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第10話 指先の怪我

「先ほどは、差し出口を失礼致しました」

 アルベルト様は私とふたりきりの広い廊下で深々と頭を下げた。

「いえ、とんでもないわ。顔を上げてください、とても助かりました。時間を持て余すところだったから」

 私は慌ててアルベルト様の頭を上げさせようとする。

 アルベルト様とふたりきりになりたい!という欲望は常にあったものの、それとはべつに純粋に困っていたのだ。あの場ではアメリアに勉学の話をする人ばかりで、アメリアさえも私を気にかけてはくれなかったから。それどころか、アメリアはアルベルト様を傍に置こうと……。私は最後の嫌な考えを振り払った。

(ちやほやされたいだけよ、アメリアは)


 そしてようやく頭を上げてくれたアルベルト様に話しかける。

「それで……案内を頼んでもいいのかしら?」

「もちろんです、ベアトリクスご令嬢」

 名前を呼ばれて私の胸は高鳴る。

「どこか行きたいところはございますか」

「ええと……」

 私はしばし考える。行きたいところと言われても、何があるのかもわからないのだ。

「……まずは、アメリアの私室の場所を教えていただいてもいいかしら……。私、アメリアとお喋りしたいと思っても、部屋の場所を知りませんの」

「なんと」

 アルベルト様は心底驚いた様子だった。

「アメリア様は、ご自身のお部屋さえも貴女様にお伝えしていない?」

「構わないのよ」

 私は慌てて言った。

「お喋りしたいと思ったらリビングでできるわ。今日の勉学のように、別荘にいてもアメリアは忙しいようだから、あまり私といられる時間はないのかもしれないし……数日部屋にこもりきりだった私が悪いのよ」

「そんな、ご令嬢は頭痛に臥していらっしゃっただけではないですか。その……アメリア様は、ベアトリクスご令嬢のお見舞いには来られましたか」

 アルベルト様が難しい顔で私に訊く。そういえば、と私は思い出した。来なかった、アメリアは。けれどアルベルト様はアメリアの騎士団長。主を悪く言われて良い気はしないだろう。

「あの、私が、人払いをしておりましたので」

 そう答えたが、アルベルト様は難しい顔をしたままだった。


 アメリアの私室に近付くと、部屋の中からは優しげなエルンストの声が聞こえてきた。けれどその声は、呪文のような数式を唱えていた──。

「わからないわエルンスト! 意地悪しないで」

「ですから、まずこの関数を導き出して、それからこの三角形との交点を……」

 私もわからないわ。勉学ってどこにいても大変なのね……。さすがにアメリアを気の毒に思うけれど、この調子で帝王学まで修めていずれ国王になる相手のことなど考えたくはない。

「アメリア、大変そうね」

 それだけを言った私に、アルベルト様はきっと苦笑を返すのだと思った。けれど彼はとても真剣な顔をしたのだった。

「国家が、あのお方の肩にかかっています。エルンスト様のお教えは的確。のちに困るのはアメリア様です。あの方の魅力だけで、国を治めていけるのでしょうか」

 私は驚いてアルベルト様を見上げた。

 アルベルト様ははっとした顔をして、「失言です。どうぞお忘れください」とまた深く頭を下げた。

「貴女様の前だと思い、気が緩んでしまいました」

 そしてまた歩き始める。私の前で気が緩む? どういうことかしら、と思う。私は王族とはいえ傍系。国王になることはない。そのせい、だろうか。

(案外、アメリアのことをよく思っていないのかしら、アルベルト様)

 そんなことを考えていると、いつかの厨房へたどり着いた。


「そうだ、ずっとお伝えしたかったのです」

 アルベルト様はまだ無人の厨房を覗きながら口にした。

「ご令嬢が私にくださったクッキー、たいへん美味しかったです」

「まあ、そう? よかったわ、喜んでいただけて」

 私には少し塩を入れすぎたと感じられるクッキーだったけれど、お世辞にでも美味しかったと言ってくれるアルベルト様の気遣いが嬉しかった。

 それに、アメリアの騎士団長だというのに、悪名高い令嬢・ベアトリクスの作った菓子を食べてくれたのだ──。もちろん、アメリアと共同で作っていたところを見ていたからかもしれないが。

「私は、あんなに美味しいクッキーを食べたことはありませんでした」

 アルベルト様はにこやかに続ける。貴重な笑顔に心臓がバクバクと音を立てる。

「ま、まあ……言い過ぎよ、あなただっていつも、アメリアのお茶会でお菓子を食べているんでしょう?」

 さすがに当然の謙遜をするが、アルベルト様は真顔になる。

「いいえ、本当です。形もひとつひとつ綺麗で。それも、ご令嬢は世話になっている者に配ると仰りつつ、俺にしか渡さなかったと……」

 『俺』!!

