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第10話 ~エピローグ~恋とは、狂気そのものなのだ

 思えば、僕にとっての世界は、いつだって色褪せた盤上だった。

 人の喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も。すべてはありふれたもので、予測可能な振る舞いだった。


 イヅル・キクチ。僕が僕であると認識したその時から。

 すべてを遠い国の、史書を読むように理解していた。

 同時に、人の心という臓器から溢れ出す、温かい情動の血が、自分には決定的に欠落していることも。


「……ひどく、乾いている」


 喉が、血が、皮膚が、髪が、目が。外も内も、僕という存在そのものが、砂漠のように。


 古老たちの語る、故郷の話はいつだって血生臭かった。


 極東の島国、長きに渡る戦乱の時代。

 我らが祖は、隠密傭兵集団『鴉天狗衆』における菊池一党として、闇を喰らい、血を啜り、歴史の裏で暗躍したという。

 否、その真の名は、敵の首で弄び、骨で笛を吹いたという、凶悪な殺人集団――鬼口キクチ


 いくつ首級を上げたのか、いくつ城を更地にし、土地田畑、川を血に染めたのだろう。

 だが、遠い御伽噺になってしまった。


「僕も、その時代に生まれればよかった」


 僕は生まれるのが、遅すぎたのだ。

 どうせなら、阿鼻叫喚の地獄を歩いてみたかった。そうすれば、この焼けつくような渇きも、業火で少しは紛れただろうか。


 戦乱の終息は、我らから牙と生きる場を奪った。大陸へと渡り、海を越え、流浪する百年の旅路の果て。

 我らは、ひとつの根城を見出した。


 ――この、シャーデフロイ家に仕えることで。


 なぜ、とは思うまい。


 他者の不幸と、密やかな裏切りを礎に築かれた、壮麗なる骸の館。

 紋章に刻まれた『翼ある毒蛇』と、悲劇に寄り添う『リンドウ』の花。

 曰く、「誰かの悲劇に寄り添い、我らは正義を成す」と。


 一見、崇高なようでいて、結局は他者の不幸を啜って咲く、歪な徒花。


 その在り方は、『鴉天狗衆』たる鬼口の業と、奇妙なほどによく馴染んだろう。


「でも、その蜜すら、僕の渇きを潤しはしない」


 どんな修行も容易く身につき、何をしても苦痛を感じない。

 一族の者たちは、本能で見抜いたのだろう。僕を“鬼子”と恐れ疎んだ。


「僕とて望むところ。古き血に安住し、牙を錆びつかせた者など、もはや同族ではない」


 長老たちは、僕に御役目を与えるのを渋った。

 退屈が極まれば、一族もろとも盤から消し去り、本物の戦場を渡り歩くのも一興か。そう考えていた矢先だった。


 予定が変わったのは、他ならぬウェルギリ伯爵が、僕を見出したからだ。


「成績が優秀な者を、遊ばせておく道理はなかろう。……小僧、名は?」


 キクチ勢の制止を一喝。伯爵は、僕を執事見習いとして抜擢した。

 悪人面の下に、善良すぎる魂を隠した、矛盾した男。伯爵がなぜ、策謀と悪徳に手を染められるのか。理由は、まだわからなかった。


 だが、人の世を、特等席で眺められるようになったのは悪くない。

 この広大な劇場は、僕らが演じている舞台より、時にもっと悲惨な見世物を出してくれるから。


 その程度の認識だった。


「年頃は、娘の世話役にするには丁度よかろうな」


 ――あの日、ベアトリーチェに出会うまでは。


 まだ幼い面差しの、主の一人娘。最初は見目麗しい、よくできた人形にしか見えなかった。

 薔薇色のウェーブヘア、紫苑の瞳、透き通るような白い肌。

 なるほど、今まで見たどの人間よりも、愛らしいとは思った。


「初めまして。イヅル・キクチでございます。これからはお嬢様のお世話を担当させていただきます」

「……イヅル?」

「ええ、そうですよ。お嬢様」

「イヅルは……わたくしのなのかしら?」

「――は?」


 思ってもみない言葉だった。誰が、誰のものだって?

