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第4話 踊れ踊れ、黒鷲と獅子

 バージル殿下の怒号は、フリーズしていた中庭の時間を動かす合図だった。


「答えろ、ベアトリーチェ嬢ッ。場合によってはただでは済まさんぞッ!」


 ひぃっ、と喉が引きつる。

 全身の血という血が、サーッと引いていく感覚。

 断頭台っ! 勘当っ! 国外追放っ! いえ、シャーデフロイ家お取り潰し?! あらゆる最悪の未来が駆け巡る。


「このような……扱いを受けたのは、生まれて初めてだ」


 バージル殿下は、己の胸元を汚す醜い染みを、信じられないと見下ろす。王家の象徴たる黄金の獅子が、暗黒に塗りつぶされていた。

 怒りに混じる驚愕は、裏切りにあったかのよう。それがかえって、わたくしの罪悪感を煽る。


(ど、ど、どうしましょう!? 謝罪ですわ、まずは謝罪! でも、どんな顔で!? どんな言葉で!?『わざとじゃないんです、本当は隣の女の子を狙ってました』なんて言えるわけないじゃない! あああ、もう! わたくしの人生、ジ・エンドですわーーっ!)


 もはやパニック。口から泡を吹いて倒れてしまってもおかしくない、そんな極限状態。

 そこに、すっと黒い影が割り込む。わたくしを庇うように。


「これはこれは、王太子殿下には大変なご無礼を」


 わたくしの専属執事、イヅル・キクチ。

 優雅にゆったりと恭しく一礼。眼鏡の銀縁がきらり。


「我らがお嬢様は、お転婆が過ぎますので。なんとも恥ずかしい限り」


 そしてイヅルが、見せつけるように懐から取り出したのは、装飾が施されたガラス小瓶

 先日、書斎で見かけた、例のシャーデフロイ家特製――染み抜き液。


(え、なぜ、あなたがそれを持ってるの?)


 それを硬直している護衛騎士ローラント殿に、にこやかに差し出した。


「さあ、ローラント殿。ひとまず、これをお使いください。我が家の特製染み抜き液です」

「あ……ああ、かたじけない」


 ローラント殿はほとんど無意識に、小瓶を受け取ってしまう。バージル殿下が鋭く制しようとした。


「待て、ローラント! そのような得体の知れぬものを」


 けれどよりも早く、イヅルが隔たる。大きな声で。


「しかし、驚きましたなあ」


 嘆きと侮蔑が、絶妙な割合でブレンドされた慇懃無礼な態度。


「たかが非力な令嬢一人が、近づいてつまづいただけ。それで殿下がこのような目に遭われるとは。警護の方々は、一体、何を、見ていらっしゃったのでしょう?」


 一言、一言、区切るように。教育の行き届かない、子供に言い聞かせるように。その指摘で、空気がぐにゃりと歪んだ気がした。

 今までわたくしという『加害者』一点に集中していた非難が、一転して、ローラント殿と、周囲の警護の騎士たちへと向きを変えた。


「これがただのインクでなく、酸や毒であれば? あるいは、忍び寄る暗殺者の凶刃であったなら? いやはや、考えるだけで、恐ろしいことでございますね?」


 ローラント殿の顔が、青を通り越し、蝋のような白さに変わった。

 わたくしの大失敗が、王太子警備体制の不備という、大問題へとすり替わってしまった! ローラント殿の騎士としてのキャリアが、今まさに断崖絶壁に!


(そ、そんなこと頼んでないぃぃいいっ!)


 でも、ここでわたくしが口なんか挟めるわけもなく。


「貴様、何を言っている? これは、そこの女の単なる暴挙であって」


 バージル殿下には、戸惑いが浮かんでいた。

 問いにイヅルは「心底不思議です」と言わんばかりに、わざとらしく、ことりと首を傾げてみせた。


「おや、殿下。このインクの“黒”に、何もお感じになりませんか?」

「黒だと? それがどうした」

「ええ。近頃、“黒鷲”がなにやら良からぬ企みと共に、王都上空を飛び回っていると、市井では専らの噂でございますが」


 黒鷲。宰相シューベルト家の紋章。

 ざわっ、と周囲が大きくどよめいた。令嬢たちが扇で口元を隠し、意味ありげな視線を交わし合う。


 イヅルは微笑みを崩さぬまま、こう言っているのだ。


 「これは、宰相家が王子の命を虎視眈々と狙っているという、我らシャーデフロイ家からの“警告”ですよ」と。


 ただの『うっかり事故』を、『政敵による暗殺計画を、シャーデフロイ家が身を挺して告発した』という、超高度な政治劇へと昇華させたのだ。


(えっ!? いつの間にそんなインテリジェンス溢れる話に!? ただわたくしがコケただけですのに!?)


 そこに騒ぎに駆けつけたツェツィーリア様が、顔を真っ赤にして叫ぶ。


「な、なんですって!? ふざけたことを! 我がシューベルト家への侮辱ですわ!」

「おや、ツェツィーリア様。私めはただ市井の噂を申し上げたまで。何か、お気に障りましたか?」

「あなた、自分の立場が分かってるのかしら!」

「これは独り言でございますが。聞いたところによれば、ここ最近の警備を担っている者たちは、宰相家と所縁がある者も増えておりますね? さすがは、栄えあるシューベルト宰相家」

「うっ……いや、それは。そう、なの、かしら???」


 ツェツィーリア嬢も、知らぬことを切り出されて混乱。そうなのか? 互いに顔を見合わせる貴族の子息令嬢たち。

 護衛の騎士達も怪訝そうにしてるけど、確かに気まずそうな顔を浮かべている人も幾人か。


「おやおや、だとしたら。たかだか娘一人の『うっかり』を止められぬ、警備体制になったのはなぜでございましょうか? これは、なにか原因があるのやもしれませんね?」


 ここまで言われてしまえば、原因究明はしなければならない。

 実際はアカデミー内での警備は、気を抜いていた。それが事実。

 だとしても、調べれば宰相家の息がかかった者など、周辺にいくらでも出てくるだろう。


(いや、でも。実際、シューベルト宰相家はなにもしてないですわよね? すべてはわたくしのドジによるものですわよね???)


