登山でもするのかというほど、大きな背負い鞄。
ルーンで容量拡張されているため見た目よりも大量に荷物が入り、それでいて、重量は鞄そのものしか感じない。
商人、冒険者、軍。
旅をする者であれば誰もが欲しがる魔具も、トールにとっては、引っ越しの段ボール箱と大差なかった。
食卓として使っていたリビングのテーブルへ横倒しにすると、無造作に手を突っ込み、衣服、刻印術道具、マンガに使う画材などと中身を分類していく。
「ご主人の服がこんなに……ごくり」
「おい、のど鳴らすのやめろ」
「だって、ご主人の服だぞ?」
「ああ。俺の服だ」
言外に、もう服をやらないぞという意思を込めたトール。
けれど、アルフィエルには通じない。
「それはつまり、自分の服ということになるのでは?」
「ならねえよ!」
「ご主人も、自分の服を自由にしていいのだぞ?」
「しねえよ!」
「なるほど。ご主人は、服よりも中身派と」
「ガワと中身。両方揃ってこそに決まってるだろ……って」
誘導尋問に引っかかり、自供してしまったトール。恐る恐る、アルフィエルの様子をと見れば。
意外な答えだったのだろう。
褐色の肌でも分かるほど顔を真っ赤にし、興奮気味に長い耳が動いていた。
「そこで恥ずかしがるの反則だろ!」
「ご主人がお風呂上がりの自分をチラチラ見ていたのは、裸ワイシャツのせいだけではないと分かると、ついな……」
「コロシテ……コロシテ……」
ばれていた。
ばっちり、ばれていた。
無意識に見てしまうのは、男の性。無防備なアルフィエルにだって原因はある。
そんな言い訳めいた思考が頭をよぎるが、それも一瞬。羞恥と後悔で消えたくなった。
いっそ殺して欲しい。いや、先祖にならうなら切腹だろうか。
「いやいやいや。死ぬから」
トールはしょうきにもどった。
引きこもり生活は、まだ始まったばかりなのだ。アルフィエルには悪いが、死ぬわけにはいかない。
「まあなんというか、その、ごめんなさい」
土下座とまではいかないが、トールはテーブルに両手をついて真摯に頭を下げる。
門前の小僧習わぬ経を読むという、ことわざ通り。リンの土下座を一番側で見てきたトールの謝罪は、誠意を感じさせるものだった。
だが、アルフィエルにとっては困惑させられるものでしかない。
「ご主人、頭を上げて欲しい。というより、謝罪など不要だ」
「あー……。うん、でも気分の良いものじゃないだろ?」
そこは仮主従といえ、遠慮なく言ってもらわなければならない。
反省しきりのトールに対し、アルフィエルはあっさりと否定する。
「そんなことはないぞ」
「え?」
「ただ、要望というか、希望というかだな……」
やはり、なにかあるのだ。
頭だけ上げて、トールはアルフィエルの言葉を待ち受ける。
「どうせなら、遠慮なくもっとしっかりはっきり見て欲しい」
「コロシテ……コロシテ……」
怪物のコアになったヒロインのようにつぶやくトール。
その目は、ブラックホールを感じさせるほどに虚ろだった。
「はい。そんなわけなんですけどね」
「どんなわけかは分からないが、仕切り直したいのは分かったぞ」
二人きりだと、それはそれで歯止めが利かなくなるかもしれない。トールだけでなく、アルフィエルも。
リン。リンが必要だった。切実に。
「まあ、片付けを優先しようということで」
「異存はないぞ」
ただ、リン抜きでも荷ほどきは順調。
服や私物を部屋に運んだり、道具類をリビングの棚に放り込むだけで整理は終わった。
残ったのは、いくつかの樽や壺。
「こいつらは、アルフィにも説明がいるな」
「これは、調味料……でいいのか?」
キッチンに移動しながら、アルフィエルは困惑気味に耳を動かした。
「唐辛子やこしょう。それに、砂糖などは分かるが……」
異世界に、中国なんてないが、唐辛子。《翻訳》のルーンの妙に、トールは心の中で微笑んだ。
「このペーストと、黒と金の液体は見たことがない」
「みそとしょうゆ。あと、みりんだな」
