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第5話 波紋が広がる、バーレスク

 あの一件。

 後に、王立アカデミーの歴史に『インクテロ事件』と記されることになる(非常に不本意ですわ!)大騒動の翌日。

 当然ながら、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。


「つまり、これは一体、どういう茶番なのだ?」


 シュタウフェン王朝の現国王は、深く皺の刻まれたこめかみを、指でさすりながら言った。呆れと、ほんの面白がる響きを乗せて。


 机の上は、さながら三竦みの戦場だ。

 王太子バージルからの、若さゆえの怒りに満ちた緊急報告書。宰相シューベルト侯爵からの、筆圧が強すぎる激烈な抗議文。

 そして、シャーデフロイ伯爵から届けられた「お見舞い」と称する、極めて丁寧かつ、慇懃無礼な書簡。

 三者三様の文書が、事件の複雑怪奇さを物語る。


「報告書の通りです、父上」


 父王の前に立つのは、いまだ悔しさと屈辱に強張らせるバージルだった。

 一睡もできなかったのか、目が腫れあがっている。


「あの女。ベアトリーチェ嬢が、公衆の面前で私にインクを浴びせかけ、事実無根の言いがかりでシューベルト侯爵家を貶めたのです。断じて許されることでは――」

「だが、お前の警護に、致命的な隙があったのも事実であろうが」

「それはっ! しかし、あれはきっと意図的な嫌がらせでっ!」

「仮に、そうだとして。シャーデフロイの令嬢に何の利がある? 国母となる栄誉を目前にした娘が、わざわざお前にインクをぶちまけて、どんな得があると申すのだ」


 剃刀の如き問いに、バージルは言葉を詰まらせる。


「それは……私には考えられません。あれは言ってしまえば、狂人の行い。そう、正気の沙汰とは思えません」

「そうか? わしには、そうは思えんがな」


 国王は、シャーデフロイ伯爵からの手紙、封蝋を小指の爪でカリ、と弾いた。


「『この度の件、娘が殿下にご心酔申し上げるあまり、常軌を逸した行動に出ましたこと、平にご容赦を。つきましては、お詫びの印に、我が家の秘蔵のワインと“警備強化のためのささやかな情報”を献上いたします』だと。ウェルギリめ、どこまでも食えん男よな」


 ビーチェの凶行を「盲目的な恋慕のせい」とすり替え、その上でちゃっかりと貸しを作りに来る。まさに、血をすする毒蛇のやり口。


「一見、利がない。だからこそ『お前のために汚名を着てでも、不備を警告した』という、悲劇的美談が成立してしまうのだ。愚か者め」

「ベアトリーチェ嬢は、一片たりとも、私にそのような感情を抱いているはずがありません!」

「そう、それだ。少々、お前は婚約者を公然と突き放し過ぎたな。無下に扱われ続けた哀れな娘が、愛ゆえに己を顧みず殉教した。などという物語は、社交界のハイエナどもにとっては極上の蜜の味だ」

「……ぐっ」


 実態よりも、話題性に富むというのが問題だった。

 婚約者をないがしろにした上に、その悲痛な訴えを罰したとなれば、王家の権威に傷がつく。


「女の扱いを覚えろ、バージル。お前は硬すぎる」

「令嬢に媚びへつらい、腹の内を探れとでもおっしゃいますか」

「それが有効ならそうしろ。まあ、よい。バージル。此度の件、結果として宰相派は身動きが取りづらくなった。さらに王都の貴族たちは、改めてシャーデフロイ家の不気味さと、お前とあの家との繋がりを目に焼き付けた。これもまた事実だ」

「では父上は、あの女の蛮行を許すと!?」

「許す、許さぬの話ではない。カードの遊戯とでも思え。シャーデフロイは、とんでもないジョーカーを場に切ってきた。我らも、次の一手を考えねばならん、ただそれだけのことよ」


