自分の部屋に戻ったアルフィエルは、扉にもたれかかった。疲れたわけではない。ただ、静かに浸っていたかったのだ。
暗い室内も、ダークエルフの少女には問題にならない。
入り口から、リンが安らかに寝ていることを確認する。
そして、一人微笑む。
誰も見ている者がいないのがもったいないほど、魅力的な笑顔で。
「まるで、夢のようだな……」
意図して発したわけではなかったが、その言葉は真実でもあった。
実際、昨日のことを思えば、今の状況は夢や妄想の類だとしか思えない。
けれど、トールに出会ったのも、ルーンの妙技に驚いたのも、リンの存在自体に面食らったのも、グリーンスライムから出てきたエイルフィードの弓に仰天したのも。
なんだか驚いてばかりだが、すべて、現実。
「おやすみなさい……か」
なぜなら、別れ際にトールと交わした言葉が、この胸にはっきりと残っているのだから。母が去って以来、発することのなかった言葉が。
アルフィエルの全身が暖かなものに包まれているのは、決して、ゆったり風呂に浸かっていたからだけではない。
「しかし、風呂は良いものだったな。素晴らしい文化だ」
リンを寝かしつけたあと、トールと大いに食べて飲み。
後片付けをしたあと、風呂に入った。
まだ春先で、それほど寒いわけではない。
それでも、手足を伸ばして温かなお湯に浸かることができる快楽。思わず、声が出てしまった。檜の仄かな香りも、まるで故郷のような安心感を与えてくれた。
あの心地好さを知っていて、なおも温泉を求めるトールには、正直感心する。
「……待てよ」
トールと、風呂。そして、メイドである自分。
アルフィエルは、失敗に気付いた。
「しまった。食事の支度にかかりきりで、ご主人のお世話を怠ってしまったぞ」
立場ある者は、風呂に入るにも人を使う。
トールは偉い人間である。
そして、アルフィエルはトールの使用人だ。
不覚。
明日にでも謝罪をせねばと、深く反省する。
許してくれるだろうか。きっと大丈夫だ。トールは寛大だし、なにより。
「ふふふっ。ご主人は、やはりこの格好がお気に入りのようだ」
他に着る物がない……わけではなかったが、風呂上がりにはお気に入りのワイシャツを一枚羽織った。
呪いの解除に使った、トールのシャツだ。
着心地も良く、なにより安心する。
だからだろうか。浴室から出てきたときも、冷蔵庫で冷やした水を飲むときも、トールは控えめにこちらを見ていた。
メイド服を着ているときには、ほとんどなかった行動。
隠しているようだったので、アルフィエルはなにも言わなかった。
どうせなら、もっと近くでしっかり見ればいいのにとは思っていたが。
ちらちらと見られても、悪い気分はしなかった。
むしろ、気分が高揚する。主人と定めた少年が喜んでいるのであれば、なおさら。
あまり着飾るということをしないダークエルフの少女は、自分自身の魅力に気付いていなかった。
悪くはないと思っている程度で、そんなに大した物ではないと考えている。それゆえ、大盤振る舞いにつながっていた。
トールにとっては、幸か不幸か。今のところ、拮抗しているようだ。
回想を終えたアルフィエルが、足音を立てないよう注意しながら扉から離れる。
ゆっくりと、夢心地でリンが眠るベッドに腰掛けた。
沈むように柔らかく、シャツ同様肌触りがいい。
気を抜くと、今にも倒れてしまいそう。
いや、我慢する必要などない。このまま目を瞑れば、幸せな眠りは約束されている。
しかし、アルフィエルはそうしなかった。
今日という一日を終わらせるのが、あまりにももったいない。そう思ってしまったら。
「とーるひゃん……しょんにゃ……。わらひなんて、おきものとひて、にょきさきにでもころがひてもらへれびゃ……」
「一体、どんな夢を見ているのだ……?」
プニプニした頬を突きながら、アルフィエルは困惑する。果たして、置物は転がしても置物なのか。単に、リンが低いところへ行きたいだけではないのか。
およそお姫さまらしからぬリンの寝言に、しかし、アルフィエルは親近感を抱いていた。
リン、がトールを心の底から信頼しているからだろう。
それは、アルフィエルも同じだから。
命を救われたら、命をかけて仕える。そんな掟はない。それは、トールに言った通り。
トールを主人と定めたのは自分の意思だ。
同時に、英雄を求めるのは、自分の中に流れる血のせいかもしれない。
他人からすると奇異かもしれない。けれど、アルフィエルにとっては、母親とのつながりが感じられて嬉しかった。
そんな部分も含めて、自分は自分。
トールは、丸ごと受け入れてくれている。
自分の見る目は確かだったと、試用期間のことなど忘れて自画自賛するアルフィエル。
悪いことはあった。
だが、それをきっかけに、もっといいことが起きた。
生きるということは、素晴らしい。
「ならば、明日もいい日になる……いや、いい日にしよう」
ふふっと微笑み、アルフィエルはこてんと横になった。
闇の中、星のように煌めく銀髪がベッドに広がり、ダークエルフの少女はまぶたを下ろす。
穏やかな表情の茨姫。
夢は見なかった。
今が、夢の中だから……ではない。
まるで、