王立アカデミーの敷地はずれにある、旧温室。
大温室が作られてからは、ここは恋人たちが忍び込む、逢瀬の場所の一つとして扱われてしまっている。
とはいえ、点在する魔晶ガラスを通し、差し込む淡い光は、儚く美しい。月光浴に興じる植物からは、柔らかく甘い香りが満ち溢れていた。
ぽつんと、設置されているベンチに座る。
「なんだか、意外とロマンチックな場所なのね」
こういうお誘いに乗ったこともなかったので、知らなかった。
素敵な発見だ。薄闇に閉鎖空間。密会の雰囲気がいやがうえにも盛り上がる、と言ったところなのだろう。
わたくしは、今日のために用意した、胸元がいつもより少しだけ大胆に開いた深紅のドレスを翻す。
内心では、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張しているけれど、逃げるわけにもいかないし。
「ちゃんとイヅルは、どこかに控えてるのかしら」
頼るようなことには、ならないと思うが。
唇には、いつもより濃い、熟れた果実のような色のルージュ。暗いなかで、映える化粧というものを考えた日がなかった。
「恋というものをすれば、そういうことも考えたのかしら?」
でも、結局は、婚約者だってドレスを褒めてくれないような人だったものね。
やがて、温室のガラス扉が軋み、長身の影が伸びる。
「おや、もう来ていたのか。殊勝なことだ、ベアトリーチェ」
現れたのは、シューベルト侯爵家の嫡男、ヒュプシュ卿。
記憶通りの整った顔立ち。夜色の髪、自信に満ちた藍の瞳。切れ者ぶりを発揮する若きエリート。
でも、あの“悲恋の断片”を読み、わたくしを御しやすい獲物だと、高を括っているに違いない。
「ほう。普段のドレスとは、違った趣向だな。美しいものだ」
ヒュプシュ卿は品定めするように、わたくしを上から下まで眺める。
(大丈夫よ、ビーチェ! 悪女になるのよ! あなたは、男を手玉に取る、
マニュアル通り、マニュアル通り!
『歴史に学ぶ、男を惑わす悪女のテクニック 百選』第三章、視線だけで男を虜にする!
「まあ、ヒュプシュ卿。お会いしとうございましたわ」
練習通り、悩ましげな吐息を漏らし、ゆっくりとベンチから立ち上がる。
そして、潤んだ瞳で彼を見つめ……ようとしたけど、目が合ってすぐに逸らしてしまった。だ、だって、思ったより威圧感がすごい!
「えっと。あなたの、その理知的な瞳に見つめられると。わたくし、まるで、熟した果実のように、とろけてしまいそうだわ。そう……芯まで?」
練習したセリフを、なんとか絞り出す。でも、声は情けないくらい上ずって、顔はきっと林檎のように赤いはず! もうダメ!
ヒュプシュ卿の顔からすっと笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、戸惑いと……呆れ?
「んん? お前、まさか、これは父親の差し金か?」
「まあ、そんな固い話はおよしになって。今宵は、あー、月がその、綺麗、ですわね?」
「月が綺麗、だと。ベアトリーチェ。聞いていた話と、随分と違うじゃないか。まるで出来の悪い役者が、無理に台本を読んでいるようだ」
「そ、そんなことはありませんことよ! そう、愛の炎が胸に燃えているわ!」
「ほう? では、本心から、俺に気があると?」
ちぐはぐな会話に、ヒュプシュ卿の目が、すっと鋭く細められた。
まずいわ! 彼、疑いを持ち始めている!
「も、もちろんですわ! 熱く、焦がれるほどに! あなたを想うと、夜も眠れなくて!」
「ほう?」
ヒュプシュ卿は一歩、また一歩と、わたくしとの距離を詰めてくる。
思わず、後ずさるわたくし。背中がひんやりとしたガラスの壁にぶつかった。逃げ場がない!
「では、聞こうか。お前の父君……ウェルギリ伯爵は、次に何を企んでいる?」
わたくしは慌てて、思い出す。第四章、男の理性を麻痺させる、甘い話題転換術!!
「ち、父のことより、わたくしのことを、考えてほしいなー……なんて。うふふっ?」
ヒュプシュ卿は、黙り込んでしまった。
え、まずかったかしら?
「そ、それに、この温室の花の香りも、きっとあなた様を歓迎して」
「もういい」
ヒュプシュ卿は、威圧的な声でわたくしの言葉を遮った。
つかつかと数歩、距離を詰められもう間近。満たされた花の香りに、彼の纏う、ほろ苦い香水が混じった。
「なあ、ベアトリーチェ嬢。一つ、聞いてもいいか?」
「は、はひぃっ!? 何でございましょう?」
近い、近いわ! この方、紳士淑女の距離感をご存じないのかしらっ!?
「お前は、本当に俺のことが好きなのか?」
心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
深い藍色の瞳が、わたくしの嘘を、すべて見透かそうとしている。
「もちろんですわ! 熱く、焦がれるほどに! その証拠に、こうして、わたくし、あなた様に会いに」
「ならばっ!」
温室の壁をドン!と叩いた。これが書物にあった壁ドンというやつ!? きゃーっ! わたくしには、まだ早いわ!
