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第3話 エミリアの逆襲と、皇太子との急接近

――王女クラリッサとアルバート・ロンズデールの婚約が正式に発表されてから、一週間ほどが経過した。

 公爵令嬢エミリア・ウィンスレットのもとには、その報せを告げる王城からの書簡が届いている。内容は形式的なものだったが、あたかも“以前、ウィンスレット家と結ばれていた契約の残余を完全に処理する”という趣旨が明確に記されており、エミリアは改めて思い知らされる――自分がもう“過去の契約”として始末されたのだと。

 だが、その事実にもはや取り乱すような気持ちはない。確かに胸の奥が痛むことはあるが、今のエミリアにとって最も大切なのは「この状況をどう逆手に取るか」だった。アルバートが王女との結婚へ向けて邁進しているならば、自分もまた、別の道を切り拓けばいい。その先で、アルバートが必ず後悔する未来を作ってやる――それがエミリアの胸に宿る、静かで冷たい炎だった。



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冷え切る季節、そして冷遇への抵抗


 季節は早春から晩春へ移り変わりつつあるが、王都ベルヴァールの貴族社会はまだどこか冷え切った空気を漂わせている。王女クラリッサとアルバートの婚約は“華やか”な話題として取り沙汰される一方、それに付随する形で「公爵令嬢エミリアが捨てられた」事実は人々の好奇の種であり続けた。

 ――「ウィンスレット家は実は落ちぶれているのではないか?」

 ――「エミリア様は王女殿下に歯向かった代償を払わされたのだろう」

 ――「婚約破棄された令嬢など、もう相手にする価値はない」


 そんな心ない噂が飛び交うなか、エミリアはそれでも毅然として社交の場に姿を現し続ける。公的な会合、茶会、祝賀パーティー――以前ほどの華やかさや歓迎は受けられないが、「ウィンスレット公爵家の名に恥じぬように」という矜持とともに、気高く振る舞っていた。

 心の内では、悔しさや孤独感に苛まれることもある。だが、ここで退けば本当に“負け”になってしまう。アルバートや王女クラリッサが好き勝手に権勢を伸ばしている中、エミリアが萎縮してしまっては、彼らを見返す機会すら失われるのだ。


 「……大丈夫、私はまだやれるわ」


 そう自分に言い聞かせながら、エミリアはこの一週間、次々と出席した行事のほとんどで、ひたすら耐えていた。時には、あからさまに冷笑を投げかける貴族令嬢もいたし、皮肉めいた言葉を囁く紳士もいた。けれど、エミリアは表情を崩さず、上品な微笑みだけで受け流してみせる。

 ――それは、ウィンスレット公爵令嬢としての“生き残りの術”だ。露骨に感情を出せば、それだけ相手の思うつぼ。泣いたり怒ったりすれば、「やはり捨てられた女は哀れだ」という見方が強まるだけ。ならばこそ、毅然とした態度を貫いてこそ、いつか逆襲の時に「エミリア様こそ本物だった」と思い知らしめられる。



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伯爵令嬢クリスティーヌの企み


 そんな日々を過ごすエミリアのもとへ、ある日、一通の招待状が届けられた。差出人は、先日ティーパーティーで意地の悪い質問をぶつけてきた伯爵令嬢――クリスティーヌ・フォーブス。

 文面によると、クリスティーヌが主催する小規模な音楽会が近く開催されるので、ぜひ来てほしいという。場所はフォーブス伯爵家の別邸で、それほど大きくはないが庭園が美しいことで知られている。

 (……クリスティーヌ様の招待、ですって? あの方は私の弱みを嗅ぎつけるのが大好きそうな性格。何か裏があるのかしら)

 正直なところ、行きたくはなかった。しかし、これを断れば「やはりエミリアは社交界から逃げている」という噂の格好の材料になる可能性がある。さらに、ウィンスレット公爵家としても、伯爵家からの正式な招待を無碍にはできない。

 悩んだ末、エミリアは出席の返事を送った。公爵令嬢としての責任もあるが、何より“どんな機会も逃すべきではない”という直感が働いたからだ。たとえ相手が意地悪な意図を持っていても、その場を利用してこちらが一手を打てるかもしれない。エミリアの心には、すでに小さな戦意が芽生えていた。


