王宮で行われた大舞踏会の翌朝――。
まだ薄暗い時間帯に、ウィンスレット公爵家の令嬢エミリア・ウィンスレットは目を覚ました。婚約破棄を通告された夜、枕を濡らすほどに泣いたにもかかわらず、驚くほど頭は冴えている。胸の痛みは依然として残っているが、あの苦しい涙を一度すべて流し切ったことで、かえって心の奥に奇妙な冷静さが生まれていた。
“私を踏みにじったこと、後悔させてやる”
そう心の中で宣言したものの、今すぐ行動に移せるわけではない。相手は王女クラリッサを後ろ盾に得たアルバート・ロンズデール、さらに背後には国王さえ控えているかもしれない。ウィンスレット公爵家としても、早計に噛みつけば逆に政治的な圧力をかけられかねない。エミリアは自分が置かれた立場と、この国の権力構造をしっかりと理解しているゆえ、軽々しい行動は取れない。
一方で、自分にできることは少なくない。社交界で培ってきた広い人脈、幼少期から叩き込まれた礼儀作法と知識、そして公爵令嬢としての誇り――これらをうまく活用すれば、必ずや道は開けるはず。今はその方策を見定める時間でもあると、エミリアは己に言い聞かせる。
部屋のカーテンを開くと、朝の光が静かに差し込みはじめていた。エミリアは夜会の名残で疲れ切った身体を少しだけ伸ばし、侍女たちが用意してくれた朝食をとる。パンとスープ程度の簡素な食事だが、今の彼女にはこれくらいがちょうど良い。それにしても、昨夜あれほど動揺していたわりには、意外としっかりと食欲がある自分に驚く。
(泣いてばかりいても仕方がないもの。……さあ、この後は父と話をしなくては)
昨夜は帰宅するなり部屋にこもってしまったため、父であるウィンスレット公爵とはまともに顔を合わせていない。――婚約破棄が大問題であることは、言うまでもない。エミリアは公爵家の長女であり、家督を継ぐことはないにしても、一族の名誉を担う立場。それが、あの大舞踏会で公衆の面前で醜態をさらされたのだ。父がどれほど怒り、あるいは嘆いているのか、想像するだけで胸が痛む。
食事を終え身支度を整えた後、エミリアは執務室へと足を運んだ。薄く開いた扉の隙間から覗くと、そこには机に向かいながらも何やら落ち着かない様子で書類をめくっている父の姿がある。ウィンスレット公爵、名はヘンリーといい、五十を少し超えた年齢。威厳のある整った風貌を保ちつつ、その厳しさと慈愛を兼ね備えた性格で知られている。公爵として、王家からの信頼も厚い人物だ。
コンコン、と扉をノックし、エミリアが「失礼いたします」と声をかけると、公爵は険しい顔のまま「入りなさい」と答えた。その声色からは怒りと心配が入り混じっているのが伝わってくる。
「……エミリア、座りなさい」
促されるまま執務机の前の椅子に腰掛けると、ヘンリー公爵は深いため息をついた。その横には、エミリアの母――公爵夫人のメレディスも控えている。メレディス夫人は褐色の髪に柔和な瞳を持ち、普段は優しく穏やかな人柄だが、今はその美しい額に深い皺を寄せ、怒りを必死にこらえているようにも見える。
「エミリア、まずは聞かせてくれ。昨夜の舞踏会でいったい何があったのか。……アルバート・ロンズデールが、おまえに婚約破棄を宣言したと聞いたが?」
公爵の声には静かながらも確かな激情がこもっていた。エミリアは覚悟を決め、淡々と事実を報告する。――アルバートが王女クラリッサと親密にしていたこと。大勢の前で自分を“地味で退屈な女”と侮辱し、正式に婚約を破棄すると宣言したこと。そして、それを受け入れざるを得なかったこと。
エミリアが一通り語り終えると、公爵夫人のメレディスが顔を真っ赤にして立ち上がった。
「なんて酷い……! あの方たち、一体どういうおつもりなのかしら。もう国王陛下のお墨付きで、王女とアルバート様を結婚させる算段が整っているということ? それを踏まえてエミリアを切り捨てるなど、あまりにも横暴ですわ」
母の怒りはもっともだ。公爵夫人として、娘があれほどの侮辱を受けたのを黙って見過ごせるはずがない。父であるヘンリー公爵も同様だが、彼はそれ以上に政治的な意味合いを察しているらしく、額に手を当てて目を閉じたまま、しばし沈黙を保っていた。
