残念ながら、婚約もお茶会も夢ではなかったわ。
しかも、婚約が正式に発表されると、王立アカデミーの空気は一変。
肌をちりちり焼く嫉妬や羨望の視線は、予想していた。それならまだよかったのに。
――けれど現実はもっと陰湿で、まき散らされたガラス片みたく厄介。
まず、アカデミー内が、二つの色にくっきりと塗り分けられた。
片や、我がシャーデフロイ家に連なる、伝統と格式を重んじる貴族たち。旧家の令嬢たちがドレスを揺らす。
「まあ、ごきげんよう。ベアトリーチェ様」
「ええ……ごきげんよう。みなさん」
でも、令嬢たちには、この先の嵐を静観しようとする慎重さがあった。
そして、もう一方。飛ぶ鳥を落とす勢いのシューベルト宰相家に連なる派閥。主に、新興の家柄や、海を越えた商取引で財を成した外資系の貴族たち。
派閥の中心で、女王蜂のように君臨するのが、宰相の娘ツェツィーリア・ファン・シューベルト。
これ見よがしに高笑いを響かせ、挑戦的な視線を送ってくる。
すぐ後ろにいた令嬢らは、わたくしと目が合うと、気まずそうに目を逸らした。
(つい、先日までは一緒に談笑していた、お友だちでしたのに)
わたくしは望んでもいないのに、『シャーデフロイ派』とやらの象徴、張り子の
教室も、サロンも、図書館さえも。
チェスの盤上のように、見えない境界線で区切られてしまった。笑顔で牽制、隠された棘を探る、
「比較的、穏当に過ごせていた。と、思っておりましたのに。なんと、息が詰まるのでしょうね」
きっかけは明白、バージル殿下との婚約。
でも、まだ望みを捨てたわけではなかったの。バージル殿下次第では、なんとかできるかもしれないし。
わたくしはなけなしの勇気を振り絞り、殿下に歩み寄る努力を続けた。
「殿下、ごきげんよう。先日の歴史学のレポート、拝見しましたわ。古代シュタウフェン朝の聖杯伝説に関するあの考察、とても素晴らしかったですわね」
アカデミー中庭の木陰で、古書を読む殿下。めくる頁の匂いが、風に漂う。
わたくしは極めて、友好的に話しかけたつもりだったの。
けれど、殿下は顔も上げずに、北風みたいに言い放つ。
「そうか、それで?」
「えっ、それで、とは」
「学問の話にかこつけ、私から情報を引き出そうとしても無駄だ。ベアトリーチェ嬢。君の父親が、そう差し向けたのか? 悪いが、余計なことを口にするつもりはない」
氷の矢が、胸を貫いたような衝撃。
(違う。わたくしは、ただ、純粋にあなたと仲良くなりたかっただけでっ!)
そんな想いは、か細い吐息にすらならなかった。
殿下の側近、若い護衛騎士ローラント殿が、眉をひそめ諫める。
「バージル王子。淑女にそのような態度は、いささか紳士的ではないのでは?」
「止めるな、ローラント。むしろ、期待を掛けるような態度はとるべきではない。そちらの方が残酷だ」
「……しかし」
「互いに、割り切るべきだろう。そうではないか、ベアトリーチェ嬢」
取り付く島がない。ただ、ローラント殿が気の毒そうに見てきた。
結局、何度歩み寄ろうとしても、殿下はわたくしを「シャーデフロイ家の策略」という色眼鏡でしか見なかった。
横たわる、決して埋まらない深いクレバス。わたくしはその淵で立ち尽くし、愕然とするしかなかった。
「頼んでも、どうにもならないかもしれないけれど。話くらい聞いてくれてもいいじゃないの」
そんな中、一つの噂が耳に届くようになった。
「ねえ、お聞きになって? 最近、あの氷の王子様が、例の令嬢と話していらっしゃるそうよ」
「ええ、ギャニミード男爵家のルチア様でしょ? いつも中庭で、それはもう楽しそうに」
「平民から養女にしていただけた幸運だけでは、物足りなかったのかしら?」
「神職に携わる御家柄となれば、やはり特別扱いなのかしら。なんにせよ、羨ましいこと」
心が、ささくれだった。
(わたくしではダメだったのに? どうして?)
