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第8話 ファム・ファタールは、キスがお嫌い

 王立アカデミーの敷地はずれにある、旧温室。

 大温室が作られてからは、ここは恋人たちが忍び込む、逢瀬の場所の一つとして扱われてしまっている。

 とはいえ、点在する魔晶ガラスを通し、差し込む淡い光は、儚く美しい。月光浴に興じる植物からは、柔らかく甘い香りが満ち溢れていた。


 ぽつんと、設置されているベンチに座る。


「なんだか、意外とロマンチックな場所なのね」


 こういうお誘いに乗ったこともなかったので、知らなかった。

 素敵な発見だ。薄闇に閉鎖空間。密会の雰囲気がいやがうえにも盛り上がる、と言ったところなのだろう。

 わたくしは、今日のために用意した、胸元がいつもより少しだけ大胆に開いた深紅のドレスを翻す。

 内心では、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張しているけれど、逃げるわけにもいかないし。


「ちゃんとイヅルは、どこかに控えてるのかしら」


 頼るようなことには、ならないと思うが。

 唇には、いつもより濃い、熟れた果実のような色のルージュ。暗いなかで、映える化粧というものを考えた日がなかった。


「恋というものをすれば、そういうことも考えたのかしら?」


 でも、結局は、婚約者だってドレスを褒めてくれないような人だったものね。

 やがて、温室のガラス扉が軋み、長身の影が伸びる。


「おや、もう来ていたのか。殊勝なことだ、ベアトリーチェ」


 現れたのは、シューベルト侯爵家の嫡男、ヒュプシュ卿。

 記憶通りの整った顔立ち。夜色の髪、自信に満ちた藍の瞳。切れ者ぶりを発揮する若きエリート。

 でも、あの“悲恋の断片”を読み、わたくしを御しやすい獲物だと、高を括っているに違いない。


「ほう。普段のドレスとは、違った趣向だな。美しいものだ」


 ヒュプシュ卿は品定めするように、わたくしを上から下まで眺める。


(大丈夫よ、ビーチェ! 悪女になるのよ! あなたは、男を手玉に取る、破滅の女ファム・ファタールなのよ! そうよ、ドレスを褒められるだけ、あの馬鹿王子よりマシなのかもしれないわ!)


 マニュアル通り、マニュアル通り!

 『歴史に学ぶ、男を惑わす悪女のテクニック 百選』第三章、視線だけで男を虜にする!


「まあ、ヒュプシュ卿。お会いしとうございましたわ」


 練習通り、悩ましげな吐息を漏らし、ゆっくりとベンチから立ち上がる。

 そして、潤んだ瞳で彼を見つめ……ようとしたけど、目が合ってすぐに逸らしてしまった。だ、だって、思ったより威圧感がすごい!


「えっと。あなたの、その理知的な瞳に見つめられると。わたくし、まるで、熟した果実のように、とろけてしまいそうだわ。そう……芯まで?」


 練習したセリフを、なんとか絞り出す。でも、声は情けないくらい上ずって、顔はきっと林檎のように赤いはず! もうダメ!

 ヒュプシュ卿の顔からすっと笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、戸惑いと……呆れ?


「んん? お前、まさか、これは父親の差し金か?」

「まあ、そんな固い話はおよしになって。今宵は、あー、月がその、綺麗、ですわね?」

「月が綺麗、だと。ベアトリーチェ。聞いていた話と、随分と違うじゃないか。まるで出来の悪い役者が、無理に台本を読んでいるようだ」

「そ、そんなことはありませんことよ! そう、愛の炎が胸に燃えているわ!」

「ほう? では、本心から、俺に気があると?」


 ちぐはぐな会話に、ヒュプシュ卿の目が、すっと鋭く細められた。

 まずいわ! 彼、疑いを持ち始めている!


「も、もちろんですわ! 熱く、焦がれるほどに! あなたを想うと、夜も眠れなくて!」

「ほう?」


 ヒュプシュ卿は一歩、また一歩と、わたくしとの距離を詰めてくる。

 思わず、後ずさるわたくし。背中がひんやりとしたガラスの壁にぶつかった。逃げ場がない!


「では、聞こうか。お前の父君……ウェルギリ伯爵は、次に何を企んでいる?」


 わたくしは慌てて、思い出す。第四章、男の理性を麻痺させる、甘い話題転換術!!


「ち、父のことより、わたくしのことを、考えてほしいなー……なんて。うふふっ?」


 ヒュプシュ卿は、黙り込んでしまった。

 え、まずかったかしら?


「そ、それに、この温室の花の香りも、きっとあなた様を歓迎して」

「もういい」


 ヒュプシュ卿は、威圧的な声でわたくしの言葉を遮った。

 つかつかと数歩、距離を詰められもう間近。満たされた花の香りに、彼の纏う、ほろ苦い香水が混じった。


「なあ、ベアトリーチェ嬢。一つ、聞いてもいいか?」

「は、はひぃっ!? 何でございましょう?」


 近い、近いわ! この方、紳士淑女の距離感をご存じないのかしらっ!?


