「パトリック様! ようこそお越しくださいました!」
私は、パトリック様が屋敷に到着したと聞いて、急いで玄関へ迎えに走った。
玄関の扉を開くと、そこにはいつも通り仏頂面のパトリックが立っていた。
乙女ゲームの知識を辿ると、この時のパトリックは婚約者としての義務感だけで私に会いに来ていたらしい。
「やあ、ナタリー。会えて嬉しいよ」
「ええ、私もですわ」
心のこもっていない挨拶に笑顔で返し、私はパトリックを屋敷の中へと案内した。
「ふぐうっ!?」
が、パトリックは屋敷の中に入るやいなや、思いっきり顔をしかめて、両手で鼻を押さえた。
パトリックの付き人も同様、鼻を押さえこそしなかったが、顔がみるみる青くなっていった。
「ナタリー。なんだか、妙な匂いがしないか?」
さすがはパトリックだ。
頭がいいだけでなく、嗅覚もすさまじい。
調理場から遠く離れた玄関で、クッキーの匂いを嗅ぎ取ってしまうとは。
でも、手作りお菓子はサプライズをするからこそ効果が増すのだ。
私はあえて、気づかないふりをした。
「えー、そうですか?」
「ああ。なんだか、スラム街の近くを通った時のような匂いが」
「え!?」
スラム街には行ったことがないが、きっと前世で見た屋台がずらりと並ぶ通りみたいな場所だろう。
やたら味の濃い焼き鳥や焼きトウモロコシが売られていて、左右から色んな匂いがしていたことを覚えている。
驚いた。
まさかクッキーの匂いだけでなく、隠し味に入れた焼き鳥の匂いまで嗅ぎ当ててくるとは。
ナタリーの記憶を思い返せば、私が香水を変えた時、パトリックはいつも気がついてくれていた。
さっきからずっと手で鼻を覆っているのは、その高すぎる嗅覚故、普通の匂いも刺激になってしまうからなのだろう。
このままでは嗅覚だけでサプライズがバレてしまうと思い、私は未だに顔を顰めるパトリックの腕を掴んで、強引にダイニングへと引っ張った。
「お、おい!」
「パトリック様! 急いでください!」
ダイニングに近づくと、パトリックの顔は一層険しくなっていく。
廊下には具合が悪そうな表情の守衛たちが立ち、ダイニングの扉の前に立っていたはずの守衛は姿を消していた。
丁度、交代時間だったのだろうか。
パトリックに、守衛がいないなんて不用心な家だmなんて思われてなければいいが。
私は扉のノブを掴み、笑顔でパトリックの方を見た。
パトリックはと言うと、顔色が真っ青になっていた。
パトリックの仕事はデスクワークが多く、普段の運動量が少ない。
そんなパトリックを強引に引っ張って走らせたから、疲れさせてしまったのだろう。
ならばなおさら、美味しい物を食べて元気を出していただかなくてはならない。
「ナ、ナタリー? この匂いは……いったい?」
「ふふふ。ご覧ください、パトリック様! サプラーイズ!」
私は、一気にダイニングの扉を開いた。
ダイニングからは緑色の煙がもくもくと湧き出してきて、廊下に立つ私たちを包み込む。
あら、こんなスモッグ演出は知らないわ。
もしかしたら、フランかシェフが、気を利かせて用意してくれたのかもしれない。
後から、お礼を言わなくちゃ。
緑色の煙が晴れると、そこに広がるのは広いダイニング。
テーブルの上には、私の作った特製クッキーが積み上がっている。
そしてテーブルの周りでは、フランとシェフが仲良く横になっていた。
「まあ! こんなところで眠るなんて、はしたないわよ二人とも! せっかくパトリック様がいらしてくださったのに」
とはいえ、二人とも突然私のクッキーづくりに付き合わせてしまったのだ。
疲労が溜まったとしたら、それは私の責任だ。
クッキーを試食した程度では、疲れもとれなかったらしい。
私はダイニングルームに畳まれていた未使用のテーブルクロスを二枚とってきて、フランとシェフにかけてあげた。
そして、クッキーの積み上がったお皿を持って、パトリックの元へと戻った。
