前触れなく、トールは目覚めた。
最初に飛び込んできたのは、見知らぬ天井……というか、森だった。どこからか吹く風が木の葉を揺らし、その葉や枝で遮られた柔らかな光が覚醒を促す。
熱くもなく、寒くもない。気持ちの良い目覚めだ。
けれど、少なくとも、ここが建物の中には見えなかった。
まさか、また異世界転移をしてしまったのか?
覚醒直後で、頭が回らないトール。昨日のことすら、思い出せない。
「おはよーございます、トールさん!」
「ぐはっ」
そのトール目がけ、リンが降ってきた。
思い切りよくジャンプし、手足を広げてトールへ落下。他に表現のしようもないほどシンプルで、とびっきりの異常現象。
いくら軽いリンでも、勢いがつけばかなりのもの。
干し草のベッドは大きくたわみ、トールの体ともども、くの字を描く。
「トゥイリンドウェン姫、どくんだ」
「アルフィ……」
「次は自分の番だぞ」
「普通に起こそうぜ、普通に」
だが、その衝撃と続く言葉でトールは完全に覚醒した。
リンをどかしつつ、トールは上半身を起こす。癖で髪をかき上げると、きょとんとするリンの姿が目に入る。
「そうか……」
トールは、完全に思い出した。
夢でも幻覚でもなければ、夢遊病になって外に出たわけでも、どこかの森へ転移されたのでもない。
ここが、トールの部屋だった。
そして、今日から引きこもり生活が始まるのだ。
「ふああぁ……。おはよう、リン、アルフィ」
「おはよーございます!」
「おはようだ、ご主人」
あくびを漏らしながらのトールに対し、リンもアルフィエルもしゃきっとしている。《安眠》のルーンのお陰だろうか。特に、エルフの末姫は二日酔いもしていないようだ。
「それにしても、もう少しまともな起こし方はできなかったのか?」
「だって、声をかけても起きなかったですし……。それに、トールさん。宮廷にいた頃は、私より全然先に起きてたじゃないですか」
「まあ、仕事があったからな……」
「だから、ずっと起こしてあげたいなって思ってたんです」
「うっ……。でも、ボディプレスはちょっとなぁ」
リンの告白に、トールがたじろいだ。できれば止めて欲しかったが、健気さを前にすると邪険にもできない。
「そう言うな、ご主人」
そのタイミングを見計らっていたかのように、アルフィエルがフォローに入った。
「トゥイリンドウェン姫は、最初、口づけでご主人を目覚めさせようとしていたのだぞ」
「そういや、リンにも茨姫の話をした記憶があるような、ないような……」
「はっ。あうわっ。アルフィエルさん、それは秘密だったはずでは!?」
「うむ。この三人だけの秘密だ」
「あっ。それなら問題ないですね……」
「ないのかよ」
冷静にツッコミつつ、トールは無意識に指で唇を触れる。
危ないところだった……。
「わ、私などがトールさんのファーストキスを頂戴するなど不遜。思い上がりもはなはだしいとは思ったのですが、ぬわわっ。そのもう、なんかふわふわっとして、私の中の天使が、やるならやっちゃえキスしちゃえとですねっ。悪魔のほうは、やるならやるで、もうちょっとシチュエーションを整えろって言ってたんですが!」
「天使、役に立ってねえ。あと、悪魔ちょっとロマンチストじゃねえか」
お泊まりという状況で、無闇にテンションが上がっているのかもしれない。それで、リンは良くないハッスルをしそうになったのだろう。
いや、それよりも。
「ファーストキスだって決めつけた根拠はなんなんだ?」
「え? 違うんですか?」
「なんでリンがそんなにショックな顔してるんだよ」
目をこれ以上ないほど見開き、干し草のベッドからずり落ちそうになっているリン。仮面の男から、私がお前の父親だと告白されたぐらいの衝撃を受けていた。
「まさか、姉さまの誰かがすでに? それとも……?」
「安心しろ、トゥイリンドウェン姫。あの大げさな反応からすると、まず間違いなく図星だ」
「良かった……。世界は救われました」
「勝手に、グローバルな問題にするの止めような!」
ファーストキスの相手ぐらい、自由に選ばせて欲しい。別に、リンとなにか特別な関係があるとか、そういうわけではないのだから。
と、トールは思う。思うだけで口には出さないし、もちろん、すでに済ませていなければの話なのだが。
「とにかく、起こすのなら普通に起こすこと」
「普通か……。ご主人、それなら理想の起こし方を聞かせてもらいたいのだが」
「あ、それいいですね! 興味あります!」
アルフィエルとリンが、揃って目を輝かす。
「普通に、部屋の外から声をかけてくれれば、それでいいんだけど」
「却下だ」
「却下です」
「二人して、なんでそんなに仲良くなってるんだ……?」
空恐ろしいものを感じ、トールは干し草のベッドを後退る――
「トールさん?」
だが、トールの足首をリンがぐっと掴んだ。
素早い。まるで、戦闘中のようだ。
こうなると、大魔王ぐらい逃げられない。
寝起きの頭を酷使して、なんとか理想の起こし方とやらをひねり出す。
「み、耳元で優しくささやかれる……とか……?」
「アルフィエルさん」
「トゥイリンドウェン姫」
白黒二人のエルフが、互いの名を呼びうなずき合った。
朝から、ちょっとついていけない。
「さて。そろそろ、ご主人も目が覚めただろう。朝食の準備はできているので、身支度をしたらリビングへ来てくれ」
「ああ、分かった。ところで、理想の起こし方とやらは話したけど、それとこれとは話が別だからな?」
リンだけでなく、アルフィエルまできょとんと小首を傾げる。
しかし、ここで臆してはならない。
「明日からは一人で起きるって意味だよ」
「ダメですよ」
「それはダメだろう」
揃って駄目出しされた。リンにまで。
「まったく、ご主人はメイドの仕事をなんだと思っているのだ」
「なぜ俺が怒られてるのか。ちょっと意味が分からない」
そういえば、一人で引きこもり生活をするつもりだったのに、こんなことになっているのも意味が分からなかった。
「さすが異世界だなぁ……」
干し草のベッドの上。トールは、しみじみと言った。
言葉とは裏腹に、楽しげに微笑んで。