 クリスティーヌ主催の音楽会当日、エミリアは比較的控えめな淡いブルーのドレスを身にまとい、ウィンスレット公爵家の馬車でフォーブス伯爵家の別邸へ向かった。同行するのは、いつもエミリアを支えてくれる侍女と護衛の騎士。それほど派手な人数ではないが、最低限の身辺警護と世話役は連れて行く必要がある。

 広い門をくぐり、庭園へ続く小道に降り立つと、鮮やかな花々が出迎えてくれた。クリスティーヌの趣味か、庭にはピンクと白の色合いが中心に配置され、まるで甘い香りが漂ってくるような空間が広がっている。そこに設えられたテラスが、今日の音楽会の会場だ。

 「ようこそいらっしゃいましたわ、エミリア様」

 案内に出てきたクリスティーヌは、濃いローズピンクのドレスに身を包み、いかにも“可憐な女主人”を演出している。だが、その瞳にはどこか探るような光が宿っていた。エミリアは微笑みで返しながら、内心では予測を巡らせる――(何を仕掛けてくるつもりかしら)。


 音楽会には、貴族の子女を中心におよそ二十名ほどが集まっていた。ハープやヴァイオリンの演奏を聴きながらお茶を楽しむ、という形式の催しだ。エミリアも軽く挨拶を交わしながら着席するが、やはり人々の視線はどこかよそよそしい。

 音楽が始まってしばらくは、静かにメロディが流れる優雅な時間が続いた。エミリアは内心の緊張をほぐすかのように、ハーブティーを一口啜っては演奏者たちに目を向ける。

 ――すると、演奏の合間に、クリスティーヌが急に立ち上がり、人々の前で話し始めた。

 「皆様、本日は私の音楽会にお越しいただきありがとうございます。ところで、今日は特別な試みを用意しておりまして……。なんと、我が家にお招きしている宮廷楽師の一人が、即興で歌劇の抜粋を披露してくださるとのこと。そこで、もしよろしければ、どなたかが朗読や歌の伴奏を担当してくださらないかと思いまして」


 会場が少しざわめく。貴族の娘たちは音楽や朗読の嗜みを持つ者が多いが、こうした場でいきなりの“飛び入り参加”は難易度が高い。恥をかく可能性もあるため、慎重になるのが普通だ。

 「まあ、私がやってもいいですわ。でも、せっかくなら皆様にも楽しんでいただきたいし……。あら、エミリア様はいかがかしら? その麗しいお声で、有名な叙情詩か何かを朗読していただけないかしら」

 クリスティーヌの視線がエミリアに突き刺さる。まるで“あなたに失敗させて恥をかかせてやる”と言わんばかりだ。周囲の令嬢たちも興味津々の様子で、エミリアの反応を伺っている。


 (なるほど、これが狙いね。私がここでうろたえて断れば、「やはり失意の令嬢は何もできない」と笑われる。逆に受けて失敗すれば、それこそ格好の笑い者になる……)


 エミリアは一瞬、クリスティーヌの意図に苛立ちを覚えた。しかし、同時に気づく。――ここで堂々と成功してみせれば、“捨てられた令嬢”という陰口に少しは反撃できるのではないか、と。

 深呼吸をして微笑を湛えたまま、エミリアは席から立ち上がる。


 「喜んでお引き受けいたします。わたくしも音楽や文学に関しては、幼少より学んでまいりましたので……。皆様にご満足いただけるかはわかりませんが、精一杯務めさせていただきますわ」


 その言葉に、周囲から驚きの声が上がった。あの慎重なエミリアが、こんな唐突な申し出を受けるとは。クリスティーヌも少しだけ目を丸くしたが、すぐに冷たい笑みを浮かべた。


 「まあ、それは頼もしいですわ。では、宮廷楽師の方と一緒に進行をお願いいたしますね」


 宮廷楽師は朗らかな壮年の男性で、エミリアに曲の簡単な説明をした。今回演奏するのは、当国で有名な叙情詩“虹の伝説”の一節。それをハープの伴奏に合わせ、エミリアが朗読するという段取りだ。急造の舞台でありながら、エミリアは数分ほど演奏家と打ち合わせをし、本番に備える。


 人前での朗読や歌の披露は、貴族令嬢として多くの者が一度は経験する。しかし、こうした“試し”の場は失敗すれば恥が大きい。エミリアも緊張しないわけではなかったが、幼い頃から礼儀作法とともに身につけた表現技術は決して低くない。


