ある静かな午後。
村の子供たちの笑い声が遠くで聞こえ、紅茶の香りが静かに揺れていた。
アリステリア・ディ・レグニッツは、館のバルコニーでティーカップを片手に本を読んでいた。
これこそが、彼女が夢見ていた“追放生活”の理想形である。
だが――
「アリステリア様、大変です!」
従者エルヴィンが勢いよくバルコニーに駆け込んできた。
「……また魔物ですの?」
「いえっ、魔物ではなく、人間です!」
「人間……?」
「“あの方”が、正門におられます!」
「……“あの方”?」
心当たりがありすぎて、特定できない。
しかしその予感はすぐに現実となった。
「アリステリア様ぁっ!」
甲高い、よく通る声。
丘を登ってくるその姿に、アリステリアはそっとティーカップを置いた。
白のローブを翻し、無駄に美しく駆け寄ってくる少女。
栗色の髪に、礼儀正しすぎる笑顔。
まぎれもなく――
「……聖女、ミレイユですわね」
「ご無沙汰しております……!」
息を切らせ、ミレイユはアリステリアの前に膝をついた。
「どうか、どうか……お傍に、仕えさせてくださいませ!」
「……は?」
ミレイユは涙ながらに語った。
曰く、王太子レオナードの“真実の愛”は長くは続かなかった。
曰く、政敵の讒言により聖女の地位は揺らぎ、王都での居場所を失った。
曰く、「今でも私が本当に憧れているのはアリステリア様ただ一人なのです」と。
「どうしてここが分かりましたの?」
「いえ、どこへ行かれても必ず辿り着くと信じておりました。愛の導きです♡」
「……怖いですわ」
アリステリアは無表情のまま答えた。
この女は、何かがおかしい。
そう思ったのは、舞踏会の夜からずっとだった。
ただの“完璧すぎる”聖女ならまだよかった。だが、その笑顔の奥に、明らかに狂気があった。
(……しかし)
「それほどまでに言うのなら」
アリステリアは紅茶をすすりながら、ぼそりとつぶやいた。
「紅茶が淹れられるなら、しばらく置いてあげてもよろしくてよ」
結論から言おう。
ミレイユは、異様なまでに有能だった。
清掃、洗濯、食事の準備から屋根の修理まで、誰よりも早く、誰よりも丁寧にこなす。
使用人たちがやろうとするより先にすべて済んでおり、朝は夜明け前に起きて玄関前で正座していた。
そして常に、アリステリアの半径五メートル以内にいる。
「……気配がなさすぎて、気づいたら真後ろにいて心臓が止まりそうになりますわ」
「失礼しました。気配を消す訓練を日課にしておりまして……♡」
「なぜそんな訓練を?」
「“いざというとき、女王様のお部屋に静かに忍び込めるように”です♡」
「やっぱり変態でしたわね……」
鞭を取るほどではないが、背筋がうすら寒くなる。
それでもアリステリアは彼女を追い出さなかった。
理由は簡単だった。
――紅茶の味が、完璧すぎるほど美味しかったのだ。
その日も、午後の紅茶をバルコニーで楽しんでいた。
メイドのマルゴが「お嬢様、これ以上“人間らしさ”を失わないでください」と嘆くほどに、ミレイユは館内の全業務を一人でこなしていた。
「……なにか、間違っている気がしますわね」
「何かと申しますと?」
「いえ。紅茶に添えられている焼き菓子が、王宮時代よりも上質な気がしますの」
「素材から畑を開墾して育てましたので」
「えっ、畑なんてありましたの?」
「作りました♡」
アリステリアはティーカップを静かに置いた。
「……あなた、王太子を影で操るより、私をお世話するほうが適職だったのでは?」
「光栄です……。私はずっと、アリステリア様の忠実な犬でありたかったのです」
「犬、とは?」
「噛みません、吠えません、命令があれば寝床に這って伺います」
「だから、そういう忠誠心の表し方が怖いのですわ……!」
その夜。
アリステリアは静かにバルコニーに立ち、星空を見上げていた。
「ようやく静かに暮らせると思ったのに……」
足音ひとつなく、ミレイユが隣に立っていた。
「夜風が冷えます。お上着を」
「……ありがとう」
手渡されたケープを肩にかけ、アリステリアは静かに息をついた。
「でもまあ……賑やかな変態よりは、静かな変態のほうがマシかしら」
「お褒めいただき、光栄です♡」
「褒めてませんわ!」
それでも、少しだけ口元をゆるめて、ティーカップを掲げる。
「せめて静寂を守ってくださるのなら、今しばらくそばにいてもよろしくてよ」
「アリステリア様……永遠に、ですわね?」
「……永遠じゃなくて結構ですわよ」
このときアリステリアはまだ知らなかった。
──ミレイユが、次の“忠誠”を証明するために、どこかに魔王宛ての手紙を出していたことを。
彼女の“忠誠心”は、予測不可能な方向へ膨らみつつあった。