何故だかお皿に緑色の液体が溜まっているが、おそらく薬草を混ぜた影響だろう。
味には影響がない、はずだ。
膝をついているパトリックにクッキーを差し出すと、パトリックは目を見開いてクッキーを凝視した。
そんなに目が離せないほど美味しそうに見えたのなら、製作者冥利に尽きるというものだ。
パトリックは私のクッキーを指差し、私に聞いてくる。
「ナ、ナタリー? これは?」
「見ての通り、クッキーです。私の手作りなんですよ!」
「ク、クッキー!? こ、この、緑と赤の塊が?」
「はい! 隠し味が入っているので、普通のクッキーよりもちょっとだけ色がついてるんです」
「ちょ、ちょっと……だけ……?」
パトリックは、私のクッキーを見つめたまま動かない。
いや、パトリックだけじゃない。
パトリックと一緒に来た付き人も、クッキーを見つめて固まっている。
しまった、パトリックの付き人の分を用意するのを忘れていた。
今度からは、もっとたくさん作っておかなければ。
私がそんなことを考えている間も、パトリックは動かない。
普通、女子がクッキーを差し出したら、喜んで食べる物ではないのだろうか。
少なくとも、前世ではそうだった。
だけど、この世界では違うのかもしれない。
なにせ、ナタリーとしての人生では人のために料理もお菓子も作ったことなんてなかったので、こっちの世界の普通がわからない。
まあ、今回だけは、無礼を許してもらおう。
クッキーは、温かいうちに食べるのが美味しいのだから。
私はクッキーを一つ摘まんで、パトリックの口へと近づけた。
「はい、パトリック様? あーん」
手作りお菓子×女子からのあーん。
これを喜ばない男はいないだろう。
例え王族の地位にいようと、だ。
パトリックは、私が近づけたクッキーを凝視した後、私を見た。
「ナ、ナタリー?」
もしかしたら、あーんの文化もないのかもしれない。
お父様とお母様があーんをしあっているのも、見たことがないし。
はしたないと思われてしまっただろうか。
「口を開けて下さい、パトリック様。私お手製のクッキーを、私の手で食べさせて差し上げますから」
「これを……食べ……」
「はい! パトリック様に喜んでほしくて、愛情を込めて作りました!」
パトリックが息をのむ。
きっと、あまりにも美味しそうなクッキーの魅力に逆らえず、口の中に溢れ出てきた唾液をのみ込んだのだろう。
よだれを垂らすのは、第一王子として相応しくない行動だ。
しかし、まだ口を開けてくれない。
何故だろう。
いつも堂々としているパトリックだから、付き人が見ている前であーんされるのは、さすがに恥ずかしいのだろうか。
実際、やってる私も恥ずかしい。
既に私の顔は真っ赤だ。
でも、ここまでしたら、私ももう後には引けない。
「ナ、ナタリー様」
パトリックの付き人が、空気を読まずに私に話しかけてきた。
「なんですか?」
「そ、その、パトリック様は……えっと。先程、ご飯を既に召し上がりまして」
「え? 私とのお茶会の予定だったのに?」
「は、はい! その、他国の要人の方との会食でしたので、パトリック様も断るに断り切れず……」
「あら、そうだったの」
パトリックの表情が、僅かに明るくなった。
ああ、食べなかったのは照れでも緊張ではなくて、私への罪悪感が原因だったのか。
パトリックは誠実な男だ。
顔が青くなった理由も、お茶会の前にご飯を食べてしまったことを、私にどう言い出せばいいのか苦悩した結果だろう。
「では、仕方ないですね」
「はい!」
「じゃあ、貴方にあげますわ。好きなだけ食べてください」
「え?」
私は試食でお腹いっぱいだし、捨てるのももったいない。
だったらと、私がパトリックの付き人に提案したのだが、今度は付き人の顔が青くなった。
話している相手が傍若無人な悪役令嬢ナタリー・ピエールなのだから、当然と言えば当然かもしれない。