 ハープの澄んだ音色が空気を揺らし、静粛に耳を傾ける観客たちの視線がエミリアに集まる。――彼女は大きく息を吸い、胸の奥で沸き立つ決意を込めて、口を開いた。


 「――この大地を覆う曇り空、光の筋が差し込む時、七色の虹はかすかに揺らめき……」


 透明感のある柔らかな声音が、庭園の一角に広がっていく。言葉の抑揚、休止のタイミング、視線の配り方――エミリアは舞台の中心で、完璧な礼儀と表現を両立させながら朗読を紡いでいった。

 やがてクライマックスに向けて、ハープの音が少しずつ力強さを増す。その節回しに合わせ、エミリアの声も感情を帯びていく。彼女は目を閉じることなく、観客のほうをまっすぐに見据えながら、一語一語を慈しむように語っていく。


 その瞬間、そこにいるほとんどの人間が「美しい」と感じた。エミリアの中に宿る悲しみや悔しさ、そしてそれを乗り越えようとする気高さ――それらが言葉の一つひとつに秘められていたのだろう。彼女の紡ぐ声は淡々としていながらもどこか切なく、けれど最終的には希望へと昇華していく。その流れが、虹の伝説という詩の内容と奇跡的に噛み合い、心に迫るものを作り出していた。


 朗読が終わり、最後のハープの余韻が消えると、庭にはしんとした沈黙が降りた。誰もがしばし言葉を発しない。まるで、そのまま余韻に浸っていたいかのように。だが、ほどなくしてパラパラとした拍手が起こり、それがやがて大きな拍手喝采へと変わっていく。

 「ブラボー……!」

 「なんて美しい朗読なの……」


 令嬢たちの中には涙を浮かべている者もいた。それほどにエミリアの朗読は見事だったのだ。そんな中、クリスティーヌだけは苦々しい表情を隠せずにいる。計画ではエミリアの失敗を晒して笑いものにするつもりだったはずが、逆に称賛を浴びる結果となったからだ。


 エミリアは深々と一礼し、宮廷楽師にもお礼を述べる。すると、演奏家のほうから「素晴らしかったですよ、またどこかで共演したいものです」と声をかけられた。

 ――観客の多くも、エミリアに歩み寄り「感動しました」「さすが公爵令嬢ですね」などと賞賛の言葉を向け始める。今までよそよそしかった人々も、一気に態度を変える者が少なくなかった。それを“掌返し”と呼ぶべきかもしれないが、エミリアはあくまで笑顔で応対し、「ありがとうございます。お耳汚しでなければ何よりですわ」と控えめに答える。


 (こうしてみると、貴族社会の人間関係など表面的なものね。けれど、だからこそ私の振る舞い一つで、状況はどうにでも変えられる。……アルバートや王女殿下に舐められたままで終わるつもりはないわ)


 そう心の中で思いながらも、エミリアは謙虚さを崩さずに笑みを保つ。朗読一つにしても、彼女にとっては“自分の存在感を取り戻すための武器”だった。クリスティーヌがどんなに悔しがろうと、今の会場にはエミリアへの賞賛が満ちている。この結果は、今後の社交界に少なからぬ影響を与えるだろう。


 音楽会が終わると、クリスティーヌは苦笑いを浮かべながらエミリアを見送りにやってきた。形だけでもホステスとしての役割を果たさねばならないからだ。

 「……さすがエミリア様。とても素敵な朗読でしたわ。私も胸を打たれましたわよ、本当に」

 その言葉に嘘が混じっているのは明らかだったが、エミリアはあえて深く追及しない。代わりに、静かに微笑むだけ。

 「ありがとう、クリスティーヌ様。お招きにあずかり、とても楽しいひとときを過ごせましたわ。また機会があれば、ぜひお声がけくださいませ」


 (もうあなたに利用されるのは御免だけれど、こうして笑顔で返すのも戦略のうち――)


 心の中でそう呟き、エミリアは優雅な足取りで庭園を後にする。その背中には、ほんのわずかに“勝利”の風が吹いていた。



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皇太子との思わぬ再会、そして舞踏会への招待


 クリスティーヌの音楽会での朗読は、予想以上の反響をもってエミリアを取り巻く空気を少しだけ変えた。もちろん「アルバートに捨てられた令嬢」という事実は消えないが、少なくとも“無能な捨てられ令嬢”というイメージは払拭しつつある。社交界には、権力に媚びるだけでなく「実力ある人物を敬う」という側面もあるからだ。

