──5月15日 夕刻前
ゴォン。壁が、不気味な音を立てた。
オレたちでも何でできているのかも分からない壁の、不気味な響き。
もう一度。
そして三度目。
壁を殴る男子生徒の手が、棒を振り上げたところでピタリと止まった。
その瞬間、相棒が空を見上げ、刀の鍔に手をかける。
刀の鍔を上げて、足をいつでも踏み出せるような体勢になる相棒。
それを見て私も、様子見だからと意味もなく手にぶら下げていた愛銃のセーフティを解除した。
相棒の意図はわからない。
だが、こいつが構えたら私も構える。それは、暗黙の了解みたいなものだった。
「ひ、ひぃ! ぎゃあぁぁあぁ!!」
「!?」
悲鳴が上がったのは、私がセーフティを解除したのとほぼ同時だった。
学級委員の女の後ろに立っていた小太りの男子の悲鳴。
その男子は、突然地面に倒れたかと思うと転げ回りながら絶叫をあげはじめた。
腹を掻き毟って、あまりの力にシャツのボタンが弾けてとぶのが、遠目にも見える。
だがそれよりもハッキリ見えたのは、噴水のように内側から吹き上がった真っ赤な血──だった。
それを見た相棒が、無言で抜刀しながら走り出す。
「き、きゃあぁあ!」
「な、なんだっ!?」
「山村!!」
眼鏡の女子が、悲鳴をあげる学級委員の腕を掴んで距離をとる。
しかし他の4人は自分の腹の血溜りを掻き毟りながら地面を転がる小太りの男子を、呆然と見つめるしか出来ない。
小太りの男子は、必死になって腹の中から何かを引っ張り出そうとしている。
その形相は凄まじく、口から泡を吹き血を撒き散らしながらも、絶叫をあげ続けていた。
そんな中で学級委員の女子は唯一、動いた。
小太りの男子の名前なんだろう山村という名前を叫びながら、のたうち回る身体に必死にとり縋った。
彼女だけは、山村を何とかしてやろうと思っていたんだろう。
血塗れになりながらも、山村の腹の止血をしようと試みている。
だが残念ながらもう、手遅れだ。
引っ掻き回された腹からはでっぷりとした黄色い脂肪が流れ出して、その奥の腹膜が破れて腸が毀れ出している。
そこまで来てしまえば、もし救急車を呼んだとしてももう、間に合わない。
この壁の近くには医療施設なんかは存在しないから、そもそも救急車も来ないだろうけれど。
恐らくさっきリーダー格の男子が壁を叩いてしまったのがキーだったんだ。
私たちも、油断した。
まさか、壁を叩くなんて思っても居なかった。なんて、言い訳だろうけど。
「廻、上だ」
「は、早いな……!?」
「な、なんですか!? あなたたちは──」
「死体に縋るな。ソレはもう、〝人〟じゃない」
「っ……」
冷静な相棒の言葉に学級委員が愕然と言葉を飲み込むと、場は一気に静かになった。
もう、山村も悲鳴をあげてはいない。
口からぶくぶくと吐き出していた泡もいつしか止まり、地面を叩いていた痙攣もなくなった。
死んだから、だ。
【悪魔】の中には、人間が裸眼で視認出来ないくらいに小さな虫のようなのも存在する。
そいつらをパッと発見するのは難しくて、私や相棒だって、ゴーグルしてなきゃきっと無理だ。
そして、そういう小型の連中は大体壁と地面の隙間とか石の下なんかの、普通の虫が生息しているような場所に好んで隠れ住む。
今回のもそういう奴等だろう。
そして、壁を叩いたことで起こされて、一番肉がついて旨そうな奴を襲った。
それだけのことだ。
「どうする? ゲートはまだ少し先だ」
「走らせろ」
叫ぶように言うのと同時に、相棒が壁を蹴って上へ跳躍する。
途端、上空から響き渡る咆哮と、降り落ちてくる【悪魔】の血の雨。
アイツがそう言うってことは、逃げるしかないって事。
つまりは、今アイツが殺した【悪魔】だけじゃなく、もっと【悪魔】が来るかもしれないって、事。
あぁ、もう。
私は、困惑して座り込んでいる学生どもの尻をひっぱたいて立ち上がらせ、全速力で走るように指示を出した。
相棒の行動と私の指示に、学生たちは何が起きているのかは理解をしていないだろう。
突然出現した大人に背中を引っ叩かれて追い立てられるのは、誰だって驚くはずだ。
さっきは勇敢だった学級委員も、目をウロウロさせてから血に塗れた手を震わせるのが関の山。
だがそれでも、わかってはいるはずだ。
今走らないと、自分達もあの山村のようになる。
今降ってきた刀傷を受けて死んでいる巨大な化け物の仲間に、食い散らかされてしまうのだ、と。