私の三白眼の圧力に耐えるのに、限界が来たのだろう。
「ナ、ナタリー様。お気持ちは嬉しいのですが、私も実は食事を終えたばかりで」
「あら、そうなの。じゃあ、仕方ないわね」
「は、はい!」
クッキーの行き場を失った私は、がっくりと肩を落とす。
果たしてこのクッキーをどうすればいいのだろうか。
明日まで保存できるだろうか。
無事に私へ満腹の意思を伝えることができたパトリックと付き人は、緩んだ表情で顔を見合わせていた。
言うべきことを言い終えて、気が抜けたのだろう。
グー。
そして、二人のお腹から、お腹の虫がなった。
パトリックとお付きの人は慌ててお腹を押さえていた。
が、私にはちゃんと聞こえた。
「まあ! やっぱりお腹が空いてるんじゃないですか!」
「い、いや、今のは!」
私が笑顔を向けると、パトリックと付き人の顔が再び青くなる。
さっきまでのは、やはり遠慮だったのだろう。
パトリックは、お付きの人の前であーんをされるのが恥ずかしい。
付き人は、パトリックを差し置いてクッキーを食べるのに抵抗がある。
なんて、意地らしいのだろう。
なら、対策は簡単だ。
二人仲良く、あーんして食べればいい。
公爵令嬢である私からパトリックの付き人にあーんをするのは、貴族の振る舞いとして相応しいかはわからないが、今回だけは許してもらおう。
ここだけの秘密として三人で誰にも言わないと約束をすれば、きっと大丈夫だ。
私はクッキーをもう一枚掴んで、一枚をパトリックの口へ、もう一枚を付き人の口へと差し出した。
「ナ、ナタリー、私は本当に満腹で」
「わ、私もです。ナタリー様」
「もう! 何も言わなくてもわかってますわ。恥ずかしがらなくても大丈夫です。ここだけの秘密です。誰にも言いませんから」
「あ……あ……」
クッキーが二人の唇に触れ、私はクッキーをぐっと押し込んだ。
クッキーは唇の隙間からすぐに二人の口の中に入り、すぐにクッキーを飲み込む音が聞こえた。
「まあ! お二方とも、ちゃんと噛まないと危ないですわよ!」
焦った私の忠告もむなしく。
「ぎゃああああああああ!?」
「ぐわええええええええ!?」
パトリック様とお付きの人は、白目をむいて絶叫し、喉を押さえたまま気を失った。
きっと、喉に詰まらせてしまったのだろう。
「ああ、もう! 言わんこっちゃない! お水お水!」
私は急いで調理場に入り、コップを持って二人のところへ戻った。
「ナ、ナタリー様……それは……」
後ろの方から、弱弱しいフランの声が聞こえた気がする。
どうやら、お休みから目を覚ましたようだ。
でも、ごめんなさい。
今、優先すべきはパトリックたちだ。
「さ、パトリック様! 口を開けてください!」
私は、クッキーに合うように作った、特製ジュースをパトリックの口の中へと流し込んだ。
「うぼああああああああ!?」
パトリックの目に黒目が戻ってきて、倒れていた体が跳びはねた。
やった、元気になった。
「おぼぶぶぶぶぶぶぶぶ!?」
元気がありあまっているのか、パトリックはぴょんぴょんと跳びはねながらどこかへ行ってしまった。
そんなパトリックを見送って、私は付き人の口にもコップを近づける。
「ん……んー……」
「さ、貴方も口を開けて?」
「んー……!」
かたくなに口を開けようとしないが、緊急事態だ。
私は指で強引に付き人の口を広げて、特製ジュースを流し込んだ。
「ほぎゃあああああああ!?」
特製ジュースを飲み込んだ付き人も、跳びはねながらパトリックを追うようにどこかへ消えていった。
「ああ、二人とも元気になったようでよかったわ」
それにしても、前世では菓子ばかりを作っていたけど、もしかしたらジュース造りの方が才能があるのかもしれない。
私は破滅の未来を回避するため、お菓子もジュースも、もっともっと練習して上達させようと決意した。