 そうして、エミリアが少しずつ自らの存在感を回復させ始めた頃、またしても驚きの知らせがもたらされた。――皇太子アレクシス・ヴァレンタインからの、個人的な招待状が届いたのだ。


 「こ、これはどういうことでしょう……?」


 エミリアはその招待状を手に取り、動揺を隠せずにいる。文面は短く、「近日開かれる小規模な舞踏会に、貴女にぜひご出席いただきたい。詳細は追って連絡する」と記されていた。そして末尾には、皇太子の署名と印が押されている。

 「エミリア、まさか皇太子殿下とあの大舞踏会以来、個人的にお話しする機会でもあったの?」

 そう問いかけてきたのは、母のメレディス公爵夫人だ。彼女も当然ながら驚いている。正式な王宮行事ではなく、「皇太子殿下が開く小規模な舞踏会」。それは公務というより、アレクシス個人の社交に近い場所だ。そこに公爵令嬢一人を名指しで招くとは、普通ではあり得ない。

 「いえ……以前、晩餐会で少しお声をかけていただいたことはありましたが、それ以降は全く……」


 エミリア自身も混乱していた。確かに晩餐会で「君が酷い目に遭ってすまなかった」と皇太子から気遣いを受けたことがある。だが、それだけで個人的な舞踏会に招かれるものだろうか。

 ヘンリー公爵もその知らせを受け取り、娘の意向を確認してくる。

 「エミリア、どうする? これは国王陛下の主催行事ではないが、相手は皇太子殿下だ。おまえが断れば無礼と取られる可能性もある。一方で、下手をすれば王女クラリッサの気分を損ねるかもしれない。なにせ殿下とは腹違いの兄妹とはいえ、あまり仲が良くないという噂もある」


 家中で協議した結果、エミリアは「出席する」以外の選択肢はないと考えた。ここで断る理由を探すほうが難しく、皇太子の招待を無視してはウィンスレット公爵家全体に泥を塗ることになる。もし、王女クラリッサの警戒を買うとしても、今さら恐れることではない――アルバートとの件で、すでに彼女からは敵視されているのだから。


 数日後、詳細が書かれた追伸が届いた。舞踏会は皇太子アレクシスが所有する離宮で行われるらしい。参加者はごく少数の限られた貴族や国外からの要人、そして信頼できる王族関係者――つまり、かなり“特別”な空間になる見通しだ。

 日時が迫る中、エミリアは自然と緊張を高めていった。これまで王室が開く公式行事には何度も出席してきたが、“皇太子個人のサロン的舞踏会”など、ほとんど前例がない。果たして何を目的に、アレクシス皇太子は自分を招いたのか。



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離宮での舞踏会――始まる逆転への序曲


 迎えた当日、エミリアはウィンスレット公爵家が所有する最高級の馬車に乗り、護衛を数名伴って離宮へ向かった。ドレスは濃いラベンダーを基調とし、胸元と袖口にシルバーの刺繍が施された繊細なデザイン。派手すぎず地味すぎず、それでいて気品と華やかさを失わない絶妙なバランスを追究した一着だ。

 離宮に到着すると、その建物の美しさにエミリアは息を呑む。王宮とは異なる淡いベージュの壁面に、優雅な曲線を多用した建築様式。庭園には季節の花が咲き誇り、噴水や彫像が点在している。夜になると無数のランタンが灯され、幻想的な雰囲気を醸し出すのだろう。


 案内されたホールに足を踏み入れると、すでに音楽隊が優雅なワルツを奏でていた。参加者はおそらく三十名ほどか――通常の王族主催の舞踏会と比べて人数は格段に少ない。貴族だけでなく、遠方からの大使や隣国の王子らしき人も見受けられる。まさに“小規模の国際交流の場”といった趣きだ。

 エミリアがホールを一望していると、すかさず衛兵が近寄り、「皇太子殿下がエミリア様をお待ちです」と告げた。妙に段取りがいい。まるで、アレクシス皇太子がエミリアの到着を心待ちにしていたかのようだ。


 (やはり、私と直接話すつもりなのね……)


