静まり返った、帰り道の馬車。
窓の外を流れる王都の灯りが、ぼんやりと滲んで見える。
頑張ったのに。必死で考えて、悪女になろうとしたのに。どうして、なにもかもが裏目に出てしまうのだろう。
もう、自分が何をしたいのかすら、わからなくなってしまっていた。
「……わたくしって、なんなのかしら」
絞り出した声は、自分のものではないみたいだ。
「ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイって、誰なの? もう、自分がわからない」
まとまらない気持ちが、そのままから口から出てしまった。
静寂を破ったのは、正面のシートに座る執事。イヅルは銀縁眼鏡の位置を、すちゃ、と無機質な仕草で直す。
「お嬢様、こちらを」
差し出されたのは、一通の手紙。ローラント殿からだという。でもそこには、王家を示す獅子の封蝋があった。
「バージル殿下からの、急ぎのお手紙にございます」
「はひっ!? で、殿下から。なんで今っ!?」
反射的に背筋が伸びる。あの修羅場の後で、いったい何を?
恐る恐る、震える指で封を切り、上質な羊皮紙を取り出し広げた。
そこには、いつものバージル殿下らしくない、焦りが染み出すようなインクの跡。
『此度のこと、君の潔白は信じよう。だが、二度とあのような軽率な真似はするな。君に何かあれば、シュタウフェン家が、そう王家が困るのだ。今度の夜会では、エスコート役くらいは務めてやる。だから、余計な心配をさせるな』
「はぁああああ!? なんなんですの、この方は! 今さら、どの口がそれを言っているのよっ!」
「お嬢様、不敬罪でございます。馬車の中とはいえ、お言葉が過ぎますと断頭台が近づきます」
「でもっ、イヅル! おかしいでしょう!?」
なんなの、この手紙! 不器用な優しさ!? それとも、隠しきれない独占欲!?
どれにしたって、わたくしが望む“穏便な婚約破棄”から、光の速さで遠ざかっているじゃないの!
「はあ、これでは本当に結婚させられてしまいますわ」
「おや、おかしいですね」
「何が、よ」
わたくしがジロリと睨んでも、にこやかな仮面を崩さない専属執事。
「そもそもお嬢様は、王妃になること自体は、そこまで嫌悪されていなかったのでは?」
確かに。言われてみれば、そうだった。
国母という立場は栄誉だし、どちらかといえば乗り気だった。もし、バージル殿下さえ、最初からほんの少しでも優しかったら。
そう、わたくしだって、こんな面倒な策を弄する必要はなかったかもしれない。
「でも、わたくし。今は、嫌よ。どうしてかしら」
「バージル殿下が、お嫌いで?」
「そりゃ、そうよ! 少なくとも、好きでは断じてないわ! だって、どんなに歩み寄ろうとしても、あの方はわたくしを拒絶した! それなのに、今さら態度を変えたからって、今までの仕打ちが全部ゼロになるわけじゃない!」
「そうですか。では、殿下の“何が”一番、お気に召さないので?」
なにって、そんなの。山ほどあるわ。
わたくしは、これまでの出来事を、一つひとつ思い返す。
彼のために新調した水仙のドレスを、褒めてくれなかったことが、嫌。
アカデミーで孤立したわたくしの、傍にいてくれなかったことも、嫌。
遠巻きに、疑いの眼差しばかりを向けてくるのも、嫌。
欲しい時に、欲しい優しさをくれなかった。微笑んでくれなかった。
わたくしが本当に欲しかった、たった一言の“労い”を、くれなかったことが、嫌。
「そうね、イヅル。でも、なかでも一番はね」
わたくしが、許せなかったこと。
あの悪夢のようなお茶会で、心が凍りついた、あの瞬間を。
「殿下は、あなたのことを馬鹿にしたわ。……あれが、一番、嫌だった」
(シャーデフロイ家に、辺境の島国から来た一族が仕えていると)
(祖国から追放された身の上か? 流刑された犯罪者ではあるまいな?)
あの時の、傲慢で、無神経な言葉。
イヅルは完璧な執事として、表情一つ変えずに受け流したけれど。わたくしの中では、消えない棘として、ずっと燻り続けていた。
「わたくしの執事を、犯罪者の末裔呼ばわりした。あの時の気持ち、わたくしは忘れていないわ」
「……ビーチェお嬢様」
「あなたはどうせ、何とも思っていないのでしょう? だから代わりにわたくしが、ずっと、覚えていてあげるの」
わたくしは、イヅルの顔をまっすぐに見つめて、言い切った。
「わかったかしら。わたくしの大事な、大事な――
――瞬間。
イヅルの黒曜石の瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
いつも貼り付けている、あの食えない微笑みが。一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、崩れ落ちるのを、わたくしは見た。
けれどすぐに、いつものイヅル・キクチに戻る。我が家に仕える、キクチ家の末裔……最も才ある鬼子に。
「左様でございましたか。これは。私めは、なんともはや、幸せ者でございますね」
また、いつもの慇懃無礼な態度。いつものお辞儀。
「ただ、お嬢様。お忘れなきよう。私めは、どこまでいっても、ただの執事でございます。お嬢様がどなたに、どのような形で恋い焦がれようと、それは、この執事のあずかり知らぬこと」
イヅルは言葉を切り、ゆっくりと窓外へ視線を移す。
横顔に、先ほどまであったはずの動揺は、欠片も見当たらなかった。
「そうですね。それでも――」
静かに続けられた声は、いつもより、どこか硬質な響きを帯びる。
「貴女様の“物語”が、拙く、陳腐でありきたりなものであることは、我慢がならない。ですから、この私めが、よりスリリングで、極上のショーに仕立て差し上げねばと。僭越ながら、そう思うのでございますよ」
――嘘つき。
なぜだか、はっきりとそう思った。
今なら裏にある、本当の気持ちが、流れ込んでくるような気がした。
わたくしは、無意識に触れる。今日、失いかけた、唇の感触を思い出して。胸の奥が、ちくり、と痛んだ。
だから、試してみたくなったの。この男の、仮面を。
「なら、わたくしが、ヒュプシュ卿とキスをしても、よかったというわけ?」
イヅルの動きが、明らかに、止まった。
ほんの数秒。けれど、それは永遠のようにも感じられる、濃密な沈黙。
「……面白いことをお尋ねになりますね」
「面白くないわ。答えて」
「いえ。面白いですよ。……それを、今、この私めに聞くということは」
イヅルが、ゆっくりと向き直る。
普段見せない、深い、深い闇を湛えた瞳で、わたくしを射抜いた。それは飢えた、獣の目。
「答えを聞く覚悟が、おありだということですね? ――マイレディ」
音もなく、シートから身を乗り出し、じり、と距離を詰めてくる。狭い馬車の中、もう逃げ場はない。
背中が、ごつり、と押し付けられた。
でも、不思議と、嫌ではなかった。怖くも、なかった。
ただ、この先に何が起こるのか、知りたくて、知りたくて、たまらなかった。