「……アルバートは国王陛下や王女に取り入っている節があった。ここ数年、あちこちで噂はされていたが、まさかここまで露骨に動くとはな。ウィンスレット公爵家との縁を捨ててまで、王女との婚姻を狙うとは……」
それだけ言うと、公爵は低く唸るように息を吐いた。公爵家とロンズデール公爵家は長い付き合いがあり、かつては同盟関係に近い状態でもあった。将来的にエミリアとアルバートを結婚させることで、互いの家を強固に結びつけ、王国内でも有数の勢力を形成するというのが、当初の目論見だったのだ。しかし、それもアルバートが王女クラリッサの存在を知り、こちらが得になると判断した瞬間に覆された。ロンズデール公爵家としては、王家に直接つながるメリットを選んだということだろう。
「父様、私としては……あのような形で破棄を宣言され、屈辱を味わいましたが、後悔はしていません。あの方と結婚しても、きっと私は幸せにはなれなかったと思います」
エミリアの静かな言葉に、公爵夫人は涙ぐんでそっと手を伸ばしてきた。
「……そうね、あなたの性格を考えれば、あのように卑劣な手を使う男なんて、こちらからお断りですわ。それにしても、そう簡単に許していいわけがありません。名門公爵家の令嬢を、あのように人前で踏みにじるなんて……ロンズデール公爵家から正式な謝罪を要求してもいいのではないかしら?」
夫人の言葉を受けて、公爵は険しい表情をさらに深くする。
「確かに、謝罪を求めることはできる。ただし、相手は王女殿下との縁組をちらつかせている以上、国王の意向も絡んでくる。もし国王陛下が『この婚約破棄は我が国益に適う』と判断したら……ウィンスレット家としては迂闊に逆らえん。下手に騒ぎ立てれば、わが家を敵視するような流れになりかねない」
政治の世界は理不尽に満ちている。とりわけ王族が絡めば尚更だ。アルバート個人への怒りはもちろんあるが、下手を打てば公爵家そのものを危うくしかねない。ヘンリー公爵が抱いているのはそうした現実的な恐れであった。
「父様、母様。……どうか私に時間をください。今は動かず、嵐が過ぎるのを待つべきかと思います。もちろん、このまま泣き寝入りするつもりはありません。ですが、こちらから先に大きな手を打つのは得策ではないかと……」
エミリアの言葉は冷静だった。昨夜の惨事を思えば、今すぐにでも反撃したい衝動があってもおかしくないが、それを抑えられるだけの理性と洞察が彼女にはある。ヘンリー公爵も娘の言葉を聞き、わずかにほっとした表情を浮かべた。
「……分かった。おまえに任せよう。とはいえ、傷付いたままでいるのも辛いだろう。少しでもいいから休息をとるんだぞ。もし何か困ったことがあれば、遠慮なく頼りなさい。これは父としてだけでなく、公爵としての命令だ」
「ありがとうございます、父様」
エミリアは深く頭を下げ、執務室を辞した。彼女は自室へ戻る間、心の中で改めて決意を固める。――“ロンズデール公爵家とアルバートを許すつもりはない。だが、今は最適な時機を待つ”。自分が動くには、まず相手の出方を見極める必要がある。相手は王女の力を得て、社交界で幅を利かせ始めるだろう。そのとき、必ずどこかにほころびが生じるはず。それを見逃さず、最も効果的な一手を放つのだ。
しかし、エミリアにとって試練はすぐに訪れた。それは、貴族社会の人間関係における「冷遇」と「掌返し」――彼女の婚約破棄を面白おかしく利用しようとする動きが、早くも大きくなり始めたのである。
公爵令嬢への冷たい風
数日後、エミリアは侯爵令嬢リリアン・メイフィールドから誘われ、ある屋敷へ足を運んでいた。王都中心部の社交界では、令嬢たちが週ごとに華やかなティーパーティーを開くのが常であり、その日も侯爵夫人が主催する会合があったのだ。