「お前は、本当に俺のことが好きなのか?」


 心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。

 深い藍色の瞳が、わたくしの嘘を、すべて見透かそうとしている。


「もちろんですわ! 熱く、焦がれるほどに! その証拠に、こうして、わたくし、あなた様に会いに」

「ならばっ!」


 温室の壁をドン!と叩いた。これが書物にあった壁ドンというやつ!? きゃーっ! わたくしには、まだ早いわ!

 至近距離で覗き込んでくる、藍色。もう、わたくしにはなにがなんだかわからないっ!


「口づけくらいは、出来るのだろうな?」

「ひぃっ!?」


 き、キスですって!? 計画にはないわ! マニュアルにはあったけど、練習なんかしてるわけないものっ!


「本当に俺を好いているというのなら、その証拠を見せてみろ」


 大きな手が、わたくしの顎をくい、と掴む。

 端正な顔が、すぐ目の前に。わたくしの頭は、完全にショート。


(どうしましょう! あ、唇が、くちびるがーーっ! 人生終わっちゃうっ! ――ああ。なら初めては)


 ――そう、せめて初めては。

 パニックで目を固く閉じた、その瞬間だった。


 ガッシャァァァン!!!


 温室のガラスの扉が、凄まじい音を立てて蹴破られる。

 そして、そこに飛び込んできたのは。


「――そこまでだ、ヒュプシュッッ!」


 怒りで顔を朱に染めた、バージル殿下その人だった!


「なっ、殿下!? なぜ、あなたがここに!?」

「我が婚約者に、汚らわしい手で触れるな! 万死に値するぞ!」

「そ、そんなっ」


 遅れて飛び込んできた騎士ローラントが、剣に手をかけ、退路を塞ぐように立つ。


「ヒュプシュ卿、もはや逃げ場はありませんぞ!」


 三人の男たちの怒号と剣幕。もう、温室は完全な修羅場と化していた。

 ヒュプシュ卿は、この状況が信じられないとばかりに顔を歪める。


「これは罠かっ! シャーデフロイの魔女め、俺を嵌めるために殿下まで呼び込んでいたのか!」


 バージル殿下は、わたくしとヒュプシュ卿を交互に睨みつける。え、その眼はどういう気持ちの眼なの? っていうか。


(計画と全然違う! なんで殿下自ら、わたくしを助けに来るみたいな展開になってるのよーっ!)


 頭を抱えてしゃがみ込みたいけど、必死でこらえる。

 さらに、なぜか駆けつけてきた誰かに抱き着かれる。むぎゅー??


「ビーチェ様! ルチアは、ルチアは心配しておりました! 遅くなっても申し訳ございませんっ!」

「な、なぜ、ルチアまでいますの???」

「ビーチェ様が、狙われているとの投書があったのです! 何者かの妨害もあり、こんなタイミングに! うう、殿下という婚約者がいるのに、なんて卑劣なことを!」


 慌てて、ヒュプシュ卿が弁解しようとする。


「ち、違う! これは、俺からというか、この女が好いてると……そうだ、少なくとも合意なんだっ!」


 が、それより早く、バージル殿下が重い口を開いた。


「見苦しいぞ、ヒュプシュ。言い訳は聞かぬ。このベアトリーチェ嬢が、男に軽々しく身を許すような、浅はかな女ではないことくらい、この私が一番よく知っている」

「「「えっ?」」」


 わたくしと、ルチアと、ヒュプシュ卿の声が、綺麗にハモった。

 い、今、この朴念仁王子、なんて言ったの!?


「令嬢が己の身を囮に、事件を解決しようとしていたのはわかっている。貴様が卑怯な手で、呼び出したこともな」

「なっ!? お、覚えが! 俺は覚えが全然ないっ!」

「外国勢力と手を組んで、貴様が怪しい根回ししていたことくらい証拠が挙がっているのだ!」

「それと、これとはっ!? それ、今全然関係ないやつじゃないかっ!」


 あれ、バージル殿下が「宰相派が、わたくしを罠に嵌めた」と、斜め上の深読みをしている???


「あ、あのー。殿下?」

「問答無用っ! ローラント、この男を引っ立ていっ!」

「ははっ、直ちに!」


 もう、話を聞いてもらえない!

 あっという間に、押し寄せて来た騎士たちに連行されていく、ヒュプシュ卿。

 唖然とするわたくしに、バージル殿下は、フン、と鼻を鳴らした。


「君もやりかたを選べ。あんな安っぽい男に、隙を見せるな」

「は、はいぃ!?」

「これも、何か事情があってのことなのだろうがな。まったく本当に、手が焼ける」


 そう言い残し、バージル殿下はどこか疲れたような、でも、心配するような眼差しを向けて去っていく。


(なんですの、今の!? あの態度、全然嫌われてないじゃないの!? むしろ、庇われた!?)


 計画は、またしても大失敗。


 結局、この大騒動の後。ヒュプシュ卿は『王太子の婚約者に無理強いをした卑劣漢』として捕縛。責任を追及されててしまい。

 わたくしの作戦は、婚約者の貞操の危機を、愛に燃える王子様が救った、という、とんでもない英雄譚にすり替わってしまった。


 あ、あれ? ねえ、ちょっと神様!

 婚約破棄への道は、どうしてこんなにも、遠くて険しいのでしょうか! わたくし何かしました!?

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