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第2話 悪役令嬢の産声

 残念ながら、婚約もお茶会も夢ではなかったわ。


 しかも、婚約が正式に発表されると、王立アカデミーの空気は一変。

 肌をちりちり焼く嫉妬や羨望の視線は、予想していた。それならまだよかったのに。


 ――けれど現実はもっと陰湿で、まき散らされたガラス片みたく厄介。


 まず、アカデミー内が、二つの色にくっきりと塗り分けられた。

 片や、我がシャーデフロイ家に連なる、伝統と格式を重んじる貴族たち。旧家の令嬢たちがドレスを揺らす。


「まあ、ごきげんよう。ベアトリーチェ様」

「ええ……ごきげんよう。みなさん」


 でも、令嬢たちには、この先の嵐を静観しようとする慎重さがあった。


 そして、もう一方。飛ぶ鳥を落とす勢いのシューベルト宰相家に連なる派閥。主に、新興の家柄や、海を越えた商取引で財を成した外資系の貴族たち。


 派閥の中心で、女王蜂のように君臨するのが、宰相の娘ツェツィーリア・ファン・シューベルト。

 これ見よがしに高笑いを響かせ、挑戦的な視線を送ってくる。


 すぐ後ろにいた令嬢らは、わたくしと目が合うと、気まずそうに目を逸らした。 


(つい、先日までは一緒に談笑していた、お友だちでしたのに)


 わたくしは望んでもいないのに、『シャーデフロイ派』とやらの象徴、張り子の女王クイーンになってしまったの。


 教室も、サロンも、図書館さえも。

 チェスの盤上のように、見えない境界線で区切られてしまった。笑顔で牽制、隠された棘を探る、冷たい戦争コールド・ウォーの最前線。


「比較的、穏当に過ごせていた。と、思っておりましたのに。なんと、息が詰まるのでしょうね」


 きっかけは明白、バージル殿下との婚約。

 でも、まだ望みを捨てたわけではなかったの。バージル殿下次第では、なんとかできるかもしれないし。

 わたくしはなけなしの勇気を振り絞り、殿下に歩み寄る努力を続けた。


「殿下、ごきげんよう。先日の歴史学のレポート、拝見しましたわ。古代シュタウフェン朝の聖杯伝説に関するあの考察、とても素晴らしかったですわね」


 アカデミー中庭の木陰で、古書を読む殿下。めくる頁の匂いが、風に漂う。

 わたくしは極めて、友好的に話しかけたつもりだったの。

 けれど、殿下は顔も上げずに、北風みたいに言い放つ。


「そうか、それで?」

「えっ、それで、とは」

「学問の話にかこつけ、私から情報を引き出そうとしても無駄だ。ベアトリーチェ嬢。君の父親が、そう差し向けたのか? 悪いが、余計なことを口にするつもりはない」


 氷の矢が、胸を貫いたような衝撃。


(違う。わたくしは、ただ、純粋にあなたと仲良くなりたかっただけでっ!)


 そんな想いは、か細い吐息にすらならなかった。

 殿下の側近、若い護衛騎士ローラント殿が、眉をひそめ諫める。


「バージル王子。淑女にそのような態度は、いささか紳士的ではないのでは?」

「止めるな、ローラント。むしろ、期待を掛けるような態度はとるべきではない。そちらの方が残酷だ」

「……しかし」

「互いに、割り切るべきだろう。そうではないか、ベアトリーチェ嬢」


 取り付く島がない。ただ、ローラント殿が気の毒そうに見てきた。

 結局、何度歩み寄ろうとしても、殿下はわたくしを「シャーデフロイ家の策略」という色眼鏡でしか見なかった。


 横たわる、決して埋まらない深いクレバス。わたくしはその淵で立ち尽くし、愕然とするしかなかった。


「頼んでも、どうにもならないかもしれないけれど。話くらい聞いてくれてもいいじゃないの」


 そんな中、一つの噂が耳に届くようになった。


「ねえ、お聞きになって? 最近、あの氷の王子様が、例の令嬢と話していらっしゃるそうよ」

「ええ、ギャニミード男爵家のルチア様でしょ? いつも中庭で、それはもう楽しそうに」

「平民から養女にしていただけた幸運だけでは、物足りなかったのかしら?」

「神職に携わる御家柄となれば、やはり特別扱いなのかしら。なんにせよ、羨ましいこと」


 心が、ささくれだった。


(わたくしではダメだったのに? どうして?)