 イヅルはツェツィーリア様を一瞥もせず、再び王子と騎士たちに向き直る。とどめを刺すように、この上なく挑発的に告げた。


「おや、ローラント殿。その染み抜き液、お使いになりませんか? 我が家の特製インクは、“それ”でなければ、永久に消せませぬ故」


 警備の穴が用意されていたからこその準備、いつでも元通りにするつもりの行いである。そう匂わせる。事実とは違うけど!


「もっとも。警護の穴を突かれて染み付いたこの“失態の染み”は、当分消えそうにございませんが」


 ――我々はあなた方に、いつでもチェックメイト出来るのに、あえて指摘してあげているのですよ。


 その宣告は、もはや呪いだ。

 バージル殿下は、ぐ、と奥歯を噛みしめ、屈辱に顔を歪めた。横顔は、熟れた柘榴みたいに赤い。


 黄金の獅子に汚点をつけられ、警護不備を指摘され、政敵への注意喚起をされ、その上で、忌み嫌うシャーデフロイ家の情けを受けなければならない。

 プライドの高い彼にとって、これ以上の地獄があるだろうか。


(ひゃぁあっ、バージル殿下が見たことない顔してる!?)


 歩く氷点下、笑わずの王子、アイスマン。確かに、その顔がボロボロに崩されてるけども!

 場の空気を掌握したことを確認すると、イヅルはようやく、わたくしへと振り返った。


「さあ、お嬢様。これ以上、警護の行き届かない危険な場所に、長居は無用でございます。参りましょう」

(え? なんで、わたくしも危険な場所にいる前提なの? 仕掛けた側なのに?)


 展開にまったく追いつけないわたくしの腕を、優雅に、しかし有無を言わせぬ力強さでエスコート。

 去り際、ぽかんとしているルチア嬢に、イヅルは聖人のような微笑みを向けた。


「ご安心を、ルチア様。純白のドレスが何一つ汚れず、本当に何よりでございました」

「え、あ、はい? ありがとうございます?」

「神職で在らせられるギャニミード男爵家が、今後もその使命を果たせますようお祈り申し上げます」


 暗に、貴女も危険な立場ですよ、と匂わせるような発言

 我に返ったようにハッとするバージル殿下。信じられない、という顔でルチア嬢とわたくしを見比べるツェツィーリア様。

 何もわかっていない顔で、にこやかに辞儀をするルチア嬢。


「はい♪ あなたにも祝福があらんことを」

「恐縮です。それでは」


 唖然とする、全ての役者たちを置き去りにして、イヅルは眼鏡のズレをスッと直すと。わたくしを連れ、悠々と後にしたのだった。



***



 屋敷へ戻る馬車の中。

 ガタガタという心地よい揺れが、ようやくわたくしを現実へと引き戻した。


「い、イヅル! いったい、ぜんたい、どういうことなの!? なぜあんなことを!」

「どう、とは? ビーチェ様の、練習の成果がまるで発揮されない、素晴らしいアドリブのおかげで、計画は予定を遥かに超える大成功を収めましたが。何か問題でも?」

「問題だらけですわ! あれはアドリブじゃなくて、ただの事故です! 練習の成果が出てなくて悪かったわね!」

「おや、そうでしたか。しかし観客らは、あれがお嬢様の仕組んだ計算に見えたようですね」

「あ・な・たのせいでしょ!」

「真実がどうであれ、人は見たいものを見るそうですよ、この世界は」


 イヅルはこともなげに言い、窓の外に目をやる。流れる景色。


「いやでも、嫌われる目標は、このうえなく達成されたような? いえ、それでも不敬罪なのでは!?」

「身を挺して、警備不備を訴えた令嬢に罰するのは、外聞が悪いでしょうね。しかも、婚約者ですから」

「そ、そういうもの!?」

「経緯はどうあれ、バージル殿下は婚約者を放置し、令嬢たちとお茶会。そこで現れた婚約者は罰を覚悟で、愛する人の危険を証明した。美談ですね?」

「嘘じゃない! ぜんぶ嘘じゃない!?」

「バージル殿下が、今までないがしろにしていたのは事実でございますから。あとは情報戦の領分」


 実際問題として調査が進めば、宰相派の関係者が、バージル殿下周辺の身を固めつつあったのは明らかになるので、問題の矛先が逸れやすい。

 そう、イヅルは説明した。


「スパイなど平時から、お互いに放っているのですが、指摘されてみると怪しく見えるものでございます。暫くは、宰相派も大人しくせざるを得ないでしょう」

「それは冤罪よっ! 詐欺師じゃないの!」

「しかし。彼らが手勢を広げようとしていたのは、あくまで事実なのです。おわかりですか?」


 イヅルは深い深い愉悦を湛えた笑みで、わたくしを見た。


「ご覧ください、お嬢様。最高のショーが、幕を開けましたよ。王家も宰相家も、今頃は頭を抱えていることでしょう。貴女という予測も制御も不能な、主演女優プリマドンナの存在にね」


 わたくしは納得いかぬまま、シートに深くもたれかかる。


「の、望んでない方向なのにぃぃいい……っ!」


 思わず脱力。

 知らないところで、とんでもなく巨大で複雑な、面倒くさい歯車が、ギシリ、と錆びた音を立てて回り始めていた。

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