 すると、なにかを見通すような目で、シャーデフロイ夫人がにっこり笑った。


「そうよ。イヅルは、今日からビーチェのお世話をしてくれる、あなただけの執事なのよ」

「わたくしだけの……」


 母である夫人の言葉を、幼いビーチェは、反芻する。

 そして、きらきらと輝く紫苑の瞳が、まっすぐに僕を見上げた。


「嬉しいわ! よろしくね、わたくしのイヅル!」


 ――所有の宣言。

 恐れなく、僕という人間を“自分のもの”だと言い切った。

 意味の分からないノイズが走る。なんだ、この感覚は。理解できない。だが、決して、不快ではなかった。


 ビーチェの世話役としての年月は、興味深い観察の日々。


 ちぐはぐで、矛盾していて、僕の予測通りには決して動かない。

 淑女のフリをしたかと思えば、厨房から盗み食いしたお菓子でリスのように頬を膨らませている。

 プライドが高い癖に、ドレスの裾を踏んで自爆しては泣きべそをかく。

 縦横無尽に跳ね回り、時に天井にぶつかって泣きべそをかく、予測不能なビー玉。


 僕は、いつしか目が離せなくなっていた。


「ほら、わたくし天才でしょ! 見てみて!」


 ああ、間違ってはいない。

 類まれなる努力と奔放さのなかに、時折、見せる閃きは明らかに非凡。


「これは、ビーチェお嬢様が考え付いたものですか?」

「うん、そうよ!」


 これは、僕を傍につけるわけだと思った。


「今回作ったこの薬品を使うとね。新しい羊皮紙が、古く見えるんだよ!」


 世間に無防備に出してはいけない。当たり前のようにこんなものを生み出す。


「あはは、お父様が仕事で使ってる書類真似しちゃった。見てみて……そっくりでしょ?」


 無邪気に見せる。伯爵の筆跡どころか、インク、様式、飾り、あらゆる点を模倣した偽の公文書。


 ああ、なんと。ウェルギリ伯爵が、なぜ僕を側に置いたのか。

 いつどこで、この閃きが発揮されるかまるでわからないからだ。あまりにも無防備な『宝』、危険な才能の『刃』。


 僕がこの刃の『鞘』となり、『砥石』となることを期待されている。僕は初めて、心から「面白い」と思った。


「ねーねー、イヅルはいつもわたくしがしてほしいことを、してくれるね」

「左様ございますか。それを気が利く、というのですよ」

「そっか。じゃ、気が利くから、わたくしもイヅルになにかしてあげる」


 ビーチェにとって、贈り物は日頃からもちろん縁がある。が、自分の誕生日の翌日だったこともあってかそう言った。


「うーん、そうでございますね。私めはビーチェお嬢様の専属執事であるからにして。気が利いて当然なのでございます」

「違うわよ、イヅル」

「違う、とは?」

「わたくしはね。欲しいものを言え、と言ったのよ」


 明確に、幼子は命じた。

 奇妙に思った。僕は気まぐれで、君を殺せるのだがな。


「もし、あなたが誕生日なら、お願いを聞いてあげる。でも、欲しいものがあるなら、今言いなさい。わかった?」


 欲しいもの。考えたことがない問いだった。

 なにかを欲しいと思ったことが、そもそもあっただろうか。


「ありませんね、ビーチェお嬢様。なにひとつ、思いつかないのでございます」


 薔薇色の髪をくるくると指で、巻き取るように思索にふけるビーチェ。いったい何を思ったのだろうか。


「なら、こうしましょうか。イヅル」


 欲しいものが出来たら、それまでの分。今までの分、まとめて全部上げるわ。


「だから、ながく長くわたくしのために仕えるのよ」


 力強い約束。僕の人生はこの時から、ただ一つの目的を得た。

 いつか、僕が心の底から「欲しい」と願うなにかを見つけた時。この麗しき主君は、果たして、そのすべてをくれるのだろうか?


