な衣装を纏い、杯を交わし、未来の政を左右する縁を結ぶ場でもある。
その中央に立つのは、王太子レオナードと聖女ミレイユ。
眩く照らされたスポットライトの下で、彼は声高らかに宣言した。
「我が王国に神の祝福をもたらした聖女ミレイユこそ、真実の愛の化身。よって、私は彼女と新たな契りを結ぶ!」
ざわっ……と広がる人々のさざめき。
そして次の瞬間――
「アリステリア・ディ・レグニッツとの婚約を、ここに破棄する!」
王太子の一方的な言葉が、会場を沈黙させた。
──だが。
その空気を切り裂くように、ヒールの音が響いた。
「まあまあまあ……」
ゆったりと歩み出たのは、深い青のドレスに身を包んだ一人の令嬢。
レグニッツ公爵令嬢、アリステリアである。
「……さすがですわ、殿下。何度目かしら、“真実の愛”って」
その声音は穏やかだった。笑みすら浮かべていた。
けれど、それが逆に恐ろしかった。
王太子レオナードの顔が、みるみる赤くなる。
「何を……言っている」
「だって……毎月のように、“運命の女”を見つけてらっしゃるのですもの。“真実”が軽すぎて、ちょっと心配になりまして」
くすくすと笑うアリステリアに、貴族たちの間で小さなざわめきが起こる。
レオナードは拳を握りしめた。
「貴様……王太子であるこの俺に、反抗するのか?」
「いいえ。むしろ、喜ばしいことですわ」
アリステリアは、ぴたりと歩を止め、正面に立つ。
その目は、笑っていなかった。
「ようやく、あなたから婚約破棄をいただけたのですもの」
「……なに?」
アリステリアは静かに言葉を紡ぐ。
「正直に申し上げて――」
「人としてクソ野郎すぎて、こちらから婚約破棄したかったくらいですわ」
会場が凍りつく。
王太子の顔が、真っ赤に染まる。
「おまえっ……!」
「けれどね。こちらから切れば、公爵家の立場がどうなるか、父がどう思うか、いろいろ考えましたの」
「貴様、身の程を弁え……!」
「でも、今夜で終わりですわ。感謝して差し上げたいくらいですの。あなたの自爆のおかげで、私は晴れて自由の身ですもの」
そこまで言うと、アリステリアはふっと微笑んだ。
──そして。
「最後に一つだけ、礼を」
言うや否や。
ぶん。
音がした。風が鳴った。
ごっ。
「っぐぁあっ!!?」
次の瞬間、王太子レオナードは殴られていた。
それも、まさかの。
拳で。
公爵令嬢の繊細な白手袋が、王太子の頬を見事に捉え、豪快に回し蹴り……ではなく、ストレートで顔面を打ち抜いたのである。
その衝撃に、王太子は大の字に倒れこむ。
貴族たちの悲鳴とどよめきが同時に湧き上がった。
「あ、アリステリア様、拳!?」「手で!」「なんという……」「殿下がお倒れに!」
アリステリアはそんな周囲の混乱に目もくれず、倒れたレオナードを見下ろしながら、優雅に言った。
「……ああ、痛かったですわ」
「お、貴様……っ」
「拳で殴るなんて、初めての経験でしたの。爪、割れてないかしら……?」
そうつぶやきながら手袋を外し、何事もなかったかのように新しいものを取り出して付け直す。
その所作に、恐ろしいほどの品格があった。
「では、皆さま。私の婚約破棄の儀、どうぞごゆるりとご覧になってくださいませ」
アリステリアは、倒れるレオナードを背にしながら、くるりと身を翻した。
ドレスの裾が空気を裂き、堂々と歩き去っていく。
誰もが、その背中から目を離せなかった。
そして、その背中をうっとりと見つめていたのは、他でもない――聖女ミレイユだった。
「……すてき。あの冷たさ、あの潔さ……ああ、私もあの拳を受けてみたい……♡」
静かにそう呟いた彼女の言葉は、誰にも聞かれていない。
──変態たちに囲まれるアリステリアの未来など、
このときの彼女は、まだ知る由もなかった。
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