思えば、僕にとっての世界は、いつだって色褪せた盤上だった。
人の喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も。すべてはありふれたもので、予測可能な振る舞いだった。
イヅル・キクチ。僕が僕であると認識したその時から。
すべてを遠い国の、史書を読むように理解していた。
同時に、人の心という臓器から溢れ出す、温かい情動の血が、自分には決定的に欠落していることも。
「……ひどく、乾いている」
喉が、血が、皮膚が、髪が、目が。外も内も、僕という存在そのものが、砂漠のように。
古老たちの語る、故郷の話はいつだって血生臭かった。
極東の島国、長きに渡る戦乱の時代。
我らが祖は、隠密傭兵集団『鴉天狗衆』における菊池一党として、闇を喰らい、血を啜り、歴史の裏で暗躍したという。
否、その真の名は、敵の首で弄び、骨で笛を吹いたという、凶悪な殺人集団――
いくつ首級を上げたのか、いくつ城を更地にし、土地田畑、川を血に染めたのだろう。
だが、遠い御伽噺になってしまった。
「僕も、その時代に生まれればよかった」
僕は生まれるのが、遅すぎたのだ。
どうせなら、阿鼻叫喚の地獄を歩いてみたかった。そうすれば、この焼けつくような渇きも、業火で少しは紛れただろうか。
戦乱の終息は、我らから牙と生きる場を奪った。大陸へと渡り、海を越え、流浪する百年の旅路の果て。
我らは、ひとつの根城を見出した。
――この、シャーデフロイ家に仕えることで。
なぜ、とは思うまい。
他者の不幸と、密やかな裏切りを礎に築かれた、壮麗なる骸の館。
紋章に刻まれた『翼ある毒蛇』と、悲劇に寄り添う『リンドウ』の花。
曰く、「誰かの悲劇に寄り添い、我らは正義を成す」と。
一見、崇高なようでいて、結局は他者の不幸を啜って咲く、歪な徒花。
その在り方は、『鴉天狗衆』たる鬼口の業と、奇妙なほどによく馴染んだろう。
「でも、その蜜すら、僕の渇きを潤しはしない」
どんな修行も容易く身につき、何をしても苦痛を感じない。
一族の者たちは、本能で見抜いたのだろう。僕を“鬼子”と恐れ疎んだ。
「僕とて望むところ。古き血に安住し、牙を錆びつかせた者など、もはや同族ではない」
長老たちは、僕に御役目を与えるのを渋った。
退屈が極まれば、一族もろとも盤から消し去り、本物の戦場を渡り歩くのも一興か。そう考えていた矢先だった。
予定が変わったのは、他ならぬウェルギリ伯爵が、僕を見出したからだ。
「成績が優秀な者を、遊ばせておく道理はなかろう。……小僧、名は?」
キクチ勢の制止を一喝。伯爵は、僕を執事見習いとして抜擢した。
悪人面の下に、善良すぎる魂を隠した、矛盾した男。伯爵がなぜ、策謀と悪徳に手を染められるのか。理由は、まだわからなかった。
だが、人の世を、特等席で眺められるようになったのは悪くない。
この広大な劇場は、僕らが演じている舞台より、時にもっと悲惨な見世物を出してくれるから。
その程度の認識だった。
「年頃は、娘の世話役にするには丁度よかろうな」
――あの日、ベアトリーチェに出会うまでは。
まだ幼い面差しの、主の一人娘。最初は見目麗しい、よくできた人形にしか見えなかった。
薔薇色のウェーブヘア、紫苑の瞳、透き通るような白い肌。
なるほど、今まで見たどの人間よりも、愛らしいとは思った。
「初めまして。イヅル・キクチでございます。これからはお嬢様のお世話を担当させていただきます」
「……イヅル?」
「ええ、そうですよ。お嬢様」
「イヅルは……わたくしのなのかしら?」
「――は?」
思ってもみない言葉だった。誰が、誰のものだって?
