「朝の紅茶、お持ちいたしました」
聖女だったはずのミレイユが、早朝の館に音もなく現れた。
「もう、朝ですの?」
アリステリア・ディ・レグニッツは、シルクのナイトガウンを肩にかけながら起き上がる。
白磁のティーカップに注がれたアッサムの香りが、寝起きの頭にじんわりと染み込んでいく。
「本日の茶葉は“朝霧アッサム”をベースに、ラベンダーをほんの少し。安眠効果を妨げない香りに調整いたしました」
「……ありがとう。相変わらずの気配りですわね」
だが、褒めた途端、ミレイユが両手を胸の前で組み、うるんだ瞳でうっとりと見つめてきた。
「アリステリア様にお仕えできることこそが、わたくしの人生の至福です……♡」
「……感謝の表現が重いですわ」
それでもアリステリアは、ミレイユを屋敷に置いている。
理由はただ一つ、あまりにも有能すぎるからだ。
料理、洗濯、掃除、さらには庭仕事から帳簿の整理まで、彼女にできないことは存在しない。
そのうえ、朝の紅茶のクオリティは、王都時代をはるかに凌駕していた。
──ただし、近寄りすぎると目が死ぬ。
それがミレイユという女である。
そんな平穏な朝が続くかと思われたある日、館の門前に村の若者が駆け込んできた。
「ア、アリステリア様っ、大変ですっ!」
「……また魔物ですの?」
アリステリアは軽く眉をひそめる。
「い、いえ、魔物は最近出ていません。ですが……村の外れに、不審な影が……!」
「……不審者?」
「いえ、たぶん、魔王軍の偵察兵です……!」
その場の空気がぴんと張り詰める。
アリステリアはゆっくりと立ち上がり、窓の外を眺めた。
「……ようやく、平穏が定着してきたと思っていたのですけれど」
「でもご安心ください! 村人たちは、“静寂の守護者”がいれば大丈夫だって……!」
「……その呼び方、やめていただきたいのですけど」
すでに村では、「アリステリア様が一睨みすれば魔物も溶ける」「鞭一閃で雷鳴が走る」「あれが本物の神の代行者」など、過激な伝説が一人歩きしていた。
(私はただ、静かに紅茶を楽しみたいだけなのですけど……)
その日の夕刻。
アリステリアは、いつものように館の裏庭でミレイユが焼いたスコーンをつまみながら紅茶をすすっていた。
「お嬢様、本日のお茶菓子はクロテッドクリームを添えたオレンジピールのスコーンにございます」
「ええ。絶妙な甘さとほろ苦さ。バランスが取れていますわ」
褒めるとミレイユがほわっと笑みを浮かべ、うっすら涙ぐむ。
「もう、幸せすぎてどうにかなってしまいそう……♡」
「くれぐれも“どうにか”ならないでくださいませね?」
アリステリアは静かに紅茶を口にした。
だがその瞬間、視界の端に何かがよぎった。
村の木立の向こう、ほんの一瞬だが――明らかに人間ではない“影”が、木の上から彼女を見下ろしていたような気がした。
「……」
「アリステリア様? どうなさいました?」
「いえ……風が、少し冷たくなった気がしただけですわ」
目を細め、視線を逸らす。
まるで“気づいている”ことを悟らせないように。
その夜。村の広場では人々がそっと集まり、話し合いをしていた。
「やっぱり、アリステリア様に護ってもらおう」
「そうだな、“静寂の守護者”は、すべてを見通す眼を持っているらしい」
「魔王軍なんて、アリステリア様の前ではただの藁人形よ」
「“魔王すら折伏する女帝”って書いてあった書簡も出回ってるしな」
「それ、どこ情報?」
「ミレイユ様が手配してくれた写本に載ってた」
(……ミレイユ、お前か)
アリステリアは自室の窓から、広場の様子を静かに見下ろしていた。
すでに王都にいた頃よりも大きな影響力を持ち始めていることに、彼女自身が最も戸惑っていた。
「静かに……ただ、静かに過ごしたかったのですけれど」
カップを口に運びながら、ぽつりとつぶやく。
その手元の紅茶は――今日も完璧な温度と香りだった。
翌朝。
「アリステリア様。おはようございます」
ミレイユが目を輝かせてドアを開けてくる。
「今朝は、館の周囲を三重に結界を張りました! 誰にも近づかせません!」
「……そういうのは、むしろ閉じ込められてる気分になりますわね」
「それもまた至福の調教♡」
「その単語を軽々しく使わないでいただけます?」
平穏な館の朝は、今日も静かに――けれど確実に、常識からずれていく。
そしてアリステリアの小さな願い、「静かに暮らしたい」という希望は、じわじわと現実から引き離されつつあった。
「静かに過ごしたいだけですのに……」
そんな彼女の嘆きは、今や村の子どもたちに「神の祈り」として暗唱されていたという。
誰がそれを広めたのか?
――言うまでもない。館の中に住む、忠実すぎる“元聖女”である。