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第9話 あなたがためのラプソディ

 静まり返った、帰り道の馬車。

 窓の外を流れる王都の灯りが、ぼんやりと滲んで見える。

 頑張ったのに。必死で考えて、悪女になろうとしたのに。どうして、なにもかもが裏目に出てしまうのだろう。

 もう、自分が何をしたいのかすら、わからなくなってしまっていた。


「……わたくしって、なんなのかしら」


 絞り出した声は、自分のものではないみたいだ。


「ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイって、誰なの? もう、自分がわからない」


 まとまらない気持ちが、そのままから口から出てしまった。

 静寂を破ったのは、正面のシートに座る執事。イヅルは銀縁眼鏡の位置を、すちゃ、と無機質な仕草で直す。


「お嬢様、こちらを」


 差し出されたのは、一通の手紙。ローラント殿からだという。でもそこには、王家を示す獅子の封蝋があった。


「バージル殿下からの、急ぎのお手紙にございます」

「はひっ!? で、殿下から。なんで今っ!?」


 反射的に背筋が伸びる。あの修羅場の後で、いったい何を?

 恐る恐る、震える指で封を切り、上質な羊皮紙を取り出し広げた。

 そこには、いつものバージル殿下らしくない、焦りが染み出すようなインクの跡。


『此度のこと、君の潔白は信じよう。だが、二度とあのような軽率な真似はするな。君に何かあれば、シュタウフェン家が、そう王家が困るのだ。今度の夜会では、エスコート役くらいは務めてやる。だから、余計な心配をさせるな』


「はぁああああ!? なんなんですの、この方は! 今さら、どの口がそれを言っているのよっ!」

「お嬢様、不敬罪でございます。馬車の中とはいえ、お言葉が過ぎますと断頭台が近づきます」

「でもっ、イヅル! おかしいでしょう!?」


 なんなの、この手紙! 不器用な優しさ!? それとも、隠しきれない独占欲!?

 どれにしたって、わたくしが望む“穏便な婚約破棄”から、光の速さで遠ざかっているじゃないの!


「はあ、これでは本当に結婚させられてしまいますわ」

「おや、おかしいですね」

「何が、よ」


 わたくしがジロリと睨んでも、にこやかな仮面を崩さない専属執事。


「そもそもお嬢様は、王妃になること自体は、そこまで嫌悪されていなかったのでは?」


 確かに。言われてみれば、そうだった。

 国母という立場は栄誉だし、どちらかといえば乗り気だった。もし、バージル殿下さえ、最初からほんの少しでも優しかったら。

 そう、わたくしだって、こんな面倒な策を弄する必要はなかったかもしれない。


「でも、わたくし。今は、嫌よ。どうしてかしら」

「バージル殿下が、お嫌いで?」

「そりゃ、そうよ! 少なくとも、好きでは断じてないわ! だって、どんなに歩み寄ろうとしても、あの方はわたくしを拒絶した! それなのに、今さら態度を変えたからって、今までの仕打ちが全部ゼロになるわけじゃない!」

「そうですか。では、殿下の“何が”一番、お気に召さないので?」


 なにって、そんなの。山ほどあるわ。

 わたくしは、これまでの出来事を、一つひとつ思い返す。


 彼のために新調した水仙のドレスを、褒めてくれなかったことが、嫌。

 アカデミーで孤立したわたくしの、傍にいてくれなかったことも、嫌。

 遠巻きに、疑いの眼差しばかりを向けてくるのも、嫌。

 欲しい時に、欲しい優しさをくれなかった。微笑んでくれなかった。

 わたくしが本当に欲しかった、たった一言の“労い”を、くれなかったことが、嫌。


「そうね、イヅル。でも、なかでも一番はね」


 わたくしが、許せなかったこと。

 あの悪夢のようなお茶会で、心が凍りついた、あの瞬間を。


「殿下は、あなたのことを馬鹿にしたわ。……あれが、一番、嫌だった」


(シャーデフロイ家に、辺境の島国から来た一族が仕えていると)

(祖国から追放された身の上か? 流刑された犯罪者ではあるまいな?)


 あの時の、傲慢で、無神経な言葉。

 イヅルは完璧な執事として、表情一つ変えずに受け流したけれど。わたくしの中では、消えない棘として、ずっと燻り続けていた。


「わたくしの執事を、犯罪者の末裔呼ばわりした。あの時の気持ち、わたくしは忘れていないわ」

「……ビーチェお嬢様」

「あなたはどうせ、何とも思っていないのでしょう? だから代わりにわたくしが、ずっと、覚えていてあげるの」


 わたくしは、イヅルの顔をまっすぐに見つめて、言い切った。


「わかったかしら。わたくしの大事な、大事な――渡り鴉レイヴン?」


 ――瞬間。

 イヅルの黒曜石の瞳が、ほんのわずかに見開かれた。


 いつも貼り付けている、あの食えない微笑みが。一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、崩れ落ちるのを、わたくしは見た。

 けれどすぐに、いつものイヅル・キクチに戻る。我が家に仕える、キクチ家の末裔……最も才ある鬼子に。


「左様でございましたか。これは。私めは、なんともはや、幸せ者でございますね」


 また、いつもの慇懃無礼な態度。いつものお辞儀。


「ただ、お嬢様。お忘れなきよう。私めは、どこまでいっても、ただの執事でございます。お嬢様がどなたに、どのような形で恋い焦がれようと、それは、この執事のあずかり知らぬこと」


 イヅルは言葉を切り、ゆっくりと窓外へ視線を移す。

 横顔に、先ほどまであったはずの動揺は、欠片も見当たらなかった。


「そうですね。それでも――」


 静かに続けられた声は、いつもより、どこか硬質な響きを帯びる。


「貴女様の“物語”が、拙く、陳腐でありきたりなものであることは、我慢がならない。ですから、この私めが、よりスリリングで、極上のショーに仕立て差し上げねばと。僭越ながら、そう思うのでございますよ」


 ――嘘つき。


 なぜだか、はっきりとそう思った。

 今なら裏にある、本当の気持ちが、流れ込んでくるような気がした。

 わたくしは、無意識に触れる。今日、失いかけた、唇の感触を思い出して。胸の奥が、ちくり、と痛んだ。


 だから、試してみたくなったの。この男の、仮面を。


「なら、わたくしが、ヒュプシュ卿とキスをしても、よかったというわけ?」


 イヅルの動きが、明らかに、止まった。

 ほんの数秒。けれど、それは永遠のようにも感じられる、濃密な沈黙。


「……面白いことをお尋ねになりますね」

「面白くないわ。答えて」

「いえ。面白いですよ。……それを、今、この私めに聞くということは」


 イヅルが、ゆっくりと向き直る。

 普段見せない、深い、深い闇を湛えた瞳で、わたくしを射抜いた。それは飢えた、獣の目。


「答えを聞く覚悟が、おありだということですね? ――マイレディ」


 音もなく、シートから身を乗り出し、じり、と距離を詰めてくる。狭い馬車の中、もう逃げ場はない。


 背中が、ごつり、と押し付けられた。


 でも、不思議と、嫌ではなかった。怖くも、なかった。

 ただ、この先に何が起こるのか、知りたくて、知りたくて、たまらなかった。

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