「……本当なのか? 魔王軍が動き出した、だと?」
重苦しい空気が王宮会議の間を支配していた。
国境沿いの前哨基地から急報が入り、魔王軍が大規模な侵攻を開始したとのことだった。使者は息を切らしながら、巻物を差し出す。
「確かに、各地の監視塔からの狼煙も確認されております。殿下、これは正式な侵攻と見て間違いございません」
「ふぅん……それで? 俺にどうしろと?」
玉座に座るレオナード第一王子は、あくび混じりにそう返した。
「ど、どうするかをお決めいただくのが、殿下の役目かと……!」
「バカを言うな。そういうのは将軍たちの仕事だろう? なんで俺がわざわざ指図しなきゃいけない?」
側近たちは顔を見合わせた。レオナードの無能ぶりは今に始まったことではないが、ここに至っても他人事とは。
「それより、お前たち、聖女はどうした? こういうときのためにいるんだろ?」
「……あの、聖女ミレイユ様は……現在、行方不明でして……」
「は? 聖女が? 行方不明? この非常時に? どういうことだ!」
「実は、殿下が婚約を破棄された後、神殿を出奔し、それきり……」
「婚約破棄がショックだったんじゃないかという噂も……」
「なにぃ!? 俺のせいってのか!? おい貴様! 今、俺のせいって言ったな!? 公然と俺を侮辱したな!?」
「と、とんでもございませんっ!」
レオナードは椅子を蹴り飛ばし、床に落ちた杯を踏みつけた。だが、周囲の者たちはもはや驚かない。日常の風景だった。
「ほんと、ろくな女じゃないな。少し注意しただけで拗ねて消えるとか……まったく、女は感情的で困る」
「……(注意……? 公衆の面前で平手打ちしたことを“注意”と表現するのか……)」
「じゃあアリステリアは? あいつ、昔はちょっと強気だったけど、身体張るくらいの根性はあっただろ? 兵でも動かせば一矢くらい報いてくれるかもしれん」
「アリステリア様も、殿下が婚約破棄されて以降、王都から姿を消しております……」
「……ふざけるな……! 俺の婚約者が二人ともいなくなるとか、どういう嫌がらせだよ!? これは俺の陰謀か!? 策謀か!? はめられてるのか!?」
「……」
側近たちは沈黙することしかできなかった。彼が言えば言うほど、無能さと責任逃れが露呈していく。
「それで結局、俺のせいってことだろ? 国を滅ぼすのはこの俺ってことか!? ああ!? そう言いたいのかお前らは!?」
「決してそのようなことは……!」
「クソが! こうなったら国民に戦わせろ! 勝手に戦え! 俺は王子様だ、最前線なんか行かんからな!」
「(……陛下、ご存命であれば……)」
誰かが胸の中でそう嘆いた。
このとき、国境の村に魔王軍の先遣隊が近づいているなど、レオナードは知る由もない。
そしてその村に、今まさに“伝説の鞭”を持つ一人の公爵令嬢が、静かに紅茶をすすっていることも──。