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第4話 追放通告と静かな怒り

翌朝、王宮からの使者がレグニッツ公爵邸を訪れたのは、朝日が差し込むちょうど朝食の時間だった。


アリステリア・ディ・レグニッツは、白い絹のガウンを羽織りながら、優雅に紅茶を口にしていた。


「お嬢様。王宮より使者が……」


侍女の声に、アリステリアはゆっくりと目を上げる。


そして、応接間に現れたのは、顔色の悪い若い男――平民出の新米官吏と見える。


その男は震える手で巻物を差し出した。


「ア、アリステリア・ディ・レグニッツ様に、王命をお伝え申し上げます……!」


「どうぞ。大きな声で」


アリステリアはにっこりと笑った。

だがその笑顔が逆に、使者を怯えさせる。


彼はごくりと喉を鳴らし、意を決して言い放った。


「……本日をもって、アリステリア様には――王都からの“追放”を申しつけます!」


「――追放、ですか?」


その一言を口にしたアリステリアの笑みが、ふわりと消える。


使者の顔が一気に青ざめる。


「お、お怒りでしょうか……!? も、申し訳ありません、私もただの使いでして……!」


アリステリアは立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。


「王都追放、ですの?」


「……はいっ……!」


「王太子を殴りとばしたのですから、その程度で済んだのが奇跡というべきかと……」


返答の途中で、使者はふと、アリステリアの右手に目をとめた。


「……な、なぜ、後ずさりますの?」


「……い、いえ……その……」


アリステリアの右手には、一本の漆黒のウイップが、指先でくるくると巻き取られていた。


「なぜウイップを手に?」


「……拳で殴ると、手が痛いですから」


「……」


間を置いて、使者が数歩、後ずさる音がした。


「……誤解ですわ。これは単なる護身用。趣味ではありませんの」


「は、はは……そ、そうでございますか……!」


顔を引きつらせながら頭を下げる使者に、アリステリアはふたたびにこやかな笑顔を向けた。


「お伝えくださって、ありがとう存じます。……王都からの追放、承知いたしましたわ。お帰りの際は、お茶でもお持ち帰りになって」


「い、いえっ! 結構です!!」


使者はほとんど逃げるように部屋を後にした。



「……何か、失礼なことをしたかしら」


静かに閉まった扉を見つめながら、アリステリアは首をかしげる。


ウイップを手にしていたのは、右拳の腫れが未だに治らず、今後の“応急処置”として考えた末の手段だった。


(あれほど無様に腫れるとは思いませんでしたわ……)


そっと手袋を試してみたが、やはり指が通らない。

アリステリアは諦めて、紅茶をもう一口飲んだ。


「次に顔を出すクソがいたら、もう手は使いませんわね……」


そうつぶやいて、テーブルにそっとウイップを置いた。


決して嗜好ではない。誤解である。


本当に、まったくの誤解である。



荷造りは静かに行われた。


公爵家も、王命に逆らう形で騒ぎを大きくする気はなかったのだろう。

父は「一時のことだ。すぐ戻れるようにしておく」と言い、母は「……王族の血筋も、最近は軽くなってきたのね」とだけ告げた。


(まあ、今さらこの家に義理はありませんわ)


アリステリアは、手早く必要な荷物をまとめ、最後に“例の鞭”を専用の鞄に丁寧にしまい込んだ。


あくまで、護身用。くどいようだが、嗜好ではない。



馬車が王都を離れるとき、誰も見送る者はいなかった。


けれど彼女は、少しも寂しそうな素振りを見せなかった。


「……静かなところなら、それで十分ですわ」


呟いて、揺れる窓の外に目をやる。


騎士団の誰かが王太子の顎の骨が折れたと言っていた。

それを聞いても、アリステリアは何も感じなかった。


(……むしろ、よく我慢しましたわ、私)


そして手に残った痛みが、静かに、今後の自衛手段を思わせる。


「……拳は封印。次は、正しく理性的に対処いたしましょう」


その隣で、革の鞄が揺れていた。


その中で、“決して趣味ではない”一本の鞭が、静かに眠っていた。



その夜、王都の噂は止まなかった。


「ねえ聞いた? あの公爵令嬢、拳が痛いからって、鞭を持ち歩いてるらしいわよ」

「こわっ! 趣味じゃないって言ってたらしいけど、それが一番怖いよね」

「なんかもう、“静かなる調教姫”って呼ばれてるんだけど!?」

「殿下の顔、まだ腫れてるって。目、開かないらしいわよ」


本人の知らないところで、アリステリア・ディ・レグニッツの名は、すでに伝説と化し始めていた。


そして彼女は、そんな噂が広まっているとも知らずに――


「辺境でも、良い茶葉が手に入りますように……」


そんなことだけを願いながら、眠りについた。



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