リリアンはエミリアの大切な友人であり、今も彼女を気遣って「辛いならば無理に来なくてもいいのよ」と言ってくれた。だが、エミリアはあえて出席を決めた。婚約破棄を受けたからといって公の場に出ず、殻に閉じこもっていれば、それこそ「やはりエミリアはショックで引きこもっている」という噂を助長するだけ。むしろ堂々と顔を出して「私は健在です」と示すことが、今の彼女には必要だと考えたのだ。
「今日のティーパーティーは、わたくしの母が主催しているので安心してくださいませ。あの場で失礼を働く人は、さすがにいないはずです。……いえ、そう信じたいのですが、何せ人の心はわからないものですから」
会場へ向かう馬車の中、リリアンはそう言って申し訳なさそうに眉をひそめた。確かに、リリアンの母――メイフィールド侯爵夫人はウィンスレット公爵家とも親交が深く、エミリアのことを昔から可愛がってくれている。普通ならば、彼女の顔を潰すような無礼は起こりにくい。ところが、エミリアの婚約破棄は王女が絡む大事になっており、変に対立したくない人々が「エミリアを遠巻きにする」可能性は十分にあり得るのだ。
「大丈夫、リリアン。私はあの場でどんな態度を取られても、笑顔でかわしてみせるわ。……もう慣れましたもの、多少の茶化しや悪意には」
エミリアは勇気を奮い立たせるように微笑んだが、その胸中にはざわつくような不安があった。自分が傷つかないと言えば嘘になる。しかし、だからこそ「今日を乗り切り、社交界における自分の立ち位置を再確認する」ことが重要なのだ。
屋敷に到着し、門をくぐると、そこには淡いピンクの花が咲き乱れる庭園が広がっていた。メイフィールド侯爵家の自慢の庭であり、ティーパーティーはこの美しい花壇のそばにあるガーデンテラスで開かれている。出迎えてくれたのはリリアンの母――メイフィールド侯爵夫人で、柔らかな笑みを浮かべながらエミリアの手を取ってくれた。
「エミリア、よく来てくれましたね。あなたが元気そうな顔を見せてくれて、わたくしはとても嬉しいわ。……あの大舞踏会のことは、本当に気の毒でならないけれど、あなたならきっと乗り越えられると信じています」
「ありがとうございます、侯爵夫人。ご心配をおかけしまして……」
夫人の温かな言葉に、エミリアは少しだけ安堵し、会場へ足を踏み入れた。すでに十数名の貴族令嬢たちがテーブルを囲み、それぞれに談笑している。彼女たちはいずれも有力貴族の娘や妹であり、普段ならばエミリアも積極的に話しに加わる相手ばかりだ。
だが、その日の空気は明らかに違っていた。エミリアがガーデンテラスに姿を見せた瞬間、一瞬だけ会話が途切れ、周囲から視線が集中する。そこには色々な感情が入り混じっていた――同情、好奇、嘲笑、安堵、あるいは敬遠。エミリアはすぐにそれを察し、軽やかな笑みをたたえながら会釈をしてみせる。
「皆様、ご機嫌うるわしゅう。ウィンスレット公爵令嬢、エミリアです。本日はお招きにあずかり、誠にありがとうございます」
ごく当たり前の挨拶だ。しかし、その当たり前ができるかどうかが重要だ。声を震わせず、表情を崩さず、まるで何ごともなかったかのように振る舞うことこそ、令嬢としての気高さを示す手段。エミリアは自分に向けられる好奇と侮蔑を感じながらも、完璧な礼儀作法でそれを受け流した。
周囲の令嬢たちは微妙に表情を取り繕いながらも、なんとも言えない空気が漂う。最初に声をかけてきたのは、伯爵令嬢のクリスティーヌ・フォーブスだ。彼女は以前から多少の張り合いこそあれ、エミリアとはそれなりに良好な関係を保っていた。しかし、そのクリスティーヌが少し意地の悪そうな笑みを浮かべて言う。
「まあ、エミリア様。大舞踏会の夜は大変でしたわね。あれほど美しくご着飾りになっていたのに……あれからご体調はどうなのかしら? さぞ、お疲れになったんじゃありません?」
その言葉の奥には、「婚約破棄されて落ち込んでいるんでしょう?」という揶揄が透けて見えた。エミリアは心中で苦笑しながらも、あくまで上品に微笑み返す。
「ご心配をありがとうございます、クリスティーヌ様。わたくしはおかげさまで元気にしておりますわ。しばらくはゆっくり休んでいましたが、今ではすっかり落ち着きまして」
