「トールさーん。どーこーですかー」
扉の向こうから聞こえてくる声。
「お、リンが復活したみたいだな」
ベッドに座ったばかりのトールが立ち上がり、部屋から出て行こうとする。
仕方がないことだが、いささか残念だ。
アルフィエルの耳がわずかに下がる……が、すぐに、名案が思い浮かんだ。
「いや、ご主人はそのままで。自分が、呼んでこよう」
「どうせ、次の部屋に行くし……」
「いいのだ。いっそ、寝ててくれても構わん。否、寝ててくれ」
「アルフィのベッドなんだけど?」
「だからだ」
有無を言わせず、アルフィエルは部屋から出て行った。
「別に、疲れてるわけではないんだけど……」
過保護な仮採用メイドの言う通り横になるわけにもいかず、トールは居心地悪そうに周囲を見回す。
「ちょっと、殺風景だったかな……」
絵画なり、観葉植物なり。なんらかの飾りを用意しておくべきだったかもしれない。引っ越し前は、いや、今の今までそんなことは考えていなかった。
しかし、ここがアルフィエル――女性の部屋だと考えると、飾り気がなさ過ぎる。
そんなことを考えていると、扉が勢いよく開いた。
「あうわばば。トールさん、とーるさぁん!」
それと同時に姿を現し、駆け寄ってくるリン。
涙目で、足をもつれさせながら、長い耳を動かして、両手を突き出しながら。
危うい。
「あああ、リン。転けるな――」
「ぶふあっ」
トールの不安は的中し、リンが、またしても転んだ。
ピンクブロンドの髪と、若草色の薄布を重ねたワンピースが舞う。
昨日の再現。
だが、そのまま同じではなかった。
トールから贈られた剣を鞘ごと抜き、空中で一回転。絶対死守し、リンは後頭部から落下した。
「まったく……。どうして、その運動神経を転ける前に発揮できないのか……」
「ご主人、すまぬ」
止められず申し訳なさそうにするアルフィエルと一緒に、トールはリンを抱き起こす。さらに、トールは慣れた手つきで髪を整え、汚れを払ってやる。
シチュエーションだけなら、完全に、幼子とその両親だった。
「はあぁ……。少しお祈りしてたら、トールさんたちがいなくなっていたので、びっくりしました!」
「少し……」
アルフィエルが、時空の歪みを発見したような表情でつぶやいた。
甘い。まだまだ、リン初心者だ。
「なので、毎朝パンを運んでくる話は、てっきり私の夢かと思ってしまいました」
「もちろん、夢だぞ」
「やっぱり!?」
「落ち着くんだ、トゥイリンドウェン姫。紛れもない現実だぞ」
「そんな!?」
ダークエルフからお墨付きを与えられ、逆に、エルフの末姫は愕然とした。
「いえいえ、だって、私に都合が良すぎる話ですから。そんな、この私が厚遇を受ける理由なんてありませんし。やっぱり、私の願望が生み出した妄想というのが妥当な結論なのでは!?」
「まあ、パンを運ぶとかはともかく、好きなときに遊びに来ればいいじゃん」
「え? 本当ですか!? 私の勝手な期待が現実を侵蝕したのではなく?」
「それ、普通は願いが叶ったって言うからな」
トールとしても、リンに懐かれて嫌でも嫌いでもないのだ。
ただ単に、依存されすぎて、たまに不安になるだけで。
「とりあえず、次は風呂と洗面所の仕上げをするか」
「分かった、ご主人。心の準備はできているぞ」
「そもそも、心の準備は必要だろうか?」
「トールさんですから」
二対一。
トールは、反論を放棄した。
妙に悟ったようなダークエルフの少女とエルフの末姫を連れて、台所の隣にある風呂場へと移動する。
「風呂は、まあ、普通だな」
「普通だろうか?」
見たこともない大きさの鏡がある洗面所兼脱衣所から、風呂場をのぞき込むアルフィエルは首を傾げた。
「今までの流用で、目新しいのは特にないと思うんだけど……」
家全体に刻まれている《空調》のルーンで、湯気がこもることはない。
浴槽の側には、台所にも設置したミスラルの蛇口。洗い場には、加えてシャワーが設置されている。いずれも、《創水》と《温水》のルーンを組み合わせたものだ。
換気扇と水道と給湯器。その程度である。
広さも、それほどではない。二人はともかく、三人も入ったらいっぱいいっぱいだろう。浴槽だって、足は伸ばせるが、二人で入れるほど広くはなかった。
ただ、浴室自体にはトールのこだわりがあった。
「確かに、総檜の浴室は、ちょっと豪華かなって思うけど。リフォームの時、職人さんにだいぶわがまま言ったし」
「いや、家に風呂があるのが普通ではないと言いたかったのだが」
しかも、トールが言った通り、排水溝の蓋まで総檜の浴室はほのかにいい香りがし、風情もある。
エルフ、ダークエルフともに、豪華ではなく贅沢に感じることだろう。
「トールさん、お風呂大好きですもんね」
「風呂は命、命は風呂だ」
風呂のない生活など絶対に耐えられない。これは、エルフの宮廷にいた頃から同じ。捨てられない、日本人としての性だった。
「そういえば、トールさん。お風呂のお水は川に流すんですか?」
「ん? 最終的にはそうだけど、一度地下のタンクに流して、そこで《分解》のルーンで綺麗にしてから流すようにしてる。これは、台所やトイレなんかも同じだな」
「なんだかよく分かりませんが、綺麗にしてるから問題ないってことですね!」
「さすが、トゥイリンドウェン姫。ご主人のことをよく理解しているな」
「そっ、そんな畏れ多い!? えへっ。トールさんのことを理解しているだなんて、ふへへ、おこがましいですよっ。うふっ、うえへへっっ」
褒められて嬉しかったらしく、気持ち悪い笑い声をあげながら、バンバンとアルフィエルを叩くリン。羽ばたきそうなほど、長い耳が上下に振れていた。
リンの笑い声さえ聞こえなかったことにすれば、なかなか微笑ましい光景。
しかし、トールの表情は晴れない。億劫そうに、天井を見上げる。
「次は、師匠の……いや、俺の部屋か」
そして、物憂げにつぶやいた。