「みそしょうゆみりん……」
そのまま繰り返し、調理台に並べられた和風調味料をしげしげ眺める。
主人がわざわざ持ち込んだ、調味料をどう扱うべきか。使用人として悩んでいるのだろう。
「まさか、これもご主人が作ったのか?」
「いやいや。そんなに多芸じゃない」
「だが、自分は数々のルーンを忘れてはいないぞ?」
「俺じゃなくて、別の
さすがのトールも、原材料ぐらいしか分からない。さすがに、《発酵》のルーンだけでどうにかできるものでもないはずだ。
「なるほど。納得した」
「それはそれで、地球人の名誉とかに関わる気がするけど……別にいいか」
もう戻ることもない故郷だ。多少の誹謗中傷ぐらい、進行のために目を瞑ってもらおう。
「あとは、干した魚と……板というには薄いようだが?」
「煮干しと昆布。これで出汁を取るんだよ」
「ふむ。獣の骨と同じか」
その理解で間違いではないだろう。
出汁の取り方など、トールも基本しか分からない。
「とりあえず、どれか味見してみるか」
「そうだな。是非、試してみたい」
「ま、簡単なやつで」
冷蔵庫に移した食材からキュウリを選び、アルフィエルにカットしてもらう。
その間に、みそと砂糖と酢を2:2:1で混ぜて、即席のディップを作った。金のない大学生には、これくらいのスキルがあるのだ。
「こいつを試してみてくれ」
「いただこう」
興味津々といった様子でアルフィエルはキュウリの先端にソースを付け、ぱりっと一口かじる。
「これは……」
エルフもダークエルフも、特に菜食主義というわけではない。
人間よりも穀物や野菜を好む傾向はあるが、狩りも漁も牧畜もする。そこは、人間と変わりない。
しかし、味の好みというものは当然あり。
「う、うまいぞ……」
素朴な味を好むためか、エルフもダークエルフも味覚は日本人にかなり近かった。
それを証拠に、次から次にしゃくしゃく食べる……というよりは、キュウリを消費していくアルフィエル。
「なぜ、グラモール王国には伝わっていないのだ」
「俺の前にも
どうやら、明治や大正の頃の女性で、元々みそやしょうゆの製法を知っていた。正確には、日本でやっていたのと同じように作っただけらしい。
気候風土が違うので試行錯誤はあったようだが、今では、遜色ないレベルの製品を作り上げている。
もしかすると、聖樹の加護がいい方向に作用したのかもしれない。聖樹なら、麹菌ぐらいどうにかできるだろう。
「交流がなく、伝わらなかったというのか」
「別に、こっちのエルフも常食してるわけじゃないけどな。なんか、
「それにしても、そのまま付けただけでこれか。恐るべしだな」
改めて感心しながら、アルフィエルがキュウリをかじる。一本分、ほとんど一人で食べ尽くしてしまった。
「みそもしょうゆも、スープの味付けをしたり、塗って焼いたり、いろいろな使い方ができる」
「ほほう」
アルフィエルの瞳が、きらりと光った。創薬師にも通じる研究者の顔だ。
「足りなければ、王都に行って買ってくるから――」
「それは無理ではないか? トゥイリンドウェン姫が泣くぞ?」
「……足りなければリンに買ってきてもらうから、好きに使って欲しい」
「任された」
大役を仰せつかり光栄だと、メイド服を着たアルフィエルがすっと腰を折る。
芝居がかった所作だが、妙に似合ってもいた。
「次は、米の調理法だな。キッチンにどっさり置いてあって、気になったのだ」
「ああ。基本的な炊き方ぐらいは教えられる」
「よろしく頼むぞ、ご主人。なにしろ、トゥイリンドウェン姫がいるときにはできないからな。今日ばかりは、ハチマキに掃除の任を譲ろう」
新たな調味料の出現に、情熱を燃やすアルフィエル。
もはや、使用人として有用という領域を越え、不可欠な存在になりかけていないだろうか。
「俺、間違ってないよな。引きこもりって、勝手にご飯とか出てくるもんだもんな?」
試用期間は初日にして形骸化してしまったが、二日目に今さらな不安を強く抱くトールだった。