「まあ、それは何より。……でも、王女殿下との婚姻に横槍を入れた形になるロンズデール公爵家に、あなたからは何か申し出はあったのかしら? ほら、正式に破棄を通達する前に、何か手続きが必要なのでしょう?」
まるで「あなたはすでに用済みなのだから、黙って捨てられるだけでは?」と言っているように聞こえる。周囲の令嬢たちも「そうよ、どうするの?」とばかりに暗い好奇の目を向けてきた。エミリアはあくまで動じない表情を保ち、穏やかに返す。
「いいえ、特別な手続きは考えておりません。ロンズデール公爵家が王女殿下のご婚姻に向けて動かれている以上、私から無理に干渉するのもおかしな話ですから」
「まあ、まさか本当に何もしないの? よくそれで納得できますわね。わたしなら恨んでしまいそう……」
クリスティーヌの言葉に、エミリアは心の奥で小さく嘆息する。もちろん恨みがないわけがない。しかし、ここで悔しさをむき出しにすれば、かえって“惨めな女”というレッテルを貼られるだけ。それを理解しているからこそ、エミリアは平静を演じているのだ。
すると、別の令嬢――侯爵家の娘であるエステル・リチャーズが話題を変えるふりをしながら、さらに興味本位の質問を投げかけてきた。
「そういえば、エミリア様は皇太子アレクシス殿下とは、どのようなご関係ですの? 以前、ちらりとお話ししていらっしゃるのを見かけましたけれど。……まさか、そちらへ鞍替えという話でも?」
からかうような口調に周囲がクスクスと笑いを漏らす。まるで「あんた、まさか皇太子を狙うつもり?」とでも言わんばかりの嫌味だ。エミリアは軽く首を振り、苦笑交じりに答える。
「とんでもありません。皇太子殿下は王女殿下の腹違いの兄上に当たるお方。幼い頃にお目にかかったことがありますが、それ以上の関係などございませんわ」
そう、一度や二度、宮廷のイベントで言葉を交わした程度にすぎない。ましてや、こんな騒動の直後に皇太子殿下へ近付けば、周囲から「婚約破棄された憐れな令嬢が必死に次の標的を探している」などと陰口を叩かれるだけだ。エミリアは自分がどう振る舞うべきか、重々承知している。
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、令嬢たちはあれこれと言葉巧みに“暇つぶし”のようにエミリアを弄ぼうとする。もちろん、全員が敵意を持っているわけではない。中には本当に彼女の体調を気遣う言葉をかけてくれる者もいるし、リリアンのように怒りを抑えきれず、「いい加減にしてくださいません?」と声を荒らげそうになる友人もいる。
それでもエミリアはただ笑顔を崩さず、彼女たちの好奇に付き合い続けた。なぜなら、ここで下手に感情的になれば、自分だけでなくメイフィールド侯爵夫人にも迷惑がかかるからだ。会の主催者が招待客の喧嘩を制止できなかったとなれば、夫人の評判も傷つきかねない。エミリアはリリアンにも小さく目配せをして、「大丈夫だから」と合図し、必死で事態を収めようとする。
気づけば、ティーパーティーの時間はかなり過ぎていた。エミリアがほとんど紅茶に口をつけられないほど周囲に問いかけられていたにもかかわらず、いつの間にか日が傾きはじめている。最後のデザートが運ばれ、ようやく会が散会の方向へ向かうと、エミリアの胸にはほっとした安堵感があった。
(思ったより長い時間、耐え抜いたわね。……これも貴族令嬢としての訓練の賜物かしら)
心の中ではそう自嘲する。だが、こうして社交界で顔を合わせることで、エミリアは改めて思い知った。――「今、社交界はアルバートと王女殿下の婚約話で持ちきり」なのだと。同時に、婚約破棄を言い渡された自分は“面白いスキャンダル”として、あるいは“王女殿下に歯向かった可哀想な子”として扱われている。人によっては「わが家に火の粉が降りかかるのは御免だ」とばかりに距離を置こうとしている動きも見えた。