 噂を確かめる、なんて殊勝な気持ちではなかった。

 ただ、落ち着かない強迫観念に駆られてしまい、中庭が見渡せるテラスへと身を潜めた。


 そこにいたのは、今まで見たこともないほど、穏やかで柔和に微笑むバージル殿下。

 隣には、栗色の髪を太陽にきらめかせる、小動物のように愛らしい令嬢が、屈託なく笑っている。差し出した手作りらしきクッキーを、殿下はごく自然に受け取って、口に運んでいた。


 ええ、一枚の美しい絵画のようで、実にお似合いだった。

 わたくしという、異物さえいなければ。


(わたくしには、あんなお顔、一度たりとも見せたことがないのに?)


 胸がぎゅうっと締め付けられる。

 これは、嫉妬? いいえ、違う。もっと惨めで、どうしようもない敗北感。

 わたくしがどんなに着飾り、優美な淑女を演じても、決して手に入らない。


 そこに、背後から声がかかった。


「ごきげんよう、ベアトリーチェ様。コソコソと随分と惨めですこと」


 そこにいたのは、勝ち誇った顔のツェツィーリア様。


「あなたに、わたくしの何がわかるというの」

「わかりますわよ。殿下は、腹黒い家の女がお嫌いなの。それに引き換え、ギャニミード嬢はなんて純真で可愛らしいことか。殿下がお側に置きたくなるお気持ちも、よくわかるわ」


 皮肉たっぷりの言葉に、カッと頭に血が上る。


「ですけれど、殿下の婚約者はこのわたくしですわ。あなたではなくってよ、ツェツィーリア様」

「なんですって!?」


 ツェツィーリア様の顔が怒りで歪む。


「ええ、それこそが最大の謎だわ! 本当なら、家柄も申し分なく、殿下とも昔から親しいあたしが、その場所にいるべきだった」

「もともと親しかった?」

「そうよ! 幼い頃から話し相手になって下さり、プレゼントも贈り合ったわ。なのに! いったい、あなたはどんな汚い手を使って、その座を奪い取ったのかしらねっ!」


 告げられた事実に、むしろその通りだと思った。


(そう、どうして?)


 家柄も、王子との親しさも、ツィツィ―リア様の方が上だ。その立場を、明らかに熱望している。殿下だって、わたくしのことなんて嫌っている。


(なのに、なぜ……婚約者は、わたくしなのかしら?)


 ――その夜。

 自室で、答えの出ない問いに苛まれ、途方に暮れているわたくし。


「うう、ひっく。わけが、わかりませんわ」


 繻子サテンの枕に顔を埋め、声を押し殺し泣く。こんな惨めな姿、誰にも見られたくはない。


「お嬢様、いつまでメソメソとなさっておいでで?」


 けれど、この屋敷には、わたくしの都合を無視する使用人がいる。

 音もなく入室してきた、専属執事イヅル。同情も慰めもない、さらさらとした砂の声で尋ねて来た。


「か、勝手に部屋に入って来るなんて、どういうつもりですの!」

「あまり、気が休まっておられないようでしたので。安眠を誘うハーブティーをお持ちしたまででございます」


 差し出す銀盆には、わたくしが好きなカモミールティー。湯気が薫る。でも、苛立ちは止まない。


「あなたには、わからないでしょうねっ!」


 思わず、枕を投げつけていたわ。柳がさらりと流すように、身体を少し傾けるだけでかわしてみせたけれど。


「このっ、このっ! わたくしの気持ちなんて、あなたなんかに、わかりっこないんですからっ!」

「そうですか。では、カモミールティーはご不要で?」

「それはっ! ……いるけどっ!」


 ぬいぐるみとかを手当たり次第、投げつけてみたけど疲れるだけだった。肩で息をする間に、セッティングを整えるイヅル。


「もうっ! 本当にあなたって勝手ね。頼んでもいないことばかりするし」

「命じられてから動くようでは、二流でして。そもそも別に泣いても、状況は改善されないでしょう。涙の無駄ではないですか?」

「そんなこと、わかってるわよ!」

「でしたら、何故お泣きに?」

「それはっ! だってっ! 婚約が決まったのに、誰も祝福してくれないし! 王子様は冷たいし、アカデミーは居心地悪いし、ツェツィーリアは嫌味を言ってくるしっ!」


 その上、ルチア男爵令嬢の方が、明らかに親し気な距離感。


「なるほど。つまり、お嬢様はなぜそのような状況に陥っているのか、ご理解なされていない、と」

「なっ!?」


 イヅルはにっこりと微笑んだ。

 カッチーン! どうしてこうもまあ、うちの執事は頭にくる言い方をするのかしら!