 悔しげに唇を噛む息子を一瞥し、国王は「下がれ」とだけ命じた。

 背中を見送り、一人残された執務室で、王は愉しげに口の端を歪めた。


「フフ、バージルにとっても、良い薬になったであろうか。あれは少々、潔癖に過ぎる。人の機微、策略の汚濁、そういったものを、もっと啜らねばな」


 宰相シューベルト侯爵からの、抗議文に目を留める。ここまで激情を露わにした奴の文字は久々に見た。おそらく、本当に何も知らなかったのだろう。


「だが、奴にとっても疑心暗鬼の種は蒔かれた。預かり知らぬところで、息のかかった者たちが何を企むか分からぬ、とな。下手に動けば、全ての疑いの目が向いてしまうからこそ、自陣の引き締めをせねばならなくなった。……実に、見事な牽制だ」


 しかし、厄介なことになった。宰相派とシャーデフロイ派を争わせるつもりが、片方に肩入れした形になってしまった。盤上のバランスが崩れかけている。


「ベアトリーチェ、か。ウェルギリの娘め、ただの狂人のはずがなかろうな。あの老獪な蛇が、何の仕込みもなく娘を放し飼いにするはずもない。一体、何を考えている?」


 予測不能な新たな差し手の登場。国王は、それがもたらす厄介さへの警戒を抱きつつも、老いた心に宿る闘争心に、未知への刺激が灯るのを感じていた。



***



 その頃、シャーデフロイ伯爵邸。


「それで? この惨状を、どう説明してくれるのかね? 我が愛しのビーチェ、そして“誰より有能な”執事殿」


 書斎に、地を這うような声が震えた。

 父、ウェルギリ・ファン・シャーデフロイ伯爵は、普段の親バカな顔を封印。

 恐るべき毒蛇としての顔で、わたくしたちを見据えていた。

 わたくしは、必死に言い訳を考えた。


「そ、その、パパ。これは……不慮の事故と申しますか」

「事故で王太子にインクをぶっかけ、宰相家に宣戦布告まがいの挑発をし、アカデミーを巻き込む大騒動になる、と? ベアトリーチェ、お前は私のことを、それで納得するほど耄碌した父親だと思っているのかね?」


 ひぃっ! め、目が笑ってないっ!

 でも、こっちにだって、言い分があるもんっ!


「パパだって! この縁談にひどい裏があるなんて言わなかったじゃない! わたくしを売ったわね、この裏切り者! ママに言いつけてやるんだからっ!」


 わたくしが半ばヤケクソで叫ぶと、父の毒蛇の仮面に、ピシリ、と亀裂が入った。そう、我が家での最強権力者は、何を隠そうママなのだ。

 よし、効果は抜群だわ!


「ま、ママは関係ないだろう」

「関係なくないですわ! 愛する一人娘を、政争の生贄に差し出したなんて知ったら、ママは悲しみのあまり三日三晩寝込んで、パパとは一ヶ月は口をきいてくれなくなりますわよ! なんならもうっ、別居ですわっ!」

「ぐっ。それは、困る……っ」

「うわーん、ママぁー! パパがぁーっ! わたくしの純情を弄んで、お城に売り飛ばしましたーっ!」

「待て! その不名誉極まりない言い方はやめろっ! 大声で呼ぶな、頼むから、冷静に話し合おうじゃないかっ!」


 ほれ、見たことか! そこで、わたくしは畳み掛ける。


「だいたい、わたくしだって好きでやったわけではないのです! すべては、シャーデフロイ家と、パパと、領地の民を守るため! その一心で、このわたくしが! 必死で! 悪役を演じようとした結果なのですわ!」


 胸を張り、力強く主張する。もちろん、瞳は潤ませて上目遣い!

 そうよ、元はといえば、王家の策略を看破しながらも、それに乗るしかなかったパパのせいでもあるんだから。


(わたくしがどれだけ傷つき、惨めな思いをしたと思ってるの! どうせ、アカデミーでどんな目に遭ってたかも、知ってたんでしょう! むぅーーっ!)


 必死の主張に押し黙り。やがて、深~いため息をついたパパ。先程までの猛毒はすっかり抜け落ちている。


「すまなかった、ビーチェ。お前に、あまりにも重い荷を負わせてしまった。だが、あの時点ではこれしか手がなかったのだ」

「パパ……」

「というか、正直に話したら、いったいお前が何をしでかすか。まるで予想できず怖かったのもある」

「パパ?」


 ちょっと、それどういう意味なのよ。パパ!


