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第8話 変わらぬ静寂、変わり始めた日常

「朝の紅茶、お持ちいたしました」


聖女だったはずのミレイユが、早朝の館に音もなく現れた。


「もう、朝ですの?」


アリステリア・ディ・レグニッツは、シルクのナイトガウンを肩にかけながら起き上がる。

白磁のティーカップに注がれたアッサムの香りが、寝起きの頭にじんわりと染み込んでいく。


「本日の茶葉は“朝霧アッサム”をベースに、ラベンダーをほんの少し。安眠効果を妨げない香りに調整いたしました」


「……ありがとう。相変わらずの気配りですわね」


だが、褒めた途端、ミレイユが両手を胸の前で組み、うるんだ瞳でうっとりと見つめてきた。


「アリステリア様にお仕えできることこそが、わたくしの人生の至福です……♡」


「……感謝の表現が重いですわ」


それでもアリステリアは、ミレイユを屋敷に置いている。

理由はただ一つ、あまりにも有能すぎるからだ。


料理、洗濯、掃除、さらには庭仕事から帳簿の整理まで、彼女にできないことは存在しない。

そのうえ、朝の紅茶のクオリティは、王都時代をはるかに凌駕していた。


──ただし、近寄りすぎると目が死ぬ。


それがミレイユという女である。



そんな平穏な朝が続くかと思われたある日、館の門前に村の若者が駆け込んできた。


「ア、アリステリア様っ、大変ですっ!」


「……また魔物ですの?」


アリステリアは軽く眉をひそめる。


「い、いえ、魔物は最近出ていません。ですが……村の外れに、不審な影が……!」


「……不審者?」


「いえ、たぶん、魔王軍の偵察兵です……!」


その場の空気がぴんと張り詰める。


アリステリアはゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺めた。


「……ようやく、平穏が定着してきたと思っていたのですけれど」


「でもご安心ください! 村人たちは、“静寂の守護者”がいれば大丈夫だって……!」


「……その呼び方、やめていただきたいのですけど」


すでに村では、「アリステリア様が一睨みすれば魔物も溶ける」「鞭一閃で雷鳴が走る」「あれが本物の神の代行者」など、過激な伝説が一人歩きしていた。


(私はただ、静かに紅茶を楽しみたいだけなのですけど……)



その日の夕刻。


アリステリアは、いつものように館の裏庭でミレイユが焼いたスコーンをつまみながら紅茶をすすっていた。


「お嬢様、本日のお茶菓子はクロテッドクリームを添えたオレンジピールのスコーンにございます」


「ええ。絶妙な甘さとほろ苦さ。バランスが取れていますわ」


褒めるとミレイユがほわっと笑みを浮かべ、うっすら涙ぐむ。


「もう、幸せすぎてどうにかなってしまいそう……♡」


「くれぐれも“どうにか”ならないでくださいませね?」


アリステリアは静かに紅茶を口にした。


だがその瞬間、視界の端に何かがよぎった。


村の木立の向こう、ほんの一瞬だが――明らかに人間ではない“影”が、木の上から彼女を見下ろしていたような気がした。


「……」


「アリステリア様? どうなさいました?」


「いえ……風が、少し冷たくなった気がしただけですわ」


目を細め、視線を逸らす。


まるで“気づいている”ことを悟らせないように。



その夜。村の広場では人々がそっと集まり、話し合いをしていた。


「やっぱり、アリステリア様に護ってもらおう」

「そうだな、“静寂の守護者”は、すべてを見通す眼を持っているらしい」

「魔王軍なんて、アリステリア様の前ではただの藁人形よ」


「“魔王すら折伏する女帝”って書いてあった書簡も出回ってるしな」


「それ、どこ情報?」


「ミレイユ様が手配してくれた写本に載ってた」


(……ミレイユ、お前か)


アリステリアは自室の窓から、広場の様子を静かに見下ろしていた。


すでに王都にいた頃よりも大きな影響力を持ち始めていることに、彼女自身が最も戸惑っていた。


「静かに……ただ、静かに過ごしたかったのですけれど」


カップを口に運びながら、ぽつりとつぶやく。


その手元の紅茶は――今日も完璧な温度と香りだった。



翌朝。


「アリステリア様。おはようございます」


ミレイユが目を輝かせてドアを開けてくる。


「今朝は、館の周囲を三重に結界を張りました! 誰にも近づかせません!」


「……そういうのは、むしろ閉じ込められてる気分になりますわね」


「それもまた至福の調教♡」


「その単語を軽々しく使わないでいただけます?」


平穏な館の朝は、今日も静かに――けれど確実に、常識からずれていく。


そしてアリステリアの小さな願い、「静かに暮らしたい」という希望は、じわじわと現実から引き離されつつあった。


「静かに過ごしたいだけですのに……」


そんな彼女の嘆きは、今や村の子どもたちに「神の祈り」として暗唱されていたという。


誰がそれを広めたのか?

――言うまでもない。館の中に住む、忠実すぎる“元聖女”である。






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