至近距離で覗き込んでくる、藍色。もう、わたくしにはなにがなんだかわからないっ!
「口づけくらいは、出来るのだろうな?」
「ひぃっ!?」
き、キスですって!? 計画にはないわ! マニュアルにはあったけど、練習なんかしてるわけないものっ!
「本当に俺を好いているというのなら、その証拠を見せてみろ」
大きな手が、わたくしの顎をくい、と掴む。
端正な顔が、すぐ目の前に。わたくしの頭は、完全にショート。
(どうしましょう! あ、唇が、くちびるがーーっ! 人生終わっちゃうっ! ――ああ。なら初めては)
――そう、せめて初めては。
パニックで目を固く閉じた、その瞬間だった。
ガッシャァァァン!!!
温室のガラスの扉が、凄まじい音を立てて蹴破られる。
そして、そこに飛び込んできたのは。
「――そこまでだ、ヒュプシュッッ!」
怒りで顔を朱に染めた、バージル殿下その人だった!
「なっ、殿下!? なぜ、あなたがここに!?」
「我が婚約者に、汚らわしい手で触れるな! 万死に値するぞ!」
「そ、そんなっ」
遅れて飛び込んできた騎士ローラントが、剣に手をかけ、退路を塞ぐように立つ。
「ヒュプシュ卿、もはや逃げ場はありませんぞ!」
三人の男たちの怒号と剣幕。もう、温室は完全な修羅場と化していた。
ヒュプシュ卿は、この状況が信じられないとばかりに顔を歪める。
「これは罠かっ! シャーデフロイの魔女め、俺を嵌めるために殿下まで呼び込んでいたのか!」
バージル殿下は、わたくしとヒュプシュ卿を交互に睨みつける。え、その眼はどういう気持ちの眼なの? っていうか。
(計画と全然違う! なんで殿下自ら、わたくしを助けに来るみたいな展開になってるのよーっ!)
頭を抱えてしゃがみ込みたいけど、必死でこらえる。
さらに、なぜか駆けつけてきた誰かに抱き着かれる。むぎゅー??
「ビーチェ様! ルチアは、ルチアは心配しておりました! 遅くなっても申し訳ございませんっ!」
「な、なぜ、ルチアまでいますの???」
「ビーチェ様が、狙われているとの投書があったのです! 何者かの妨害もあり、こんなタイミングに! うう、殿下という婚約者がいるのに、なんて卑劣なことを!」
慌てて、ヒュプシュ卿が弁解しようとする。
「ち、違う! これは、俺からというか、この女が好いてると……そうだ、少なくとも合意なんだっ!」
が、それより早く、バージル殿下が重い口を開いた。
「見苦しいぞ、ヒュプシュ。言い訳は聞かぬ。このベアトリーチェ嬢が、男に軽々しく身を許すような、浅はかな女ではないことくらい、この私が一番よく知っている」
「「「えっ?」」」
わたくしと、ルチアと、ヒュプシュ卿の声が、綺麗にハモった。
い、今、この朴念仁王子、なんて言ったの!?
「令嬢が己の身を囮に、事件を解決しようとしていたのはわかっている。貴様が卑怯な手で、呼び出したこともな」
「なっ!? お、覚えが! 俺は覚えが全然ないっ!」
「外国勢力と手を組んで、貴様が怪しい根回ししていたことくらい証拠が挙がっているのだ!」
「それと、これとはっ!? それ、今全然関係ないやつじゃないかっ!」
あれ、バージル殿下が「宰相派が、わたくしを罠に嵌めた」と、斜め上の深読みをしている???
「あ、あのー。殿下?」
「問答無用っ! ローラント、この男を引っ立ていっ!」
「ははっ、直ちに!」
もう、話を聞いてもらえない!
あっという間に、押し寄せて来た騎士たちに連行されていく、ヒュプシュ卿。
唖然とするわたくしに、バージル殿下は、フン、と鼻を鳴らした。
「君もやりかたを選べ。あんな安っぽい男に、隙を見せるな」
「は、はいぃ!?」
「これも、何か事情があってのことなのだろうがな。まったく本当に、手が焼ける」
そう言い残し、バージル殿下はどこか疲れたような、でも、心配するような眼差しを向けて去っていく。
(なんですの、今の!? あの態度、全然嫌われてないじゃないの!? むしろ、庇われた!?)
計画は、またしても大失敗。
結局、この大騒動の後。ヒュプシュ卿は『王太子の婚約者に無理強いをした卑劣漢』として捕縛。責任を追及されててしまい。
わたくしの作戦は、婚約者の貞操の危機を、愛に燃える王子様が救った、という、とんでもない英雄譚にすり替わってしまった。
あ、あれ? ねえ、ちょっと神様!
婚約破棄への道は、どうしてこんなにも、遠くて険しいのでしょうか! わたくし何かしました!?