 私は腰を抜かしそうになった。

 アルベルト様、素の一人称は『俺』なの!?

 ま、ますます素敵……知らなかった一面……などと思う私に、もうひとりの私がちょっとちょっとと肩を叩く。

(え! アルベルト様にしか渡さなかったこと、バレているの!?)

「貴女様には些細なことなのでしょうが、俺には特別で……たいへん、嬉しかった……のです」

 口元を抑えてアルベルト様は言う。

 これが乙女ゲームだったら、きっと好感度が結構上がった状態だ……。

「いえ、あなたには……この別荘で、誰よりもお世話になっていますから」

 私は照れながら告げる。

「アメリアと一緒にいるのだから、一緒に護衛するはめになることはわかっていますわ。それでも、私も護衛されていると思うと、心強いんですの」

 そうですか、とアルベルト様は微笑む。それから小声で呟いた。

「アメリア様は、やはりこの方に護衛の一人もつけていないのか……」


 空気を変えたくて、私は咳払いをした。

「アルベルト様、私、外の空気を吸いたくなったわ。外に出てもいいのかしら」

「私に“様”は不要です」

 アルベルト様は優しく笑ってくれた。それから、かまわないと言ってくれた。

「一足先にはなりますが、ご希望ならば庭に出ましょう。私がついていますので、好きな場所を散策されてください」

「ありがとう。そうね、アメリアが言っていたひまわりを見てみたいわ」

 私に花の心得はありませんが、と言いつつ、アルベルト様は私を、広大な庭の一角にある大きなひまわり畑に案内してくれた。

「まあ、綺麗……こんな大きなひまわり畑だったなんて、思いもしなかったわ」

「アメリア様は草花がお好きなようで」

 アルベルト様も隣で笑う。

「私に王族の嗜みはわかりませんが、このひまわりがとても美しいことはわかります。堂々と誇らしげに咲いて、それでいて空を見上げるさまは向上心の表れのようですから」

 アルベルト様らしいな、と私は思う。

 ひまわりを見て「向上心」と言う人なんて、ほかにいるだろうか。

「そうね、向上心……。アルベルト……の考え方って、どこまでもまっすぐなのね」

「また、差し出がましく」

 アルベルト様は頭を下げる。

「とんでもないわ、あなたの考えを聞けてとても嬉しいの。……アメリアとも、いつもこのような会話を?」

 やはり、勉学の部屋へアルベルト様を引き留めようとしたアメリアのことが気にかかり、私は尋ねた。

「いいえ」

 即答だ。

「私はアメリア様の単なる護衛。それが分相応でございます」


 ほかにも花が見たい、という私のわがままを聞いてくれたアルベルト様は、私を庭の別の場所へ導いてくれる。

「もうすぐ季節の終わる花です。お気に召していただけたら嬉しいのですが」

 そう言いつつ、青々とした灌木の横を進む。

 つやつやとした緑の葉。これはどんな花を咲かせるのかしら、と思い左手の指を茂みのうえに滑らすと、人差し指の先にちくっとした痛みが走った。

「あ……」

 灌木の枝で、指先を切ってしまったようだった。丸く血が滲んでくる。

「どうされました!?」

 半歩先を歩いていたアルベルト様が振り返る。

「ええと……なんでもないの」

 私は怪我をした左手を隠しつつ、右手でレースのハンカチを取り出す。身体の陰に隠してハンカチで傷口に触れると、途端白いハンカチに血が滲んだ。

「ベアトリクス様!」

 アルベルト様は顔面蒼白だ。

「な、なんでもないの、本当に。そこの茂みに、戯れに手を突っ込んでしまったのよ。そうしたらちょっとちくっと……それだけなの」

「私の責任です、申し訳ありません」

そ してアルベルト様は「失礼」と私のハンカチを手に取り、怪我をした指の根元にしっかりと巻いた。

「止血はこれで完了です。手当てをしに戻りましょう」

「でも……」

 こんな傷、日常茶飯事の生活を送っていたはずだった。それなのに、いまにも倒れそうなほど血を見るのがおそろしい。

「顔が紙のように白い。失礼致します」

 アルベルト様は私を横抱きにして走り出した。私は目を閉じると、そのまま意識を失ってしまった──。


「悪女とは、こうも儚いものなのか? 演技とは思えない、ただ年相応のご令嬢ではないか。俺としたことが、噂を信じたりして……情けない」

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