「そこの扉だ! 中にはいれ!」
「で、でもこの先はっ! 〝新宿〟の中です!」
私が示したのは、走って10メートルもしない場所にある扉だ。
〝新宿〟の内部へと通じるその扉はしっかりと封じられている。
が、今は蟲の影響かガタガタと揺れていて、力を入れて蹴飛ばすだけでも開きそうだ。
しかし、中が〝新宿〟であると分かっているからか、扉に一番近い場所にいた背の小さな男子が嫌々と首を振った。
……ま、そりゃそうだ。こんな時間に〝〝新宿〟〟に入りたいヤツなんか、普通いない。
「どけっ!」
しかし、動けないでいる背の小さい男子の背中を、一番背の高いリーダーの男が蹴飛ばした。
扉を巻き込んで転がったその少年を、リーダーは首根っこを掴んで扉の中に押し込む。
彼だけでなく、眼鏡の女子も、委員長も──その血塗れの手も躊躇なく握って、リーダー格の男子は私の指示通りに、扉の中に連れ込んだ。
ここから先は、当然だが分類的には〝新宿〟の中扱いだ。
地図上で見れば正しくはまだ新宿区ではないけれど、今ではこの壁の中は全て新宿と呼ばれているから、そこは〝新宿〟。
その中に入るのに抵抗があるのは分かる。
分かるが、ここまで来ておいて何を言っているんだという気持ちだってある。
怖いのなら、嫌なのなら、最初からついて来なきゃよかったんだ。
こいつらが居なかったら、私たちだってもっと落ち着いて準備をして突入出来たのに。
だが、そんな事を言っている場合じゃない。
「急げっ!!」
私が最後にリーダ格ーの男の背中を押して扉の中に入る。
扉の中は、もう別世界だ。さっきまで見えなかった花びらも舞い始め、空気も冷える。
入った途端に不気味に変わった空気に怖気づいた学生たちの背中を押したのは、やっぱりリーダー格の男子だった。
こいつ、素質あるなぁ。
「その建物の中に入れ!」
ヨタヨタ走る高校生たちの背中を守りながら眼の前の建物へと誘導しながら、私はちょっとだけリーダー格の男子に感心する。
今だって、真っ赤に染まっている手を見詰めていた女を抱えて走っているんだ。
この判断力は、並の高校生にできる事じゃない。
学級委員の手に付着した血は、すでに乾き始めている。
その手を躊躇せずに掴めるのは、実に男らしいんじゃないだろうか。
壁の中は、基本的には無音に近い。
勿論、自分たちの発する音があるから、完全に無いわけではない。
しかしこの季節には、あの花びらがまるで雪のように音を吸い込んで遮断して、遠くまでは音を届けてくれないんだ。
そして、【悪魔】どもの中に居る目が退化している種類のヤツは、音を聞いて動く。
つまり、静かにして息を潜めていれば、見逃してくれる可能性が高い。
こいつらが静かにしていてくれれば、だけども。
「このままここでじっとして。私が戻るまで、音を立てるなよ。」
「……何処へ行くんだ?」
「相棒を置いて来てる。応援に戻る」
「い、行かないで下さい……っ」
一番近くの建物の中に駆け込んで、眼の前にあった階段で地下室に駆け込む。
途端に外部からの音は遮断されて、外でなにが起きているのかも完全に分からくなってしまった。
ここはまだそこまで花びらで埋まっているわけではない。
それでもドアは鉄だったし、地下という立地のお陰でこちらの音はあまり外部には漏れないだろう。
だから相棒の応援に……と思ったんだが、必死に私に縋り付いてきている学生どもを見ると、これでは無理そうだとため息が出てしまった。
手を真っ赤にした女はまだじっと手を見詰めたままだし、気の強そうな眼鏡の女は何か細長いケースを抱えたまま小さく震えている。
泣きながら懇願してきたのはさっきも中に入るのを渋っていた小さい少年だ。
なんの関係かはわからないが、多分一番年下。
壁を殴ったリーダー格の男子は冷静なように見えるが、それだって、強張った顔で必死に息を整えているような状況だ。
そして学生はもう一人──雰囲気の違う女の子が1人居る。
彼女だけは、何も言わなかった。ただこちらをじっと見て、警戒するように様子をうかがっている。
こりゃあ、ほっといたらパニックになりかねない……
私は一度だけ溜息を吐くと、無言で入り口を閉じて施錠しに行き、また学生たちの所に戻る事にした。
相棒なら大丈夫だろう。
この程度の悪魔に殺されるようだったら、私たちは最初からここには来ていない。
「……んじゃ、まぁ。まずはお前さんたちの名前から聞こうか?」