翌朝、王宮からの使者がレグニッツ公爵邸を訪れたのは、朝日が差し込むちょうど朝食の時間だった。
アリステリア・ディ・レグニッツは、白い絹のガウンを羽織りながら、優雅に紅茶を口にしていた。
「お嬢様。王宮より使者が……」
侍女の声に、アリステリアはゆっくりと目を上げる。
そして、応接間に現れたのは、顔色の悪い若い男――平民出の新米官吏と見える。
その男は震える手で巻物を差し出した。
「ア、アリステリア・ディ・レグニッツ様に、王命をお伝え申し上げます……!」
「どうぞ。大きな声で」
アリステリアはにっこりと笑った。
だがその笑顔が逆に、使者を怯えさせる。
彼はごくりと喉を鳴らし、意を決して言い放った。
「……本日をもって、アリステリア様には――王都からの“追放”を申しつけます!」
「――追放、ですか?」
その一言を口にしたアリステリアの笑みが、ふわりと消える。
使者の顔が一気に青ざめる。
「お、お怒りでしょうか……!? も、申し訳ありません、私もただの使いでして……!」
アリステリアは立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
「王都追放、ですの?」
「……はいっ……!」
「王太子を殴りとばしたのですから、その程度で済んだのが奇跡というべきかと……」
返答の途中で、使者はふと、アリステリアの右手に目をとめた。
「……な、なぜ、後ずさりますの?」
「……い、いえ……その……」
アリステリアの右手には、一本の漆黒のウイップが、指先でくるくると巻き取られていた。
「なぜウイップを手に?」
「……拳で殴ると、手が痛いですから」
「……」
間を置いて、使者が数歩、後ずさる音がした。
「……誤解ですわ。これは単なる護身用。趣味ではありませんの」
「は、はは……そ、そうでございますか……!」
顔を引きつらせながら頭を下げる使者に、アリステリアはふたたびにこやかな笑顔を向けた。
「お伝えくださって、ありがとう存じます。……王都からの追放、承知いたしましたわ。お帰りの際は、お茶でもお持ち帰りになって」
「い、いえっ! 結構です!!」
使者はほとんど逃げるように部屋を後にした。
「……何か、失礼なことをしたかしら」
静かに閉まった扉を見つめながら、アリステリアは首をかしげる。
ウイップを手にしていたのは、右拳の腫れが未だに治らず、今後の“応急処置”として考えた末の手段だった。
(あれほど無様に腫れるとは思いませんでしたわ……)
そっと手袋を試してみたが、やはり指が通らない。
アリステリアは諦めて、紅茶をもう一口飲んだ。
「次に顔を出すクソがいたら、もう手は使いませんわね……」
そうつぶやいて、テーブルにそっとウイップを置いた。
決して嗜好ではない。誤解である。
本当に、まったくの誤解である。
荷造りは静かに行われた。
公爵家も、王命に逆らう形で騒ぎを大きくする気はなかったのだろう。
父は「一時のことだ。すぐ戻れるようにしておく」と言い、母は「……王族の血筋も、最近は軽くなってきたのね」とだけ告げた。
(まあ、今さらこの家に義理はありませんわ)
アリステリアは、手早く必要な荷物をまとめ、最後に“例の鞭”を専用の鞄に丁寧にしまい込んだ。
あくまで、護身用。くどいようだが、嗜好ではない。
馬車が王都を離れるとき、誰も見送る者はいなかった。
けれど彼女は、少しも寂しそうな素振りを見せなかった。
「……静かなところなら、それで十分ですわ」
呟いて、揺れる窓の外に目をやる。
騎士団の誰かが王太子の顎の骨が折れたと言っていた。
それを聞いても、アリステリアは何も感じなかった。
(……むしろ、よく我慢しましたわ、私)
そして手に残った痛みが、静かに、今後の自衛手段を思わせる。
「……拳は封印。次は、正しく理性的に対処いたしましょう」
その隣で、革の鞄が揺れていた。
その中で、“決して趣味ではない”一本の鞭が、静かに眠っていた。
その夜、王都の噂は止まなかった。
「ねえ聞いた? あの公爵令嬢、拳が痛いからって、鞭を持ち歩いてるらしいわよ」
「こわっ! 趣味じゃないって言ってたらしいけど、それが一番怖いよね」
「なんかもう、“静かなる調教姫”って呼ばれてるんだけど!?」
「殿下の顔、まだ腫れてるって。目、開かないらしいわよ」
本人の知らないところで、アリステリア・ディ・レグニッツの名は、すでに伝説と化し始めていた。
そして彼女は、そんな噂が広まっているとも知らずに――
「辺境でも、良い茶葉が手に入りますように……」
そんなことだけを願いながら、眠りについた。
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