すると、なにかを見通すような目で、シャーデフロイ夫人がにっこり笑った。
「そうよ。イヅルは、今日からビーチェのお世話をしてくれる、あなただけの執事なのよ」
「わたくしだけの……」
母である夫人の言葉を、幼いビーチェは、反芻する。
そして、きらきらと輝く紫苑の瞳が、まっすぐに僕を見上げた。
「嬉しいわ! よろしくね、わたくしのイヅル!」
――所有の宣言。
恐れなく、僕という人間を“自分のもの”だと言い切った。
意味の分からないノイズが走る。なんだ、この感覚は。理解できない。だが、決して、不快ではなかった。
ビーチェの世話役としての年月は、興味深い観察の日々。
ちぐはぐで、矛盾していて、僕の予測通りには決して動かない。
淑女のフリをしたかと思えば、厨房から盗み食いしたお菓子でリスのように頬を膨らませている。
プライドが高い癖に、ドレスの裾を踏んで自爆しては泣きべそをかく。
縦横無尽に跳ね回り、時に天井にぶつかって泣きべそをかく、予測不能なビー玉。
僕は、いつしか目が離せなくなっていた。
「ほら、わたくし天才でしょ! 見てみて!」
ああ、間違ってはいない。
類まれなる努力と奔放さのなかに、時折、見せる閃きは明らかに非凡。
「これは、ビーチェお嬢様が考え付いたものですか?」
「うん、そうよ!」
これは、僕を傍につけるわけだと思った。
「今回作ったこの薬品を使うとね。新しい羊皮紙が、古く見えるんだよ!」
世間に無防備に出してはいけない。当たり前のようにこんなものを生み出す。
「あはは、お父様が仕事で使ってる書類真似しちゃった。見てみて……そっくりでしょ?」
無邪気に見せる。伯爵の筆跡どころか、インク、様式、飾り、あらゆる点を模倣した偽の公文書。
ああ、なんと。ウェルギリ伯爵が、なぜ僕を側に置いたのか。
いつどこで、この閃きが発揮されるかまるでわからないからだ。あまりにも無防備な『宝』、危険な才能の『刃』。
僕がこの刃の『鞘』となり、『砥石』となることを期待されている。僕は初めて、心から「面白い」と思った。
「ねーねー、イヅルはいつもわたくしがしてほしいことを、してくれるね」
「左様ございますか。それを気が利く、というのですよ」
「そっか。じゃ、気が利くから、わたくしもイヅルになにかしてあげる」
ビーチェにとって、贈り物は日頃からもちろん縁がある。が、自分の誕生日の翌日だったこともあってかそう言った。
「うーん、そうでございますね。私めはビーチェお嬢様の専属執事であるからにして。気が利いて当然なのでございます」
「違うわよ、イヅル」
「違う、とは?」
「わたくしはね。欲しいものを言え、と言ったのよ」
明確に、幼子は命じた。
奇妙に思った。僕は気まぐれで、君を殺せるのだがな。
「もし、あなたが誕生日なら、お願いを聞いてあげる。でも、欲しいものがあるなら、今言いなさい。わかった?」
欲しいもの。考えたことがない問いだった。
なにかを欲しいと思ったことが、そもそもあっただろうか。
「ありませんね、ビーチェお嬢様。なにひとつ、思いつかないのでございます」
薔薇色の髪をくるくると指で、巻き取るように思索にふけるビーチェ。いったい何を思ったのだろうか。
「なら、こうしましょうか。イヅル」
欲しいものが出来たら、それまでの分。今までの分、まとめて全部上げるわ。
「だから、ながく長くわたくしのために仕えるのよ」
力強い約束。僕の人生はこの時から、ただ一つの目的を得た。
いつか、僕が心の底から「欲しい」と願うなにかを見つけた時。この麗しき主君は、果たして、そのすべてをくれるのだろうか?