だからこそ、エミリアはこう感じる――「ここで潰されてたまるものか」。いずれ自分がもっと有力な存在になり、彼女たちが「今度はエミリアに媚びを売らなくちゃ」と焦り、掌を返す未来を見てやりたい。そのためにも、まずは耐えて準備を重ねる。絶対に諦めない。あのアルバートが心から後悔するような結果を、いつか必ず示してやる。
父の苦悩、そして微かな光
ティーパーティーから戻ったエミリアは、自室のベッドに腰掛け、どっと疲れが押し寄せるのを感じた。外面を取り繕うのに、これほど神経をすり減らすとは……。しかし、やらなければならないのだ。今は踏ん張りどき。その証拠に、冷たい対応をされた一方で、「もしアルバート側がうまくいかなかったら、ウィンスレット家はどう出るのだろうか」と探りを入れてくる者もいた。政治の世界は常に“もしも”を見据え、二手三手先を考える。つまり、まだエミリアにはチャンスが残されているということだ。
そんなことを考えながら、エミリアが侍女に手伝ってもらいドレスを脱いでいると、廊下のほうで微かな声が聞こえた。扉をノックしたのは、父ヘンリー公爵の執事を務めるラドクリフで、「旦那様がお呼びです」と告げに来た。エミリアは着替えを急ぎ、急いで執務室へ向かう。
ドアを開けると、そこには先日会ったときよりもさらに疲れた顔をしたヘンリー公爵がいた。机の上には山のように書類が積まれ、あれこれと頭を悩ませている様子が窺える。エミリアが「失礼いたします」と声をかけると、公爵はゆっくりと顔を上げた。
「エミリア……ちょうどよかった。少しおまえに聞いておきたいことがある」
公爵は娘に向かって椅子を勧め、自分も座り直す。どうやら深刻な話らしい。その空気にエミリアも自然と背筋が伸びた。
「先ほど、王城から使者が来てな。ロンズデール公爵家と王女殿下の婚約に関して、正式に動きがあるようだ」
「もう、そんな話が……」
エミリアの胸が締め付けられる。分かってはいたが、思いのほか早い展開に動揺を隠せない。ヘンリー公爵は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、次の言葉を続けた。
「国王陛下としては、近々、アルバート・ロンズデールと王女クラリッサ殿下の婚約発表を行う意向らしい。だが、その前に“ウィンスレット公爵家との縁談の処理”をきっちりしておけと、宮廷から圧力がかかっているのだ」
「……処理、ですか」
そこに込められた意味は明白だ。アルバートが以前にウィンスレット公爵家の令嬢・エミリアと婚約していたことは王宮にも周知の事実。その解消を公式に認め、書類上でもきちんと片付ける必要がある。それを“処理”と呼ぶあたり、王家にとってのエミリアは“過去の契約の残滓”でしかないのだろう。無情な言い方ではあるが、権力の前ではそんなものなのかもしれない。
「どうやら、ロンズデール公爵家は『一方的に破棄を申し出たのは仕方のない事情だった』として、それなりにエミリアへの補償を行うと申し出ている。……もっとも、その“補償”というのは金銭といくつかの爵位特権を譲渡するなど、形だけのものだが」
金銭で解決しようなど、エミリアにとっては侮辱以外の何物でもない。しかし、家単位の交渉としては、ある意味“当たり前”の話だ。むしろ、それに応じるかどうかが政治的な駆け引きになることもある。ヘンリー公爵は娘の表情を窺いながら、困惑したように続ける。
「わが家としては、この話をどう扱うべきか……。下手に拒否すれば、王家の怒りを買いかねない。かといって、易々と金銭で手打ちにするのも、わが家の矜持に傷がつく」
エミリアはギリリと奥歯を噛む。破棄された上に侮辱され、さらに金銭を押し付けられて黙れというのか。それでも、ウィンスレット公爵家の安泰を考えれば、ここで国王陛下や王女殿下を敵に回すのは得策ではない。エミリアはしばし黙考したのち、静かに口を開いた。
「父様、今は……受け取るふりをしておいてもよろしいのではないでしょうか。私の婚約破棄は、これ以上ないほど公式に確定していただいたほうが、むしろ動きやすいのです。なにせ、いつまでも『アルバートの元婚約者』という肩書きがついてまわるのは鬱陶しいですから」
