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第13話 お礼のマドレーヌ

 マドレーヌは無事焼き上がり、私は最近ひとりでも落ち着けるくらいには馴染んできたリビングのソファに、ひとり座っていた。この邸で私にも場所のわかるところは、私室として使っている客室以外に食事をいただくホール、アメリアの私室、そしてここリビングにまで広がった。すべてアルベルトのおかげだと私は思っている。

 ソファの前にはガラス製の小さめの卓がいくつか並べられている。そのうちのひとつに私はレースのランチマットを敷き、焼き上がったマドレーヌを大皿に盛って乗せている。うえには薄いペーパーをかぶせて。

 そして刺繍の練習をしていた。

 アルベルトはアメリアの護衛に戻っている。


 二十日から始めた刺繍はなかなかうまくいかず、もう二十二日だというのにアルファベットの一文字を縫うのもおぼつかない。

(やっぱり不器用ね、私って……。いえ、生まれながらの令嬢なんだもの、仕方がないわ)

 刺繍は、アルベルトへプレゼントするお守りに施すためのものだ。

 アルベルトは黒髪に少し吊り上がった赤い瞳の私に向かって、白百合のような人だと言ってくれた。だからお守り袋の生地は白い絹にすると決めている。刺繍は金文字にするつもりだった。金の糸で百合の花でも刺繍できたら、と思っている。

(花びらの部分を刺繍で盛り上がるようにしたかったのだけれど……私には難易度が高すぎるみたい。せめて、縁取りだけでも……)

 しかしこれもうまくいかない。

 また怪我をしてはアメリアの怒りの矛先がどこへ向かうかわからないので、私は指に刺してしまわないよう、慎重に針を練習用の絹地に通す。

(うん、なんとか『Albert(アルベルト)』に見えなくもなくなってきた)

 私はちょっと手を止めて、ひと休みしようと思う。マドレーヌが目の毒だ。アメリアはいつまでエルンストに勉強漬けにされているのだろう。


 その時、鈴のような少女の声が聞こえてきた。アメリアの声だ。

「クリストハルトお従兄さま! 私もうくたくたなの、歩けないわ!」

「ははっ、おまえが疲れたのは頭だろう、歩くに支障はないはずだ。それともまだ小さい頃のようにおぶってほしいのかな?」

「もうっ、そんなはずないわ、アメリアは淑女ですもの!」

 アメリアにクリストハルト、エルンストの穏やかな笑い声が聞こえてくる。

「淑女は勉学や礼儀、マナーも進んで学ぶものですよ、アメリア様。ねえ、アルベルト?」

 アルベルトはマドレーヌ作りの後にアメリアの護衛に戻っていた。エルンストに話を振られたアルベルトの、「は、はい……?」という困惑に満ちた声も聞こえる。

(アルベルト、アメリアの部屋の前で護衛をしていたのね)

 カツカツと響く軍靴の音がアルベルトのものだ。靴音が大きくなるにつれて私の鼓動も大きくなる。

(アルベルトにはもう味見という名目で食べてもらってはいるけれど。勧めてもいいものかしら?)

 そうこうしているとアメリアがリビングに飛び込んできた。

「お従姉さま! ここにいらしたのね。明かりが点いているから、もしかしたら、とは思ったの。エルンストが縛り付けるせいで、なかなかおもてなしできなくて、ごめんなさい」

「いいのよアメリア。それに、ここって寛げるわね。家具の設えなんかもとっても素敵」

 アメリアはエルンストが好きだから、わざと話を脱線なりさせて勉学の時間を延ばしているのだろうけれど、私はそこは黙っておいた。


「ところでアメリア、私、借りた厨房でアルベルトとマドレーヌを作ってみたの。よければ食べてくださらない?」

「まあお従姉さま、ありがとう嬉しいわ! 思ってもみなかった!」

 アメリアは目を輝かせて喜んだ。

「ちょっと焦げているところもあるけれど……」

「そんなの全然問題ないわ! お従姉さまが私のために作ってくださったというだけでもう嬉しいの!」

「これで、次の時間もがんばれますね」

 アメリアの傍で家庭教師のエルンストが微笑む。

「えっ!? 今日の勉学はここまでってさっき言ったじゃない! ひどいわ!」

 エルンストは「冗談ですよ」と言うには言ったが、憂い顔だ。

「アメリア様には早く帝王学を身に着けていただかなくてはならないのに、このやる気のなさ……」

 だって、とアメリアは口を尖らせる。

「私の周りには、エルンストみたいな頭のいい人がたくさんいるんだもの。私が勉強する意味なんてないのではなくって?」

「アメリア様、私どもはあくまで“従者”です。次期国王になられるのは貴女様なのですよ」

 アメリアはぷいっと横を向いて、「お従姉さまお手製のマドレーヌを食べているんです、邪魔をしないで」とマドレーヌを一口含んだ。


「みなさんも、よろしければ」

 私は勧めてみる。

「ここでお世話になっているから、私からの心ばかりのお礼です。でも、焦げたり、材料をちゃんと処理できていなかったりもするから、お茶会のお菓子のようなものとは思わないくださいね」

 ありがとうございます、と彼らは微笑んでくれた。

 なかでもアルベルトは、珍しくにっこりと、目を細めて。

「アルベルトにも手伝ってもらったの。私にお礼を言うなら彼にもお願いします」

 私が言うと、クリストハルトとエルンストが声を揃える。

「アルベルトが?」

「アルベルトってお菓子作りもできるのよ!」

 アメリアが得意げに言う。

「いえ、アメリア様」

「こねたり混ぜたりして生地を作るのを手伝ってもらったの」

 私も口を添える。

「ああ、なるほど」

「それなら納得できますね」

 クリストハルトとエルンストが顔を見合わせて笑う少し後ろで、アルベルトは真っ赤になって立っている。

(ちょっと気の毒になってしまうけど)

 私は思う。

(アルベルトったらあんなに真っ赤になって、かわいらしいわ)

「……。せっかくだからとびきり甘いミルクティーも用意しましょう?」

 そう言ってアメリアは私に微妙な笑顔を見せた。

 みなマドレーヌを食べてくれているが、美味しそうに笑っているのはアルベルトだけだった。

 どうやらマドレーヌは焦げた味がしたようだ……。

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