「それは大変、素敵な約束でございますね。さすがお嬢様です」
「ふふん♪ そうでしょう、もっと褒め称えなさい」
「ええ、もちろんですよ。可愛らしいチェチェ」
「チェチェって呼ばないで! 赤ちゃんみたいだから!」
それまでは、ちゃんと繋がれてやることにした。
君が忘れても、僕は絶対に忘れないから。今後、一生。
「ねえ、知ってる? 王妃様が一番偉いんだって」
「今度は何の話です?」
「わたくしが成れるかもしれない地位。すっごく偉くなろうと思って、先生に聞いてみたらそう言われた」
「ああ、そういう話ですか。また突拍子もないことを」
国王に成れると言ったら、さすがに反逆罪だが。なるほど、王妃と来たか。
「成りたいですか?」
「そうねー、えらくなりたいもんね。そしたら何でもできるよ? きっと」
「なんでも、でございますか」
そうすれば、僕が望んだ時の報酬はどれほどのものになるのか。別にそれが理由ではないが。
あえて、動いてみるのも、良いかなと思った。
だから、ビーチェを『王妃』へと導くために、僕は盤上の駒を動かし始めた。腑抜けたキクチを掌握し、数年をかけ危うい均衡を操り、王子との婚約まで至った。
けれど、予想外だったのは――。
僕が用意した舞台の上で、絶望の淵に突き落とされた彼女が、自ら『悪役』という、輝かしい役を演じ始めようとしたことだ。
「イヅル! この国にある歴史上の悪女、毒婦に関する書物を、片っぱしから集めてきなさい!」
馬鹿な道化だ。ああ、だが、なぜこうも面白い。
絶望に食い潰されず、この退屈な世界に、たった一人で牙を剥こうとする。
「喜んで。我が
我が麗しの主演女優。
閃きと空虚が混ざった稚拙な理論と、いつだって裏目に出る破滅的な実践。
「侵されてはならない聖域――穢す存在は、何よりも許しがたい。そうは思いませんこと?」
「わたくしの、個人的な日記の、ほんの一ページよ。いえ、実際には違うけれど。そう見えない?」
ほら、また僕の予定調和をぶち壊す。幼い頃からずっとそうだ。
偽りでも恋心が綴られた一片。僕をこんなことに使うなんて、どうしてくれようか。
「過程はどうあれ、ちゃんと全部くださいますよね。……ビーチェお嬢様?」
どうせくれるなら、この女の人生を、この僕だけのものにしたい。
ビーチェが栄華の頂点で輝く様も、絶望の泥濘で足掻く様も。喜劇も、悲劇も、すべてを、誰にも邪魔されずに、この目で見届けたい。
彼女のポンコツな脚本を、最高のスリラーに、極上のサスペンスに、そして、とびきりのラブコメに、脚色して差し上げた。
ビーチェが困惑し、右往左往する姿を見るのが、何よりの娯楽だった。
そう、ずっと。自分は『劇作家』でいられるはずだったのだ。
――あの日、馬車の中で、ビーチェがあんなことを言うまでは。
『彼は、あなたのことを馬鹿にしたわ。……あれが、一番、嫌だった』
『だから、代わりにわたくしが、ずっと、覚えていてあげるの』
『わたくしの大事な、大事な――
ああ、やはり。
この、喉が焼けつくような渇き。心臓を内側から食い破るような飢餓感。
「なら、わたくしが、ヒュプシュ卿とキスをしても、よかったというわけ?」
僕に、心を尋ねるな。
欲しいものを思い出させるな。
覚悟がないなら、その領域に、決して触れるな。
今すぐにでも、この舞台ごと、貴女を喰らい尽くしてしまいそうになるのだから。
「答えを聞く覚悟が、おありだということですね? ――マイレディ」
せっかく忘れたふりをして、完璧な執事を演じていたというのに。
「――あまり思い出させるなよ、僕のチェチェ」
この喉の渇きも、心臓を突き破るほどの飢餓感も。
脚本にないセリフを求める。もはや、お前のせいなのだと。
「では、教えて差し上げましょう。恋とは、狂気そのものなのだと」
***
――ああ、神様。
悪役令嬢になろうとした、わたくしの波乱万丈な物語。その結末は。
結局のところ、どう足掻いても、誰を愛そうとしても。
世界一執着心の強い腹黒執事に、身も心も、魂のひとかけらまで、すべて絡めとられてしまう、というお話だったようですわ。
まあ、でも。それも、きっと悪くありませんわね。
ただ、その……やっ!? ちょっとイヅル、だから、少しは優しくしてぇっ!? んああっ!?