噂を確かめる、なんて殊勝な気持ちではなかった。
ただ、落ち着かない強迫観念に駆られてしまい、中庭が見渡せるテラスへと身を潜めた。
そこにいたのは、今まで見たこともないほど、穏やかで柔和に微笑むバージル殿下。
隣には、栗色の髪を太陽にきらめかせる、小動物のように愛らしい令嬢が、屈託なく笑っている。差し出した手作りらしきクッキーを、殿下はごく自然に受け取って、口に運んでいた。
ええ、一枚の美しい絵画のようで、実にお似合いだった。
わたくしという、異物さえいなければ。
(わたくしには、あんなお顔、一度たりとも見せたことがないのに?)
胸がぎゅうっと締め付けられる。
これは、嫉妬? いいえ、違う。もっと惨めで、どうしようもない敗北感。
わたくしがどんなに着飾り、優美な淑女を演じても、決して手に入らない。
そこに、背後から声がかかった。
「ごきげんよう、ベアトリーチェ様。コソコソと随分と惨めですこと」
そこにいたのは、勝ち誇った顔のツェツィーリア様。
「あなたに、わたくしの何がわかるというの」
「わかりますわよ。殿下は、腹黒い家の女がお嫌いなの。それに引き換え、ギャニミード嬢はなんて純真で可愛らしいことか。殿下がお側に置きたくなるお気持ちも、よくわかるわ」
皮肉たっぷりの言葉に、カッと頭に血が上る。
「ですけれど、殿下の婚約者はこのわたくしですわ。あなたではなくってよ、ツェツィーリア様」
「なんですって!?」
ツェツィーリア様の顔が怒りで歪む。
「ええ、それこそが最大の謎だわ! 本当なら、家柄も申し分なく、殿下とも昔から親しいあたしが、その場所にいるべきだった」
「もともと親しかった?」
「そうよ! 幼い頃から話し相手になって下さり、プレゼントも贈り合ったわ。なのに! いったい、あなたはどんな汚い手を使って、その座を奪い取ったのかしらねっ!」
告げられた事実に、むしろその通りだと思った。
(そう、どうして?)
家柄も、王子との親しさも、ツィツィ―リア様の方が上だ。その立場を、明らかに熱望している。殿下だって、わたくしのことなんて嫌っている。
(なのに、なぜ……婚約者は、わたくしなのかしら?)
――その夜。
自室で、答えの出ない問いに苛まれ、途方に暮れているわたくし。
「うう、ひっく。わけが、わかりませんわ」
「お嬢様、いつまでメソメソとなさっておいでで?」
けれど、この屋敷には、わたくしの都合を無視する使用人がいる。
音もなく入室してきた、専属執事イヅル。同情も慰めもない、さらさらとした砂の声で尋ねて来た。
「か、勝手に部屋に入って来るなんて、どういうつもりですの!」
「あまり、気が休まっておられないようでしたので。安眠を誘うハーブティーをお持ちしたまででございます」
差し出す銀盆には、わたくしが好きなカモミールティー。湯気が薫る。でも、苛立ちは止まない。
「あなたには、わからないでしょうねっ!」
思わず、枕を投げつけていたわ。柳がさらりと流すように、身体を少し傾けるだけでかわしてみせたけれど。
「このっ、このっ! わたくしの気持ちなんて、あなたなんかに、わかりっこないんですからっ!」
「そうですか。では、カモミールティーはご不要で?」
「それはっ! ……いるけどっ!」
ぬいぐるみとかを手当たり次第、投げつけてみたけど疲れるだけだった。肩で息をする間に、セッティングを整えるイヅル。
「もうっ! 本当にあなたって勝手ね。頼んでもいないことばかりするし」
「命じられてから動くようでは、二流でして。そもそも別に泣いても、状況は改善されないでしょう。涙の無駄ではないですか?」
「そんなこと、わかってるわよ!」
「でしたら、何故お泣きに?」
「それはっ! だってっ! 婚約が決まったのに、誰も祝福してくれないし! 王子様は冷たいし、アカデミーは居心地悪いし、ツェツィーリアは嫌味を言ってくるしっ!」
その上、ルチア男爵令嬢の方が、明らかに親し気な距離感。
「なるほど。つまり、お嬢様はなぜそのような状況に陥っているのか、ご理解なされていない、と」
「なっ!?」
イヅルはにっこりと微笑んだ。
カッチーン! どうしてこうもまあ、うちの執事は頭にくる言い方をするのかしら!