「だが、結果は悪くなかった。シューベルト宰相の鼻を明かし、王家には大きな貸しを作った。両者の関係性にも、楔を打ち込んだ。何より、お前自身を『ただの令嬢ではない』と、この国の者たちに知らしめたのだ」


 それはそれで荷が重すぎるのですけども。もっと間をとる方法はないのかしら?


「で、だ。……イヅル」


 鋭い視線が、わたくしの後ろに控える影へと移る。

 イヅルは、するりと一歩前に進み出て跪いた。


「は、ここに」

「この、常軌を逸した場当たり的奇策は、どう考えてもお前の入れ知恵だろう。違うか?」


 え。うーん、作戦自体は、わたくしの独断だってば。

 『麗しの白百合に、消えぬ染みを』作戦。名前は気に入ってるの。


「いいえ。すべては、ベアトリーチェお嬢様の類稀なる発想と、アドリブ力によるものでございます。私めはただ、お嬢様が怪我をなさらぬよう、付き従っていたに過ぎません」

「ほほう?」

「お嬢様は、我らキクチ家に伝わる謀略論の基礎を、すでにご自身のものとされ。あの場で瞬時に応用されたのです。そのご成長たるや、このイヅル、感服の念に堪えません。まさに『翼ある蛇』の血統、末恐ろしい御方です」


 事実と嘘と脚色をミルフィーユみたいに重ねて、最終的にとんでもないものをお出ししてませんこと、この執事っ!?


「ちょっ、待ちなさい。イヅル、明らかに致命的な脚色が――」


 わたくしが口を挟むより早く、イヅルは眼鏡を外して涙を拭うフリまでする。なんて白々しい!


「何たる成長の早さっ! この私めを、赤子の如く手玉に取り、駒としてお使いになられるそのご器量! ああ、このイヅル、生涯をかけてお仕えする主君を得た喜びで、胸がいっぱいでございます!」


 しかし、パパは娘に甘い。そして、思い込みも激しい。

 イヅルの大仰な賛辞を聞いて驚き。やがて、じわじわと感動へ変わっていった。


「な、なんと!? そうか、我がビーチェは、すでにそこまでの高みに。くっ! 何も見えていなかったのは、父親である私の方だったというのかっ!」


 パパの目にも、うっすらと光るものが。わたくしの両肩をがっしりと掴む。


「よくやった、ビーチェ! よくぞ、我が娘として、シャーデフロイ家の誇りを天下に示してくれた! さすがは私の子だ! 嬉しいぞ!」

「えっ、あ、は、はい!?」


 この流れで「違います、ただポンコツにコケただけです」なんて言えないじゃない! すごく良心がキリキリ痛むのよー!!


「あの、わたくしはまだ未熟者ですので。あまり重い期待を寄せられるのは、その……」

「うむ。確かに、イヅルの補助あってこそだったやも知れぬ。だが、忘れるな。こやつが動いたのは、お前が自ら行動したからだ」

「行動、したから?」

「そうだぞ、ビーチェよ。覚えておきなさい。檻で待つだけの子羊は、ただ食われるだけだ。たとえ、不格好に転んだとしても、牙を剥こうともがいた者だけが、盤上を動かす資格を得るのだ」