 心の奥がざわつくのを感じながらも、エミリアは深い呼吸をして落ち着きを取り戻す。周囲の視線がある以上、堂々と振る舞わなければならない。

 衛兵に導かれるままホールの奥へ進むと、そこにアレクシス皇太子が控えていた。漆黒の髪を後ろへ流し、深紅を基調とした礼装に身を包んだ姿は、いつにも増して風格がある。近づくエミリアを見つけると、アレクシスは柔らかな笑みを浮かべて声をかけた。


 「よくいらしてくれたね、エミリア・ウィンスレット。…そのドレス、とてもお似合いだ」


 「皇太子殿下、過分なお言葉をありがとうございます。お招きいただき、光栄に存じますわ」


 エミリアが丁寧に一礼すると、アレクシスは「どうぞ、顔を上げてくれ」と言い、近くのテーブルへ案内した。そこには既に準備された上質なワインと、水晶のグラスが並べられている。傍らに数名の随員も控えているが、アレクシスが手振りで下がるよう指示すると、皆遠巻きに後退していった。


 「賑やかそうだが、ここは公的な舞踏会よりも、私的な気安さを重視している。参加者の多くは、私個人の客人や親交を結びたい相手だ。その中に君を招いたのには、いくつか理由がある」


 「理由、ですか……?」


 エミリアが小首を傾げると、アレクシスは軽くワインを注ぎ、彼女のグラスへ差し出した。エミリアは礼を言ってそれを受け取る。深いルビー色の液体がグラスの中できらめく。


 「一つは、先日の晩餐会で君とちゃんと話をする機会がなかったからだ。あの場では、国の要人やら貴族やらに囲まれて、ゆっくり言葉を交わすこともできなかった。――何より、私はずっと気にしていたのだよ。あの舞踏会で、君が婚約を破棄されてしまったことを」


 そう言うアレクシスの声には、どこか申し訳なさが滲んでいる。エミリアは少し戸惑いながらも、明るい調子で答える。


 「殿下がお気に留めることはありませんわ。あれはアルバートと王女殿下の問題ですし、私自身、今では吹っ切れております」


 「吹っ切れている、か。……そうだといいが、私は王女クラリッサの性格をそれなりに知っている。あれだけのことをしたのだから、君の心に深い傷を残したのではないか、と思わずにはいられなかったのだ」


 まるでこちらの苦しみを共有してくれるような口ぶり。皇太子がここまで親身に感じる理由とは何なのか。エミリアは首を振り、穏やかな微笑を浮かべる。


 「お気遣いはありがたいのですが、私はもう大丈夫ですわ。むしろ、こうして社交界で何が起きようと、私が私であることに変わりはありませんから」


 「……そうだな。まさに君らしい答えだ」


 その言葉と同時に、アレクシスはグラスのワインを一口含んだ。その横顔を見ていると、どこか優しい――というより、“悲しげ”な印象を受ける。エミリアが不思議に思いかけたとき、彼が言葉を続ける。


 「もう一つの理由。――実は、この舞踏会には近々、ある“計画”を進めるための協力者を探す意図があってね。その計画に、君が手を貸してくれないかと思っているのだ」


 「計画、とは……?」


 「簡単に言えば、王族間の権力争いを少しでも穏便に解決し、この国の未来を安定させるための試みだ。王女クラリッサは権勢を欲し、アルバートはそれに乗じて出世を狙う。正直、見過ごしていたら国が乱れかねない。……だからこそ、私の側もある程度の態勢を固める必要があると考えている」


 エミリアは驚きに言葉を失う。まさか皇太子が、王女とアルバートの動きを“危険”とみなしているとは。確かに、国政に強い影響力を持ち始めれば、暴走する可能性は否めない。アレクシスがそこを懸念するのも、ある意味当然なのかもしれない。


 「私は先王(今の国王の父)の血統を色濃く引いているが、クラリッサは王妃の血統。……腹違いのきょうだいゆえ、表面上は仲良く見せていても、実際には葛藤がある。ましてや、あのアルバートが入り込んでくれば、さらに状況は複雑になるだろう。――そこで、私は信頼できる人々を集めて、王女派の動きを牽制したいのだよ」


 「私に、その協力を……ですか? 私など、今や捨てられた令嬢と噂されておりますのに」


 エミリアの自虐にも似た言葉に、アレクシスは小さく笑みを漏らす。


 「捨てられた、ね。――だが、私は知っている。君にはウィンスレット公爵家という強大な後ろ盾がある。政治的にも十分に発言力を行使できるし、社交界での立ち振る舞いも群を抜いている。それに、君自身がただの“お飾り令嬢”ではないことは、幼い頃から感じていたよ」