「失礼な! わ、わかっておりますわよ、それくらい!」
「おや、そうですか?」
単なる強がり。お見通しと言わんばかりに、磨かれた黒曜石が、わたくしを映そうとする。
耐えきれなくて、ぷいっと顔を背けた。唇が悔しさにわなわなと震える。
「ほら、でも、わたくしは寛大ですから? あなたの口から、答え合わせをすることを、特別に! 許して差し上げますわ!」
「おやおや。……お嬢様は、何と愛らしいことをおっしゃるのか」
ぼそりと呟き。イヅルは待ってましたとばかりに、眼鏡のズレを直す。
「では、僭越ながら。わたくしめからご説明いたしましょう」
あまりにもビターなチョコレート。そんな声で、イヅルは真実を告げ始めた。
「王家は、強大になりすぎたシューベルト侯爵家の力を削ぎたいのでございます。しかし、潰すまではしたくない。宰相は重要な人材であり、派閥は国家の収入源を担っているのでございますから」
「へ、へえ? それで?」
「自らの手を、王家は汚すわけにはいきません。悪事を働いていない家を傷つけ、権限を抑えるのは、他の貴族からしても認めがたいことなのです」
「それはそうよね。だって、そんな前例が出来たら、次は自分だってそうされるかもしれないし」
「その通り。で、ありますれば、別の派閥との対立を煽ることで、その合流を防ぎつつ、相争わせる方がよいとされたのやもしれませんねえ」
まあ、これは一介の執事の邪推にございますが。
そう嘯きながら、専属執事イヅルは、転がる枕やぬいぐるいみを片付け始めた。
え、それってつまり。
「シューベルト侯爵家の宰相派閥と、シャーデフロイ家を争わせようとしてるってこと!?」
「婚約については、確かにツェツィーリア様が有力候補だったそうです。そこに我が家が上がったのは、度重なる貢献への報いという、理由がござますが」
「ますが?」
「シャーデフロイ家は、様々な家門の不祥事、醜聞などを握り利用することで力を得てきました。まあ、潜在的な敵も多いのでございますねえ」
「そ、そんなの、悪いことした人たちがダメなんじゃない!」
「それはその通りですが。王としては、宰相という大狼を弱める、そのための『弾丸』として、我がシャーデフロイ家をお選びになったのでしょう」
つまり、この婚約は栄誉ある縁談などではなく。政争の最前線に立つことを命じる、決して逃れられぬ策略?
「お気づきになりましたか、金の首輪というやつですよ」
世界から、音が消えた。
イヅルは淡々と続ける。
「つまり、お嬢様は生贄です。このまま黙っていれば、王家の駒として使い潰され、用が済めば捨てられるだけの、哀れな子羊……ですね」
ひび割れた心に、追い打ちをかける残酷な真実。
「パパがそんなこと許すはずないわ、ママだって怒るもの!」
「かといって、王家に弓引くことが堂々と許されるはずもなく。名誉な褒賞に類するものではございますから、正当な理由なく断ることも難しく」
「う、うう……」
その夜、わたくしは思い切り泣いた。父を恨み、王家を呪い、自分の無力さを嘆いた。
東の空が白み始め、窓が薔薇色に染まる頃。
泣き腫らした赤い目で、わたくしは鏡台の前に座る。そこに映ったのは、ひどい顔の、哀れで、惨めで、無力な少女。
でも、もうこんな顔を見るのはたくさん!
「――冗談じゃないわ」
ぽつりと、掠れ声が唇から漏れた。
「誰が、使い捨ての人形になんてなってあげるものですか」
唇を強く噛みしめる。滲んだ鉄の味が、現実の苦さを教えてくれた。涙はもう枯れ果てた。
「子羊? いいえ、違うわ。わたくしは、シャーデフロイの『翼ある蛇』。食われるくらいなら、その喉笛に牙を剥いてやる!」
決意は、怒りとなって腹の底から湧き上がる。
そうだ。わたくしには、守るべき家がある。愛する領地の民がいる。そして何より、このベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイとしての、誇りがある。
「わかったわ。こうなったら、なってやろうじゃないの。金の首輪じゃ制御できないような、誰もが手を焼く、最悪で、最低の悪役の令嬢に!」
王家が、わたくしたちに悪役を望むのならば。ええ、やってやりますとも!
わたくしは、背後の気配に向かって、力強く命じた。
「イヅル! この国にある歴史上の悪女、毒婦に関する書物を、片っぱしから集めてきなさい! 今すぐに!」
いつのまにかそこにいた忠実なる影は、ゆったりと一礼。口元に、深い愉悦を浮かべていた。
「――喜んで。我が
この日、無垢なだけの令嬢は死んだ。
そして、一人の悪役が、血の味と共に、舞台に産声を上げる。
のちに、アカデミー史上最悪の悪役令嬢として語り継がれる少女。
ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイが、歪で健気で、ポンコツ滑稽な戦いの第一歩を踏み出した、記念すべき瞬間であった。
え、待って。ポンコツ滑稽なの? わたくし。