「アリステリア様、そろそろ朝のお茶の時間でございます」
メイドのマルゴの柔らかい声に、アリステリア・ディ・レグニッツは静かに目を開けた。
ここは辺境の村のはずれにある丘の上の館。
王都を追放されて以来、彼女はここで“静寂なる余生”を目指して暮らしている。
「ええ、お願いするわ。今日はアールグレイにいたしましょう」
「承知しました。水は朝のうちに汲んでおります。ポンプも少し油を足しておきました」
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に助かるわ」
やや乱暴に村へ放り出された格好だったが、必要最低限の使用人と従者は同伴を許されていた。マルゴはその中でも特に信頼のおける者で、彼女の紅茶担当として今日も絶賛活躍中である。
アリステリアは白いレースのローブに身を包み、窓辺の椅子に腰を下ろした。
静かに風が吹き抜け、朝の陽光がティーカップに差し込む。
――この時間のために生きているといっても過言ではない。
「平和、ですわね……」
そうつぶやいた瞬間だった。
「アリステリア様ぁっ!!」
遠くから、騒がしく足音が響いた。広場のほうから、従者のエルヴィンが飛び込んできた。
「アリステリア様、たいへんです! 村の外れに、魔物が!」
「……またですの?」
「えっ、“また”というほどの頻度では……」
「前世でも聞き飽きたセリフですわね……ああ、違いました。今世ですわ」
紅茶をすすりかけていた口を拭い、アリステリアはゆるやかに立ち上がった。
「魔物の種類は?」
「巨大な牙を持つ“岩犬”とのこと。村人が畑で遭遇しまして……今は村の子どもが一人、逃げ遅れて……!」
「……結論から申し上げると、それを助けなければ私は静かにお茶が飲めない、ということですのね?」
「ま、まあ、そうなります」
「……」
アリステリアは無言のまま部屋の奥に向かい、鞄から例の道具を取り出す。
細く巻かれた革の鞭。光沢としなりに優れ、遠心力による一撃は鈍器にも匹敵する。
もちろん、それは趣味ではない。
「行きましょう。誰も死なないうちに、片付けてしまいますわ」
村の外れ、荒れた畑のあたり。
大人たちが集まって距離を取るなか、地面に転がる子どもに、岩のような皮膚を持つ魔物――岩犬が唸り声を上げていた。
「セラ! 逃げろ、セラ!!」
「足が……動かないの……!」
「どうすれば……!」
絶望の空気が支配するなか、突如として誰かの声が響いた。
「そこまでですわ」
風を切る音と共に現れたのは、漆黒のドレスを纏ったアリステリア。
腰には革鞭、足取りは音もなく、冷たい視線で魔物を見下ろしていた。
「静寂を乱す輩は、私が許しません」
一瞬、魔物の黄色い目が彼女をとらえ、警戒するように唸る。
次の瞬間――
「やっ」
アリステリアの手が動いた。
シュパンッ!!!
音が空気を裂く。
しなやかな鞭がまるで生き物のようにしなり、魔物の鼻先を正確に打ち抜いた。
「ぎゃうぅっ!?」
一発。
たった一撃で、魔物は尻尾を巻いて逃げ出した。
「お、おい、逃げたぞ……!?」
「ひ、ひと睨みで……いや、鞭一発で……!」
「ま、魔法も使ってない……」
「やっぱりあの人、本物の処刑令嬢なんだ……!」
ざわめきが広がる中、アリステリアは驚いた顔で助け出された子どもに手を差し伸べる。
「大丈夫ですか?」
「……うん。ありがとう、お姉さま……!」
「お姉さま。……あら、珍しい呼び方ですわね。気に入りましたわ」
満足そうに頷きながら、アリステリアは館へと踵を返した。
その日の夕方。
村の酒場では、前代未聞の“英雄談”が生まれていた。
「ウイップ一本で魔物を退けたって!?」
「いや、目を合わせた瞬間、魔物がひれ伏したとか!」
「“静寂の守護者”って呼ばれてるんだろ?」
「名前で呼んだら目を潰されるって聞いたけど」
「ちょっと、話が盛られすぎでは……?」
そんな中、本人は。
「……ようやく静かに飲めますわね」
紅茶をすすりながら、館のバルコニーで夕暮れを見下ろしていた。
誰も話しかけてこない。誰も近づいてこない。
(完璧ですわ)
と、満足げに目を閉じたそのとき。
「……“静寂の守護者”様! 今日も護ってくださりありがとうございます!」
村人の叫び声が届いた。
「……名付けないでいただけます?」
思わずつぶやいたその声は、やはり誰にも届かない。
“静寂”とは、何と騒がしいものか――。
アリステリアはため息と共に、冷めかけた紅茶を飲み干した。
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