「それは大変、素敵な約束でございますね。さすがお嬢様です」

「ふふん♪ そうでしょう、もっと褒め称えなさい」

「ええ、もちろんですよ。可愛らしいチェチェ」

「チェチェって呼ばないで! 赤ちゃんみたいだから!」


 それまでは、ちゃんと繋がれてやることにした。

 君が忘れても、僕は絶対に忘れないから。今後、一生。


「ねえ、知ってる? 王妃様が一番偉いんだって」

「今度は何の話です?」

「わたくしが成れるかもしれない地位。すっごく偉くなろうと思って、先生に聞いてみたらそう言われた」

「ああ、そういう話ですか。また突拍子もないことを」


 国王に成れると言ったら、さすがに反逆罪だが。なるほど、王妃と来たか。


「成りたいですか?」

「そうねー、えらくなりたいもんね。そしたら何でもできるよ? きっと」

「なんでも、でございますか」


 そうすれば、僕が望んだ時の報酬はどれほどのものになるのか。別にそれが理由ではないが。

 あえて、動いてみるのも、良いかなと思った。


 だから、ビーチェを『王妃』へと導くために、僕は盤上の駒を動かし始めた。腑抜けたキクチを掌握し、数年をかけ危うい均衡を操り、王子との婚約まで至った。

 けれど、予想外だったのは――。


 僕が用意した舞台の上で、絶望の淵に突き落とされた彼女が、自ら『悪役』という、輝かしい役を演じ始めようとしたことだ。


「イヅル! この国にある歴史上の悪女、毒婦に関する書物を、片っぱしから集めてきなさい!」


 馬鹿な道化だ。ああ、だが、なぜこうも面白い。

 絶望に食い潰されず、この退屈な世界に、たった一人で牙を剥こうとする。


「喜んで。我が主演女優プリマドンナ


 我が麗しの主演女優。

 閃きと空虚が混ざった稚拙な理論と、いつだって裏目に出る破滅的な実践。


「侵されてはならない聖域――穢す存在は、何よりも許しがたい。そうは思いませんこと?」


 王家絶対すらも塗りつぶし。己の色に染め上げていく。


「わたくしの、個人的な日記の、ほんの一ページよ。いえ、実際には違うけれど。そう見えない?」


 ほら、また僕の予定調和をぶち壊す。幼い頃からずっとそうだ。

 偽りでも恋心が綴られた一片。僕をこんなことに使うなんて、どうしてくれようか。


「過程はどうあれ、ちゃんと全部くださいますよね。……ビーチェお嬢様?」


 どうせくれるなら、この女の人生を、この僕だけのものにしたい。


 ビーチェが栄華の頂点で輝く様も、絶望の泥濘で足掻く様も。喜劇も、悲劇も、すべてを、誰にも邪魔されずに、この目で見届けたい。


 彼女のポンコツな脚本を、最高のスリラーに、極上のサスペンスに、そして、とびきりのラブコメに、脚色して差し上げた。

 ビーチェが困惑し、右往左往する姿を見るのが、何よりの娯楽だった。


 そう、ずっと。自分は『劇作家』でいられるはずだったのだ。


 ――あの日、馬車の中で、ビーチェがあんなことを言うまでは。


 『彼は、あなたのことを馬鹿にしたわ。……あれが、一番、嫌だった』

 『だから、代わりにわたくしが、ずっと、覚えていてあげるの』

 『わたくしの大事な、大事な――渡り鴉レイヴン?』


 ああ、やはり。

 この、喉が焼けつくような渇き。心臓を内側から食い破るような飢餓感。


「なら、わたくしが、ヒュプシュ卿とキスをしても、よかったというわけ?」


 僕に、心を尋ねるな。

 欲しいものを思い出させるな。

 覚悟がないなら、その領域に、決して触れるな。

 今すぐにでも、この舞台ごと、貴女を喰らい尽くしてしまいそうになるのだから。


「答えを聞く覚悟が、おありだということですね? ――マイレディ」


 せっかく忘れたふりをして、完璧な執事を演じていたというのに。


「――あまり思い出させるなよ、僕のチェチェ」


 この喉の渇きも、心臓を突き破るほどの飢餓感も。

 脚本にないセリフを求める。もはや、お前のせいなのだと。


「では、教えて差し上げましょう。恋とは、狂気そのものなのだと」



***



 ――ああ、神様。


 悪役令嬢になろうとした、わたくしの波乱万丈な物語。その結末は。

 結局のところ、どう足掻いても、誰を愛そうとしても。


 世界一執着心の強い腹黒執事に、身も心も、魂のひとかけらまで、すべて絡めとられてしまう、というお話だったようですわ。


 まあ、でも。それも、きっと悪くありませんわね。


 ただ、その……やっ!? ちょっとイヅル、だから、少しは優しくしてぇっ!? んああっ!?

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