「……いいのか? そんな屈辱的な話を認めるなんて」
「屈辱には違いありませんが、相手方が示した条件を表向きは呑んだほうが、後々わが家にとっても不利にはならないかと。いずれにせよ、私の意思としては“断固としてロンズデール家との縁を捨てる”のに変わりはありませんもの」
エミリアはきっぱりと言い切った。その瞳には凛とした光が宿っている。ヘンリー公爵はしばらく沈黙したが、やがて頷き、娘の言葉を容れる。
「わかった……。おまえの言う通りだな。あの夜会での仕打ちを思えば、私も今さら向こうの顔など見たくもない。……とりあえずは王家とロンズデール家の提案を受け入れ、婚約破棄を正式に認める形を取ろう。その上でこちらからは強く反対もしない。……それで、この騒ぎが早く収まるならば、損はない」
父娘の意見が一致したところで、エミリアは少しだけ肩の力を抜いた。――こうして一旦は終わりにしておけば、向こうも安心して王女との婚約発表に邁進するだろう。無論、それを妨害するつもりはない。むしろアルバートが王女と結ばれ、国王に取り入って頂点へ近づいていくほど、いつかその足元をすくうタイミングは大きくなる。権力を欲しがる輩ほど、権力闘争に巻き込まれて足元が脆くなるものだ。
エミリアは父の執務室を後にしながら、自分の胸のうちにある静かな炎を改めて感じた。――相手がどれほど高みに上り詰めようと、最後に勝つのは私である。そう、揺るぎない確信が心の奥に芽生えていた。
晩餐会での孤立と、思わぬ再会
それから数日後、ウィンスレット公爵家に王城から正式な書簡が届いた。そこには「アルバート・ロンズデールとエミリア・ウィンスレットの婚約を解消したことを確認する」旨、および「王女クラリッサとロンズデール公爵子息の婚約発表を行う予定である」ことが淡々と記されている。無機質な文章に宿るのは、王家の絶対的な権威だ。公爵家としては、それを受け入れるしかない。
そんな中、エミリアは公務に忙しい父の代理として、ある晩餐会に出席することになった。王宮の一角で開かれる定期的な貴族会合――大臣や高位貴族たちが一堂に会し、互いの情報交換や国政についての議論を行う場である。エミリアは幼い頃から父に同伴し、こうした公的な場での立ち居振る舞いを学んでいたため、代理を任されても問題はない。
だが、ここでもエミリアは嫌でも注目を浴びる。元婚約者が“王女殿下の婚約者”となった今、その“破棄された公爵令嬢”として、まだまだ噂の対象なのだ。会場に着くと、伯爵家の令息たちが興味本位に彼女を眺め、貴族夫人たちは「あらまあ、気の毒に」と口々に囁き合う。エミリアは微笑を絶やさずに挨拶を返しながらも、その視線の痛さに内心苦笑するばかりだった。
晩餐が始まる前、広いホールでの立食形式の軽い会話タイムが設けられていた。各々がグラスを手に取り、社交辞令を交わす場面だ。エミリアは知り合いの婦人や紳士に礼儀正しく声をかけるが、返ってくる反応はどこか素っ気ない。あるいは、わざとらしく明るく振る舞いながら、核心を避けるようにすり抜けていく人もいる。
(皆、ロンズデール公爵家や王家の様子を探っているのね。私に深入りすれば変な噂が立つと恐れているのでしょう)
そんな中、さりげなく声をかけてきたのは宰相家の次男であるグレイ・アベリーだ。彼はエミリアとは一歳違いだが、幼少期に同じ家庭教師の下で学んだ仲間であり、そこまで親しいわけではないが、お互いに一定の信頼感を持ち合う間柄でもある。
「エミリア嬢、今宵はお一人でのご出席ですか。ウィンスレット公爵殿はお忙しいそうで……」
「ええ、父は国政の件でまだ執務室に缶詰めの状態ですの。ですから代理で参りました」
「そうですか。……その、ご気分はいかがですか? 先日の大舞踏会の一件、話が早くから広まっていて」
グレイは遠回しにエミリアを気遣ってくれているのだろう。しかし、周囲には多くの人の耳がある。彼は深くは突っ込まないまま言葉を濁した。エミリアはその配慮に感謝し、微笑んで返す。