 いいこと言われているのはわかるのだけど、「不格好に転んだ」という部分だけ、比喩じゃなくて事実だから、心がチクリとするわー。

 パパは、わたくしの頭を不器用に撫でた。


「よくやった、我が娘よ。だが次は、もう少し。その、なんだ? 心臓に優しいやり方を頼むぞ。……パパ、困っちゃうから」

「……はい、パパ」


 本当にしんどそうな顔をされてしまったので、こくこくと頷くことしか出来なかった。ごめんなさいね、パパ。


 こうして、史上最大の失態は、何故か父と娘の感動の和解(という名の、壮大な勘違い)で幕を閉じた。

 わたくし一人、納得がいかないまま。


 書斎から解放され、自室に戻る廊下を歩きつつ、隣を歩く元凶をジト目で睨む。


「あなたって、本当に、口から出まかせばかりですのね。イヅル」

「おや? 一点の曇りもない事実を述べたまでですが」

「どこがですの! 謀略論!? 応用!? 初耳ですわ! わたくし、そんなこ難しいこと、教わっておりません!」

「おお、そうでしたか。教えていないことまで出来てしまうのですから、お嬢様はやはり、まごうことなき天才なのですよ」

「……もう、いいですわ」


 この男に何を言っても無駄だということを、わたくしは、また一つ学習した。

 ああ、本当に。わたくしの周りには、食えない大人ばかりだわ!


「ただ。お嬢様が努力家の才女であること自体は、疑いようのない事実かと存じます」


 そっと、足すように掛けられた言葉だけは、どうやら本気であるらしかったので。なんだか、かえって何も言い返せなくなった。

 認めてくれていない訳じゃないのよね。ただ、面白い玩具として遊ばれている気がしてならないのだけど。



***



 そして、アカデミー。

 事件から、わたくしへの風当たりは、もはや逆巻く暴風雨と化していた。


「見まして? あの方……シャーデフロイ家の魔女よ」

「王太子殿下にあのような前代未聞の無礼を働き、謹慎にすらならないなんて!?」

「よほど、後ろ暗い力をお持ちなのね。いえ、目を合わせるのすら恐ろしいわ」


 廊下を歩くだけで、今まで牽制しあっていた宰相派の令嬢たちが、海を割る奇跡のように避けていく。

 す、すごい! これぞまさしく、悪役令嬢としての威光!


「でも、さすがにこれは寂しいかも」


 というか、なんで味方であるはずのシャーデフロイ派の子たちまで、より一層遠巻きになっているの? ねぇ、味方じゃないの?

 うー、まあいいわ! これも作戦のうちよ! きっと、そう!


 と、無理やり気を取り直そうとしたその時。


「ベアトリーチェ様っ!」


 暗雲に差し込む一筋の陽光、明るく、ぱたぱたと駆け寄ってくる影が一つ。噂の的、ルチアだった。

 周囲の冷たい視線も気にせず、わたくしの手を取って、ぶんぶんと子犬のように振る。


「大変だったのですね! でも、ご無事でよかったですぅ!」

「え、あ、はい。あの、わたくしたち、そこまで親しい間柄でしたかしら?」

「バージル殿下が、すっごく怒っていらっしゃいましたけど、後でローラント様がこっそり教えてくれました! 『あれはきっと、ベアトリーチェ様が、私や殿下の身を案じて、体を張って警告してくださったに違いないのだ』って! なんて勇敢で、お優しい方なのでしょう!」

「ば、バージル殿下がすっごく怒ってた……!?」


 ち、ちがう! 断じて違うのよ、ルチア! その解釈は、もはや幻想の域に達しているわ!

 ローラント殿、護衛のあなたまで何を妙な深読みを!

 でも、ルチアのあまりにキラキラした瞳に、わたくしは真実を告げることなんてできやしない。


「そう、ですの……まあ、おわかりいただけて、何よりですわ」


 引きつった笑顔でそう言うのが、精一杯だった。

 もはや、真実を告げると、わたくしの立場どころか、ローラント殿の騎士生命まで危うくなる段階に来ている。無理よ、この純粋な瞳に「あなたにインクをぶっかけようとして失敗しました」なんて言えないわ。


 そんなわたくしたちを、二つの強烈な視線が見つめていた。

 一つは、苦虫を百匹ほど噛み潰しす、バージル殿下のお顔。

 もう一つは、「どうしてあんな女がっ!」と、レースのハンカチを噛みちぎらんばかりに悔しがる、ツェツィーリア様。


 ああ、神様。

 わたくしの目的は、ただ穏便に婚約破棄をすることだったはずなのに。

 どうして、こんなにも事態が複雑に、面倒くさく、そして、とんでもない茶番劇バーレスクに転がっていってしまうのでしょうかっ!?


 わたくしの受難は、まだ始まったばかり。

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