「失礼な! わ、わかっておりますわよ、それくらい!」

「おや、そうですか?」


 単なる強がり。お見通しと言わんばかりに、磨かれた黒曜石が、わたくしを映そうとする。

 耐えきれなくて、ぷいっと顔を背けた。唇が悔しさにわなわなと震える。


「ほら、でも、わたくしは寛大ですから? あなたの口から、答え合わせをすることを、特別に! 許して差し上げますわ!」

「おやおや。……お嬢様は、何と愛らしいことをおっしゃるのか」


 ぼそりと呟き。イヅルは待ってましたとばかりに、眼鏡のズレを直す。


「では、僭越ながら。わたくしめからご説明いたしましょう」


 あまりにもビターなチョコレート。そんな声で、イヅルは真実を告げ始めた。


「王家は、強大になりすぎたシューベルト侯爵家の力を削ぎたいのでございます。しかし、潰すまではしたくない。宰相は重要な人材であり、派閥は国家の収入源を担っているのでございますから」

「へ、へえ? それで?」

「自らの手を、王家は汚すわけにはいきません。悪事を働いていない家を傷つけ、権限を抑えるのは、他の貴族からしても認めがたいことなのです」

「それはそうよね。だって、そんな前例が出来たら、次は自分だってそうされるかもしれないし」

「その通り。で、ありますれば、別の派閥との対立を煽ることで、その合流を防ぎつつ、相争わせる方がよいとされたのやもしれませんねえ」


 まあ、これは一介の執事の邪推にございますが。

 そう嘯きながら、専属執事イヅルは、転がる枕やぬいぐるいみを片付け始めた。

 え、それってつまり。


「シューベルト侯爵家の宰相派閥と、シャーデフロイ家を争わせようとしてるってこと!?」

「婚約については、確かにツェツィーリア様が有力候補だったそうです。そこに我が家が上がったのは、度重なる貢献への報いという、理由がござますが」

「ますが?」

「シャーデフロイ家は、様々な家門の不祥事、醜聞などを握り利用することで力を得てきました。まあ、潜在的な敵も多いのでございますねえ」

「そ、そんなの、悪いことした人たちがダメなんじゃない!」

「それはその通りですが。王としては、宰相という大狼を弱める、そのための『弾丸』として、我がシャーデフロイ家をお選びになったのでしょう」


 つまり、この婚約は栄誉ある縁談などではなく。政争の最前線に立つことを命じる、決して逃れられぬ策略?


「お気づきになりましたか、金の首輪というやつですよ」


 世界から、音が消えた。

 イヅルは淡々と続ける。


「つまり、お嬢様は生贄です。このまま黙っていれば、王家の駒として使い潰され、用が済めば捨てられるだけの、哀れな子羊……ですね」


 ひび割れた心に、追い打ちをかける残酷な真実。


「パパがそんなこと許すはずないわ、ママだって怒るもの!」

「かといって、王家に弓引くことが堂々と許されるはずもなく。名誉な褒賞に類するものではございますから、正当な理由なく断ることも難しく」

「う、うう……」


 その夜、わたくしは思い切り泣いた。父を恨み、王家を呪い、自分の無力さを嘆いた。


 東の空が白み始め、窓が薔薇色に染まる頃。

 泣き腫らした赤い目で、わたくしは鏡台の前に座る。そこに映ったのは、ひどい顔の、哀れで、惨めで、無力な少女。

 でも、もうこんな顔を見るのはたくさん!


「――冗談じゃないわ」


 ぽつりと、掠れ声が唇から漏れた。


「誰が、使い捨ての人形になんてなってあげるものですか」


 唇を強く噛みしめる。滲んだ鉄の味が、現実の苦さを教えてくれた。涙はもう枯れ果てた。


「子羊? いいえ、違うわ。わたくしは、シャーデフロイの『翼ある蛇』。食われるくらいなら、その喉笛に牙を剥いてやる!」


 決意は、怒りとなって腹の底から湧き上がる。

 そうだ。わたくしには、守るべき家がある。愛する領地の民がいる。そして何より、このベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイとしての、誇りがある。


「わかったわ。こうなったら、なってやろうじゃないの。金の首輪じゃ制御できないような、誰もが手を焼く、最悪で、最低の悪役の令嬢に!」


 王家が、わたくしたちに悪役を望むのならば。ええ、やってやりますとも!

 わたくしは、背後の気配に向かって、力強く命じた。


「イヅル! この国にある歴史上の悪女、毒婦に関する書物を、片っぱしから集めてきなさい! 今すぐに!」


 いつのまにかそこにいた忠実なる影は、ゆったりと一礼。口元に、深い愉悦を浮かべていた。


「――喜んで。我が主演女優プリマドンナ


 この日、無垢なだけの令嬢は死んだ。

 そして、一人の悪役が、血の味と共に、舞台に産声を上げる。


 のちに、アカデミー史上最悪の悪役令嬢として語り継がれる少女。

 ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイが、歪で健気で、ポンコツ滑稽な戦いの第一歩を踏み出した、記念すべき瞬間であった。


 え、待って。ポンコツ滑稽なの? わたくし。

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