「ありがとうございます。お気遣いは嬉しいのですが、私は大丈夫ですわ。むしろ、こうして堂々と場に出てくるのも大切な務めだと思っています」
「そう……。あなたの強さには、昔から感服していました。今宵も無理をなさらずに。何かあれば声をかけてください、僕にできることがあれば」
グレイはそれだけ言うと、会釈をして立ち去っていった。エミリアはその後ろ姿にホッと息をつく。こうして昔からの繋がりで心配してくれる人がいるのはありがたい。一方で、あまり近づかれると余計な誤解を招くかもしれないので、これくらいの距離感がちょうどいいのだ。
晩餐が始まると、大広間の長いテーブルにつき、貴族たちはコース料理を楽しみながら談笑を交わす。エミリアは父の代理ということで、メインテーブルの端のほうに席を与えられていたが、その席順からしても“ウィンスレット公爵家”という格の高さは揺るがない。周囲には伯爵や侯爵など、相応の地位を持つ貴族が並んでいる。
しかし、やはりというべきか、エミリアに積極的に話しかける人は少ない。たまに声をかけてくるのは、「公爵閣下はどうされているのです?」という公務に関する質問ばかり。彼らは皆、エミリア本人のことなどさほど興味がないのだ。
(これが“冷遇”というものね。誰もあからさまな侮蔑はしないけれど、私に関わろうとはしない。ロンズデール公爵家や王女殿下の逆鱗に触れたくないから――)
エミリアは一皿目のスープを口に運びながら、密やかな苛立ちを覚える。先日のティーパーティーでも似たような状況だったが、晩餐会のような“公的な場”ではなおさら、周囲の態度は慎重になる。つまり、彼女は社交界で完全に浮いた存在になりつつあるのだ。
(でも、これでいいわ。むしろ私に絡んでこられるほうが、今は面倒くさい)
そう自分に言い聞かせ、次に運ばれてきた魚料理を味わう。料理そのものは優雅で美味だが、胸の内にわだかまる不快感で、せっかくの食事を堪能しきれないのが残念だった。
メインディッシュに差しかかった頃、突然会場が少しざわめいた。何事かと思えば、どうやら途中で到着した来客がいるらしい。貴族たちが一斉に立ち上がり、礼を取っているのが見える。その人物こそ――皇太子アレクシス・ヴァレンタイン。
「なぜ殿下が今頃……?」
エミリアは小さく目を見張りながら、その姿を見つめる。黒髪に碧眼の皇太子は、衛兵と数名の随員を連れて静かに歩みを進め、テーブルの中央付近へと向かっていく。どうやら国王陛下の代理として、晩餐会の席に姿を見せたようだ。滅多にないことではあるが、王家が高位貴族の集まりに顔を出す場合は、相応の政治的意図があるのだと察せられる。
アレクシス皇太子は広間を見渡しながら落ち着いた態度で会釈を返し、周囲に着席を促した。貴族たちはそれに従い、あたりには緊張した空気が漂う。皇太子がいるだけで場の重厚感は大きく変わる。エミリアはなるべく目立たないように振る舞いながら、心臓の鼓動を落ち着けようとした。何せ、彼がこの場に現れただけで、嫌でも“先日の婚約破棄”の記憶が蘇る。あの夜会でも、皇太子は遅れて姿を現しはしたが、結局エミリアと直接言葉を交わすことはなかった。
(できれば今は目を合わせたくない。余計な噂が立っても困るから――)
そう思いながら視線を落とし気味にしていると、不意に隣の伯爵家当主がエミリアに話しかけてきた。
「ウィンスレット令嬢、皇太子殿下がお越しになったからには、何らかのご挨拶をするのですか?」
その問いに、エミリアは少し戸惑う。いや、本来であれば公爵家の令嬢としては、皇太子がこうして公の場に姿を見せたときには、挨拶を交わすのが筋だ。だが、先の婚約破棄の件があってから、彼女が安易に皇太子と接触するのは周囲の目が厳しい。かといって、無視するのも礼儀に反する。
(どうすれば……)
迷うエミリアの元に、今度は執事役らしき男が足早にやってきて、「皇太子殿下がウィンスレット公爵令嬢にご挨拶を希望されております」と告げるではないか。驚いたのはエミリアだけでなく、周囲の貴族たちも同様。なぜわざわざ皇太子が、今日この場にいるエミリアを名指しで――?
