「……揺れすぎですわね」
アリステリア・ディ・レグニッツは、馬車の座席で肩を抱きながらつぶやいた。
車輪が跳ねるたびに天井に頭をぶつけそうになる。道などあってないようなもので、馬車の外はぬかるんだ山道が延々と続いていた。
「アリステリア様、まもなく村が見えてまいります」
前方からエルヴィンの声がした。
「そう。石畳の気配が消えてからもう三時間。人の文明というのは、存外もろいものですわね……」
窓の外には、開けた丘と森の間に、小さな集落がぽつりぽつりと現れ始めていた。
石造りではない。ほとんどが木と藁葺きの建物で、雨よけの板もところどころ剥がれかけている。
(……まあ、望んで来た場所ではありませんもの。期待してはいけませんわね)
馬車が村の中央広場に停まると、物陰から人々が様子をうかがうように出てきた。
「……ほんとに来た……“処刑人の姫”が……」
「ウイップ持ってるって噂はマジだったんだ……」
「いや、目を合わせるな、目を合わせるな……!」
(ああ、またですの)
アリステリアは心の中で肩を落とす。
どうやら王都で広まった“調教姫”の噂は、この国境の村にも届いていたらしい。
事実、彼女の腰には細く巻いた革のウイップが収まっていた。
ただしそれは、“拳だと手が痛いから”という非常に実務的な理由によるものであり、嗜好では断じてない。
にもかかわらず――
「……なぜか、村人の目が怯えてますわね」
「アリステリア様。背中が“執行官”にしか見えません」
従者エルヴィンが耳打ちする。
「礼儀正しい態度で接していただけるなら、私は鞭を使いませんわ」
「それが一番怖い台詞です、アリステリア様……」
住まいとして用意されたのは、村の外れの丘にぽつんと建つ古びた洋館だった。
ツタが絡まり、門扉は錆びて音を立て、扉は少し傾いている。
「……いいですね」
アリステリアはため息混じりに呟いた。
「えっ……いいんですか?」
「人里から離れていて、静か。これ以上の環境があるかしら?」
「……そ、そうですね……確かにそうかも……?」
館の内部は想像以上にましだった。
埃はあったが、家具は古くとも堅牢で、屋根は抜けておらず、広さも十分。
従者たちはすぐに清掃を始め、使用人のひとりが井戸のある裏庭に出た。
「水は、問題なさそうですね。手漕ぎポンプも、動作します」
「ありがたいことですわ」
アリステリアは、メイドのマルゴに告げる。
「朝になったら、水を汲んでおいてください。茶葉が湿気ると味が落ちますから」
「承知しました、お嬢様」
ポンプは少し錆びついていたが、油を差せばまだ動く。
ガコン、ガコンとレバーを上下する音が、館の静寂を破る唯一の音になった。
やがてバケツに透明な水が注がれ、マルゴがそれを抱えて館に戻ってくる。
アリステリアはその水で紅茶を淹れさせ、香りを確かめてから口に含んだ。
「……合格ですわね」
やわらかなミントと花の香りが広がる。
――静寂と、茶と、本。
これで十分。
王都の陰湿な空気も、王子の顔も、聖女の笑顔も、すべて忘れられる。
「ようやく……静かに暮らせそうですわ」
アリステリアがそう呟いたのは、紅茶の湯気がふわりと揺れたちょうどそのときだった。
だが、村の様子はざわめき始めていた。
「……やっぱり噂どおりだったな。笑ってた」
「誰か今日、怒らせたか? いや、まだ誰も接触してないだろ?」
「……じゃあ、自己内発怒り……?」
(怒ってませんわ)
もちろん、アリステリアにその心当たりはない。
ただ紅茶が美味しかっただけである。
「広場で焚き火があれば、外で飲むのも一興かしら?」
アリステリアはぽつりとつぶやいた。
が、それが耳に入った村人たちは震え上がった。
「外でって……公開処刑!?」
「“焚き火”って、つまり火炙りのこと!?」
アリステリアの静かな生活は、誤解と偏見のなかで、着々と広まり始めていた。
その日の夜、村の集会では“お館様”――すなわちアリステリアの機嫌を損ねないための接触距離マニュアルが作成された。
・直視禁止
・距離は十メートル以上
・ウイップが見えたら退避
・お茶の香りがしたら全力で逃げる
(静かに暮らすって、なんて難しいのでしょう……)
その夜も、アリステリアはひとり、バルコニーで夜風を浴びながら紅茶をすする。
静かな星空。
紅茶の香り。
誰も話しかけてこない。
(完璧ですわ)
……だがその背後で、木陰に隠れる村人たちが、そっと祈る声を上げていた。
「神よ、明日も無事でありますように……!」
そしてこの誤解が、明日の“魔物事件”に繋がるとも知らずに。