 その言葉に、エミリアの胸が小さく震える。自分のプライドや力を見抜いて、正当に評価してくれる存在。それは、今の彼女にとってかけがえのない助力であり、思わず心を揺さぶられるものだった。


 「王女クラリッサが国王の寵愛を得て、王城での発言力を大きくしようとしている今、私としても黙って傍観はできない。……もし、アルバートのような人間が国政を動かす立場になったら、この国はどうなるか分からないからな」


 アレクシスの瞳は真摯だった。そこには“私利私欲”よりも、“国を思う気概”が感じられる。エミリアは軽く息をつき、己の思いを吐き出すように口を開く。


 「私も、アルバートが国の中枢を握るのは危険だと思っています。……あの方は、昔はともかく、今は権力に目が眩んでいる。王女殿下と結びつくことで、より上へ、より強い権力へと手を伸ばすことでしょう。それが何をもたらすのかは、考えるだけで不安になりますわ」


 「ならば、協力してくれるか?」


 アレクシスの問いかけに、エミリアはわずかに言葉を詰まらせた。王女とアルバートを牽制するということは、それこそ彼らを敵に回すという意味だ。だが、もはやエミリアは“敵に回す”というよりも、すでに“敵視されている”と言ってもいい。ならばこそ、むしろアレクシス皇太子側につくほうが生き残る道だろう。


 「……分かりました。私でお力になれるのでしたら、喜んで協力させていただきます。ウィンスレット公爵家の父とも相談し、できる限りの協力体制を築きましょう」


 エミリアがそう答えると、アレクシスは安堵の笑みを浮かべ、グラスを軽く掲げた。


 「ありがとう、エミリア。これは私個人だけでなく、この国にとっても大きな一歩になると信じている。――さて、難しい話はここまでにしようか。今日は舞踏会だ。君が来てくれたのだから、一曲踊りでも付き合ってほしい」


 エミリアが驚いて目を瞬かせると、アレクシスはすっと手を差し出す。遠巻きに周囲を伺っていた人々も、皇太子がエミリアをダンスに誘ったと知るや否や、どよめきに近い視線を向けてきた。

 (また余計な噂が立ちそうだけど……)

 それでも、“捨てられた令嬢”から“皇太子のダンスパートナー”へ。これほど見事な変化を示す機会はない。エミリアは微笑みながらその手を取り、軽く礼をしてホールの中央へ足を進める。


 ややアップテンポのワルツが始まり、アレクシスとエミリアは呼吸を合わせるようにステップを刻む。皇太子のエスコートは堂に入っていて、エミリアも自然なリズムで彼に寄り添って踊る。まるで長年のパートナーかのように息が合い、周囲の視線を惹きつけてやまない。

 ――ほんの数分前まで、エミリアは「なぜ招かれたのか」と戸惑っていた。しかし、今はもう腹が決まっている。アレクシスが差し伸べた手を取り、王女クラリッサやアルバートの野望と渡り合う。それは彼女自身の“復讐”と“自立”にも通じる道だ。


 音楽に合わせて舞ううちに、エミリアの胸中には不思議な高揚感が生まれていた。皇太子アレクシスの隣は心地よく、彼のさりげない気遣いと柔和な笑みが、沈んでいた気持ちをほんの少し解きほぐしてくれる。


 (私はまだ負けていない。ここからが本番……。アルバート、王女殿下、覚悟なさい)


 踊りながら、エミリアはそう心の中で決意を再確認する。侮辱され、捨てられた苦しみは決して消えない。けれど、そこから立ち上がり、新たな力を得て進むことはできる。それこそが、公爵令嬢エミリア・ウィンスレットの戦い方だ。


 曲の終わりとともに、アレクシスがエミリアの手を軽く握り、にこりと笑みを交わす。周囲からは称賛の拍手が湧き起こり、先ほどまで興味半分で眺めていた貴族たちも、いつの間にか二人の優雅さに心を奪われていたかのようだ。


 ――こうして、エミリアの“新たな幕開け”とも言うべき夜が、更けていく。王女とアルバートが君臨する社交界に対し、皇太子とエミリアがどのような一手を打っていくのか。次なる戦いへの期待と緊張を胸に、エミリアは再び舞踏曲のリズムに身を委ねたのだった。



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