場にいた人々の視線が一気にエミリアへ集中する。彼女は内心の動揺を必死に隠しながら椅子を引いて立ち上がり、執事の案内で皇太子のもとへ向かった。ホールの中央付近、アレクシス皇太子は厳粛な面持ちでエミリアの姿を待っている。
「殿下、ウィンスレット公爵令嬢をお連れいたしました」
執事が名乗り上げると、エミリアは深く膝を折り、丁寧に頭を垂れた。
「ウィンスレット公爵家の長女、エミリアにございます。皇太子殿下、今宵はこのような晩餐にお越し下さり、光栄の至りでございます」
顔を上げると、皇太子アレクシスの碧眼がじっとエミリアを見つめている。その視線は思ったよりも柔らかいものだった。エミリアが戸惑う間もなく、彼は静かに口を開く。
「顔を上げてくれ、エミリア・ウィンスレット。――先日の舞踏会は、失礼をした。到着が遅れたばかりに、あの場で君が酷い目に遭うのを阻止できなかったのではないかと、ずっと気にしていたのだ」
その言葉に、場中がどよめく。皇太子殿下が、わざわざあの婚約破棄騒動を口にし、エミリアを気遣うような言葉を述べた――それ自体、異例のことといえた。エミリアは驚きに固まりながらも、「いえ、殿下のお気になさることでは……」と控えめに答える。
アレクシス皇太子は一瞬、何か言いたげに唇を結んだが、そのまま言葉を飲み込むようにして軽く首を振った。
「君には、かつて宮廷で幾度か教えを受けたことを覚えている。幼い頃……まだ私が“後継ぎ”として扱われる前に、君の礼儀作法は素晴らしいと、母后が評していたのだ。……またゆっくりと話がしたい。今日は公の場だ。余計な口出しはすまいが、いつでも君のことを案じている」
まるで心底から労わるような言葉に、エミリアの胸が小さく波打つ。これまで皇太子との関わりはさほどなかったが、そういえば幼い頃に宮廷で数回、言葉を交わした記憶がある。あのときアレクシスはまだ少年で、現国王の嫡子としての立場を固めきっていなかった。母后の教育方針により、様々な貴族や令嬢と面識を得ていたらしい。しかし、それを今まで覚えていたとは……。
(なぜここまで親切な言葉をかけてくださるのだろう? もしかして、王女殿下との間に溝でもあるのかしら……?)
エミリアの脳裏に様々な疑問が浮かぶが、今はそれを口に出せる状況ではない。周囲の視線が痛いほど突き刺さるなか、アレクシス皇太子は「それでは、引き続き晩餐を楽しんでくれ」と言い残し、別の来賓との挨拶へと移っていった。
エミリアは何とも言えぬ気持ちのまま、深く礼をして自分の席に戻る。怒涛のように押し寄せる衆目と囁き。――「皇太子殿下はあの令嬢を気遣っていたわね」「やはりエミリア様はただ者ではないのかも」「王女殿下に睨まれないといいけれど……」などなど、雑多な思惑がそこかしこに渦巻いているのが手に取るようにわかる。
(これでまた、面倒な噂が立つでしょうね)
エミリアは心の中で苦い笑みを浮かべる。一方で、皇太子が示した“友情”ともとれる言葉は、今の彼女にとってほんの少しだけ心強くもあった。少なくとも、この国の中枢たる皇太子が自分を侮蔑するどころか、わざわざ気遣ってくれた。――もし、今後何か事を起こすとき、その存在が力になってくれる可能性は否定できない。
そう、相手は王女クラリッサとアルバート。彼らがのうのうと幸せの絶頂にいるところへ、一矢報いるチャンスが今後巡ってこないとは限らない。エミリアは冷たく燃えるような決意を胸に秘めながら、晩餐会の賑わいの中で瞳を伏せた。
“必ず、後悔させてみせる――”
この国の社交界に渦巻く陰謀と思惑は、まだまだこれから激しく動き出す。エミリアの冷遇は当分続くだろう。だが、それでも彼女は決して負けない。過酷な運命が待ち受けるとしても、ウィンスレット公爵令嬢の名に懸けて、彼女は高らかに勝利を掴み取ろうとしていた。