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第6話 紅茶と魔物退治

「アリステリア様、そろそろ朝のお茶の時間でございます」


メイドのマルゴの柔らかい声に、アリステリア・ディ・レグニッツは静かに目を開けた。


ここは辺境の村のはずれにある丘の上の館。

王都を追放されて以来、彼女はここで“静寂なる余生”を目指して暮らしている。


「ええ、お願いするわ。今日はアールグレイにいたしましょう」


「承知しました。水は朝のうちに汲んでおります。ポンプも少し油を足しておきました」


「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に助かるわ」


やや乱暴に村へ放り出された格好だったが、必要最低限の使用人と従者は同伴を許されていた。マルゴはその中でも特に信頼のおける者で、彼女の紅茶担当として今日も絶賛活躍中である。


アリステリアは白いレースのローブに身を包み、窓辺の椅子に腰を下ろした。


静かに風が吹き抜け、朝の陽光がティーカップに差し込む。


――この時間のために生きているといっても過言ではない。


「平和、ですわね……」


そうつぶやいた瞬間だった。


「アリステリア様ぁっ!!」


遠くから、騒がしく足音が響いた。広場のほうから、従者のエルヴィンが飛び込んできた。


「アリステリア様、たいへんです! 村の外れに、魔物が!」


「……またですの?」


「えっ、“また”というほどの頻度では……」


「前世でも聞き飽きたセリフですわね……ああ、違いました。今世ですわ」


紅茶をすすりかけていた口を拭い、アリステリアはゆるやかに立ち上がった。


「魔物の種類は?」


「巨大な牙を持つ“岩犬”とのこと。村人が畑で遭遇しまして……今は村の子どもが一人、逃げ遅れて……!」


「……結論から申し上げると、それを助けなければ私は静かにお茶が飲めない、ということですのね?」


「ま、まあ、そうなります」


「……」


アリステリアは無言のまま部屋の奥に向かい、鞄から例の道具を取り出す。


細く巻かれた革の鞭。光沢としなりに優れ、遠心力による一撃は鈍器にも匹敵する。


もちろん、それは趣味ではない。


「行きましょう。誰も死なないうちに、片付けてしまいますわ」



村の外れ、荒れた畑のあたり。


大人たちが集まって距離を取るなか、地面に転がる子どもに、岩のような皮膚を持つ魔物――岩犬が唸り声を上げていた。


「セラ! 逃げろ、セラ!!」


「足が……動かないの……!」


「どうすれば……!」


絶望の空気が支配するなか、突如として誰かの声が響いた。


「そこまでですわ」


風を切る音と共に現れたのは、漆黒のドレスを纏ったアリステリア。


腰には革鞭、足取りは音もなく、冷たい視線で魔物を見下ろしていた。


「静寂を乱す輩は、私が許しません」


一瞬、魔物の黄色い目が彼女をとらえ、警戒するように唸る。


次の瞬間――


「やっ」


アリステリアの手が動いた。


シュパンッ!!!


音が空気を裂く。


しなやかな鞭がまるで生き物のようにしなり、魔物の鼻先を正確に打ち抜いた。


「ぎゃうぅっ!?」


一発。


たった一撃で、魔物は尻尾を巻いて逃げ出した。


「お、おい、逃げたぞ……!?」


「ひ、ひと睨みで……いや、鞭一発で……!」


「ま、魔法も使ってない……」


「やっぱりあの人、本物の処刑令嬢なんだ……!」


ざわめきが広がる中、アリステリアは驚いた顔で助け出された子どもに手を差し伸べる。


「大丈夫ですか?」


「……うん。ありがとう、お姉さま……!」


「お姉さま。……あら、珍しい呼び方ですわね。気に入りましたわ」


満足そうに頷きながら、アリステリアは館へと踵を返した。



その日の夕方。


村の酒場では、前代未聞の“英雄談”が生まれていた。


「ウイップ一本で魔物を退けたって!?」


「いや、目を合わせた瞬間、魔物がひれ伏したとか!」


「“静寂の守護者”って呼ばれてるんだろ?」


「名前で呼んだら目を潰されるって聞いたけど」


「ちょっと、話が盛られすぎでは……?」


そんな中、本人は。


「……ようやく静かに飲めますわね」


紅茶をすすりながら、館のバルコニーで夕暮れを見下ろしていた。


誰も話しかけてこない。誰も近づいてこない。


(完璧ですわ)


と、満足げに目を閉じたそのとき。


「……“静寂の守護者”様! 今日も護ってくださりありがとうございます!」


村人の叫び声が届いた。


「……名付けないでいただけます?」


思わずつぶやいたその声は、やはり誰にも届かない。


“静寂”とは、何と騒がしいものか――。


アリステリアはため息と共に、冷めかけた紅茶を飲み干した。



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